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「ここから二十分くらいですかね……」
「あっち方面は少し山道になりそうだねぇ」
京王電鉄橋本駅の近くのコンビニエンスストアの駐車場でカーナビの地図を見ながら千鶴さん宅への経路を確認する。
やはり、夏川さんは運転はしたくないらしい……
世田谷の事務所から夏川さんの白のセダンを転がして、中央自動車道経由で約五十分。神奈川県相模原市の千鶴さん宅から一応、最寄り駅になるのが橋本駅である。
一応というのは、最寄りといっても車で約二十分、徒歩なら一時間はかかるであろうからだ。
(相模原市って政令指定都市で、大都市ってイメージだったけど場所によっては山がちなところもあるんだな……)
千鶴さん宅は、橋本駅から西向きに少し登ったところにあるらしい。地図を見る限り近くには相模川中流の相模川第二ダムというダムがあるくらいだから、そこそこ山がちで緑に囲まれた場所だということは予想が付く。
しかし、俺はなんだか安心感のようなホッとしたような気分を抱いていた。生まれも育ちも東京だが、西部の山間部の出身だ。だから緑に囲まれた場所というのは、俺にとっては落ち着く場所なのだ。
「じゃあ真樹君、そろそろ車出してくれるかな?」
「はい、了解しました」
俺は駐車場から西へむけて車を発進させた。
「だけど本当にフォードさんの浮気相手の女が二人を殺したんですかね?」
俺が夏川さんの方を一瞥すると、夏川さんはカーステレオで流していたニュースの音量を下げて口を開く。
「いやいや、真樹君、僕は浮気相手の女が二人を殺したとは言ってないよ。あくまでも絡んでいるかもしれないってことだねぇ」
「確かにそうですが……浮気相手の女でないなら誰が二人を殺したんですか?」
「それはまだ分からない。夫婦双方に動機のある人物がどれくらいいるか……」
夏川さんは窓を少し開けるとタバコに火を点ける。
「フォードさんの交友関係とかも、浮気調査のときに調べたんじゃないんですか?」
「まあ、フォードさんは大企業に勤めていたから交友関係はそこそこあったよ。あくまでも浮気調査だからそこまで詳しくは分かってないけどねぇ」
「千鶴さん、浮気相手の身元調査は断りましたもんね……」
「そう、浮気相手の身元調査まですることになってれば、フォードさんの交友関係から生活、浮気相手の女の身元まで調べ上げていたところなんだけどねぇ……」
道なりに緩やかな登り道を登っていく。確かに緑に囲まれた山がちなところだが、道はきちんと舗装されて、幅も二車線分確保されている。
千鶴さん宅へ行くには、途中で左に曲がらなければならない。左に入る道が幾つかあるが、カーナビによれば目的の左折地点はまだ先だ。
「千鶴さんの遺体は夜中に見つかって、フォードさんの遺体は朝に見つかったんですよね?」
さっきまで流れていたニュースで聞いた情報を夏川さんに確認してみる。
「うん。昨日の夜中、千鶴さん宅の近くで火事があったらしくてねぇ。こんな感じで静かなところだから消防車のサイレンで野次馬が結構いたらしいんだけど、その一人が千鶴さんの遺体を発見したんだよ」
「野次馬が発見って、屋外で殺されていたんですか?」
「真樹君? ニュース聞いてなかったの?」
「あ、いや、運転中はどうも断片的にしか聞いてなくて……」
俺は少し顔をしかめて申し訳なさそうな表情を浮かべた――つもりだ。
夏川さんは表情が機械みたいだけど、俺は感情が顔に出ないらしい。内心では色んな感情が起こっているんだが、どうも俺の表情筋は素直に動いてくれないらしい。
よく言えばポーカーフェース、悪く言えば無愛想、そんなところか……
「千鶴さんは自宅のガレージの、車の隣で殺されてたってニュースで言ってたよ。ガレージの中は外から見えるみたいだね」
俺の申し訳なさそうな表情が伝わったかどうかは分からないが、とりあえず夏川さんは俺の疑問にいたって冷静に返してくれる。
