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平成二十六年五月二十八日 水曜日
思えば千鶴さんに浮気調査の調査書を渡した日から、ちょうど一ヶ月が経っていた。
夏川さんは今日吉永貴子宅へ行くと言った。自らの推理が正しいかどうかをそこで証明するつもりなのだ。
スチール製の事務所の扉に対峙すると、やけに胸の鼓動が高鳴る。これが緊張というものだろう。一度肩の力を抜いてからノブを回す。
「おはようござい……?」
事務所には誰も居ない。奥の住居スペースから人の気配がするだけだ。事務所を通り抜け、住居スペースへの引き戸を引くと、目の前に居たのはいつもの夏川さんではなかった。普段は綺麗に髪をシチサンに分けて、事務所の机で新聞を読んでいるのだか、今日そこに居たのは寝癖だらけでグレーのパジャマを着た薄汚れた男だった。
いや、彼は間違いなく夏川一郎その人ではある。だが、俺が出勤した段階でまだそのような起き抜けの格好のままでいることは今までに無かったことだ。
「真樹君……。もうそんな時間だねぇ。急いで準備するよ」
「どうしたんですか? いつもなら身支度は終わってるのに」
「昨日真樹君が帰った後、遅くまで起きていたんだよ」
そう語る夏川さんの目元をよく見れば、確かに薄っすらと隈が浮かんでいる。大金持ちも庶民も寝起きのみすぼらしい様は変わらないのだという事を実感する。
「どうしてですか? 目当てのメールは受け取ったようですし……」
「実は遠藤さんに一つお願いをしたんだよ」
「お願い?」
「犯人を問い詰めるのに必要な証拠を見つけに行ってもらっていたんだよ」
遠藤さんは夏川さんに顎で使われているのだろうか? 夏川さんのことだから、それなりの報酬を渡したのだろう。
「何ですか? その証拠って?」
「それは見てのお楽しみだねぇ。紗知さんのお店に行った後、真樹君の運転で見つけに行っても良かったんだけど、あんまり遅い時間まで真樹君を働かせるのは悪いと思ってねぇ」
「それで、何でそんな遅くまで起きていたんですか?」
「その証拠を見つけるのに、時間がかかったからだよ。彼の興信所での仕事が終わってから行ってもらったからねぇ」
と、言いながら夏川さんは洗面所へ向かった。
急に遠藤さんが気の毒になった。彼はまるで夏川さんの助手になってしまったようだ。
しかし、これから犯人を問い詰めに行くのだから、俺の仕事を早くしなければならない。冷蔵庫の中を確認して朝食の献立を思案する。
ふと、これから犯人と対峙しようとしているのに余りにも日常的な事をしているのが何だかおかしくなって、小さく吹き出してしまった。
――午前九時半。白のセダンで事務所を出発した。行き先は吉永貴子宅だ。
「夏川さん? これから吉永貴子の家に行くってことは、犯人は……」
夏川さんはニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「この事件、厳密に言えば犯人は三人いるんだよ」
「三人!?」
「そう。一人は千鶴さんだよねぇ。フォードさんの保険金目当てに彼を殺害したんだから。そしてあと二人」
やたらと静かな口調が緊張感を煽る。あと二人とはどういうことか……
「二人のうち一人は千鶴さんを殺害した犯人だと言うことは分かるよねぇ?」
「はい。もう一人は?」
「千鶴さん殺害を命じた人間がいるということだよ」
千鶴さん殺害事件には実行犯と教唆犯が存在するということか。
夏川さんは窓を少し開ける。暖かい外気が車内に侵入してくる。五月の暑さではない。
「じゃあ、吉永貴子は……」
「まぁその二人のどちらかだ……ということだけ教えておこうかねぇ」
「ところで今日は警察は来ないんですよね? 遠藤さんに見つけてもらった証拠って物が確実じゃなきゃ、下手すりゃ名誉毀損で訴えられますよ?」
「そうだねぇ……実はその証拠も決定的な証拠じゃないんだよねぇ。状況証拠ってやつかなぁ」
「大丈夫なんですか?」
「その状況証拠とICレコーダーの音声で何とか問い詰めるさ。遠藤さんに頼めば警察を連れてくることも出来たけど、状況証拠しかないのに警察を呼ぶのはさすがに憚られたからねぇ」
手元のICレコーダーに視線を落としながら、ゆっくりと言葉を吐き出す。胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えて火を点ける。表情はいつもより険しい。
「不安ですねぇ」
「ICレコーダーの音声にしたって、遠藤さんから送ってもらった写真にしたって、刑事事件ではそういう物は証拠には採用出来ないからねぇ。完全な違法収集証拠だよ」
違法収集証拠……不穏な響きに俺の掌に汗が滲むのが分かった。
「日本の裁判所は民事事件では証拠能力には割と寛容で、隠し撮りしたテープなんかも証拠として採用しているんだけど、刑事事件では刑事訴訟法に違法収集証拠排除法則っていうのが定められているんだよねぇ。そして、その証拠の収集手続の点で適正手続を求めているから、捜査権限ある捜査機関は元より、捜査権限の無い民間人が隠し撮りした音声データなんて裁判で証拠として認められないんだよねぇ。遠藤さんから送ってもらった写真も、探偵業法に定める守秘義務違反だからこれはまずいよねぇ」
何やら専門的な説明が垂れ流されたが、要は夏川さんが隠し撮りしたICレコーダーの音声や遠藤さんからの写真では駄目だということだろう。
「じゃあどうするんですか?」
「集めた状況証拠で問い詰めて、自首を促すしかないだろうねぇ……。だけど、昨日遠藤さんにもう一つの証拠を見つけてもらったから、若干こっちが有利かな」
果たしてもう一つの証拠とは何なのか。それが分からない俺は釈然としないが、今出来ることはハンドルを操作し無事に吉永貴子宅へとたどり着くことしかない。目の前の信号が赤になったのを視認し、ゆっくりとブレーキを踏む。
「遠藤さんから写真を送ってもらったことは内緒だよ。それだけはバレちゃアウトだからねぇ」
アウトになるのは情報を漏らした方の遠藤さんだろう。あの人は夏川さんのために危ない綱の上を渡らされている。一体どれだけの報酬を握らせたのか……
半ば呆れながら車を走らせ、昨日と同じコインパーキングに車を停めた。
「ところで、今日の訪問はちゃんとアポを取ってあるんですよね?」
「もちろんだよ。自首を促さなきゃいけないからねぇ。無断で訪問して神経を逆撫でしちゃまずいから」
照り付ける日差しを肌で受け止めながら、吉永貴子宅へと到着する。夏川さんはすぐにチャイムを鳴らした。
玄関扉が開くのに要した時間は思ったより短かった。
「どうも。今日は何を訊きにいらしたんですか?」
さすがに彼女も、連日私立探偵が訪ねてくるとあって、呆れているのか口調が冷たい。夏物のグレーのトレーナーは首回りが大きめで鎖骨が僅かに覗いている。顔にも薄っすらと化粧を施している。
夏川さんと俺はこれからこの人物を犯罪者として扱わなければならないのだ。口の中が次第に渇く。
「まぁ大事なお話です。そのためにわざわざ今日も会う時間を設けて頂いた訳ですからねぇ」
「暑いでしょうから中にどうぞ」
取り繕ったような明るい声で玄関扉を大きく開けて室内へ招かれる。
昨日と同じリビングダイニングの黄緑色のソファに腰を埋める。逃れられない緊張感に襲われる。吉永貴子が運んでくれたお茶を普段より多めに口に運んで喉を潤した。
今日は四人分あるソファが空いている。吉永貴子は俺と夏川さんの正面に座った。
「では、何から話しましょうかねぇ……やはり事の発端である寛さんの交通事故から話しましょうか……」