夏川探偵事務所に勤めて以来、殺人事件に出くわしたのは初めてだ。だから、この変人探偵がどのようにこの事件を分析しているのかが気になった。
「今、ニュースの情報から分かっていることは、フォードさんの死亡推定時刻は昨日の二十時半頃から二十二時半頃の約二時間の間で、千鶴さんの死亡推定時刻は昨日の二十三時五十分頃から発見された二十四時二十分頃の約三十分の間ってことと……千鶴さんの家には何者かが侵入した形跡があること、フォードさんは石で殴り殺されてたのに対し、千鶴さんはナイフで刺されて殺されてたってことかな……」
「フォードさんの浮気のことは?」
「それは全く報道されてないね、多分まだ判明してないんだろうね」
「だからこそ、夏川さんが現場に出向いて警察に浮気のことを伝えるんですね」
しかし、そんなことわざわざ神奈川県まで出向かなくても合同捜査本部が設置されたという、警視庁に行けばいいのではないか? とも思えた。
「そういうこと。真樹君、勘いいねぇ」
夏川さんは、場違いにも思える軽い相槌を打ってきた。もしかしたらこの探偵も俺と同じかもしれない。
不謹慎かもしれないが、俺自身少し好奇心が湧いている。もちろん、最初千鶴さん殺害のニュースを見たときは衝撃を受けたが……
「事実は小説よりも奇なり」とはいうが、実際の事件とはどんなものだろう? 今まで読んできたたくさんの推理小説と違うのだろうか? もっと凄いのか、もっと下らないのか?
(おっと、こんなこと考えてたらいくらなんでも不謹慎すぎる)
気付けば右手にはダム湖の水面が広がっていた。ガードレールはあるが意外と道のすぐ近くが崖になっている。これでは帰りも夏川さんは運転したがらないだろう。
すると、ちょうど千鶴さん宅へ向かう左折地点に差し掛かったので、ハンドルを切って左折した。
ずっとなだらかな登りを登っているせいか、実際にはそんなに時間は経過していないが、結構な距離を走った感覚になる。
「あ、あそこですかね。千鶴さんの家」
反対車線側に立ち入り禁止の黄色いテープや、制服を着た警察官、神奈川県警と書かれたパトカーなどが見えた。警察官が行き交い騒々しい雰囲気だ。
「どこに停めますか? 脇に寄せておきます?」
「停めるところ無さそうだし、とりあえずそうしよう。マズかったら警察の人に、どこかに誘導されるかもしれないけどねぇ」
ぐにゃりと曲がる針金の束。夏川さんが苦笑――のような表情を浮かべた。
俺は千鶴さん宅のちょうど正面あたりに車を停めた。するとエンジンを切る暇もなく、ヒョロリとした警察官が近付いてくる様子がバックミラーに映し出された。警察官は運転席の窓を軽くノックする。
「すいません、お近くに用でしたらもう少し離れたところに停めていただけますか? ここは捜査車両も通りますので……」
俺が口を開こうとした刹那、夏川さんの顔が俺の目の前に現れた。
「我々はこの事件の関係者……かもしれない人間なんだけど」
夏川さんは上着のポケットから名刺を取り出し、警察官に半ば突き出すくらいの勢いで渡した。
「探偵事務所の方?」
「ええ、東京で私立探偵をやっています」
「一体この事件とどういった関係で?」
警察官はまだ怪訝そうな目で俺と夏川さんを交互に観察している。針金の束とポーカーフェースじゃ不審者だと思われるかもしれない。
「殺害された小林千鶴さんから、三週間前に依頼を受けたんですよ。夫であるケビン・フォードさんの浮気調査を」
夏川さんの言葉を聞いた警察官は、さっき夏川さんが渡した名刺をもう一度ちらっと確認する。
「では、車をあちらの方に停めて下さい。松岡警部補を呼んできますから」
そう言い残すと警察官は華奢な身体を翻し、千鶴さん宅の中に入っていった。どうやら松岡という警部補がこの現場で最も偉い人物らしい。
俺は車を少し先の道幅が広くなっているところに停めた。エンジンを切ろうとしたときには、もう夏川さんは助手席の扉から飛び出していた。