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「寛さんが死亡した事故のことは何か分かっていないんですかねぇ? 吉永貴子からは、大雨の日にハンドル操作を誤った単独事故だと聞いたんですがねぇ……」
「一応調べたよ。中尾寛はフォード氏と仲が良かった同僚だという話も聞いていたからなぁ」
松岡警部補は疲れてきたのか気怠そうな声で答えた。
中尾寛と吉永貴子が結婚するに至ったのは、フォードさんが二人を引き合わせたからだった。当然何かの因縁があるかもしれないと考えるだろう。
「だがなぁ……ただの単独事故で運転手が死んでるから、所轄があっさりと処理しちまったみたいで、事故自体には取り立てて言うべきことは無かったよ。……事故自体はな」
「事故自体は? では何か周辺のことで重要なことがあったんですかねぇ?」
「あんたは聞かなかったか? その日は大嵐だったのに、急に中尾寛が出掛けると言ったことを」
「聞きました。車のへこみの修理をしてもらいにディーラーに行くと言って出掛けたらしいですねぇ」
松岡警部補は薄ら笑いを浮かべて腕組みをする。その笑みの意味は、夏川さんが吉永貴子から警察が得ているのと同等の情報を得ている事への感嘆を表していると――少なくとも俺の目にはそう映った。
「そうだ。しかも吉永貴子は、昼まで酔い潰れて寝ていたから、その経緯を知らないんだよな?」
「ええ。彼女も修理をしてもらうようなへこみの事は記憶にないと言っていましたねぇ」
再び松岡警部補が笑う。今度ははっきりとした嬉しそうな笑みだ。これから夏川さんの知らない事を教えることができることからくる優越感に基づく笑顔だろう。
「そこでそのディーラーに問い合わせたんだよ。中尾寛がディーラーに持って行くつもりだったんなら、事前にディーラーに連絡した可能性があるからな。そしたら、その日は大嵐だったから客もろくに居なかったってんで今すぐにでも修理出来ると言ったらしいんだ」
「では寛さんがあの日ディーラーに行くつもりだったことは事実なんですねぇ」
「そうガッカリすんなよ。問題はその原因だ」
「原因?」
「吉永貴子は記憶にないと言っていたが、当たり前だったんだ。彼女が酔って帰ってきた時に中尾寛とちょっとした夫婦喧嘩になったらしい。酩酊していた彼女は怒って車を蹴りつけたようだ」
話は分かった。車のへこみを作ったのは吉永貴子自身だったのだ。
言われてみれば、彼女は酔うと乱暴になると言っていたが夫婦喧嘩の末に車を蹴ってへこませるほどだとは思わなかった。……と言うより想像できなかった。やはり酒癖はシラフの時には分からない。
「一体その事実はなぜ判明したんですかねぇ? 吉永貴子本人は覚えていないし、寛さんは既に亡くなっているのに」
「携帯だよ。フォード氏の携帯のメールを調べたらそれも分かったんだ。中尾寛はその日の朝、フォード氏にメールを送っていたんだ」
「どういう内容ですかねぇ?」
「ただの愚痴だよ。酔って帰ってきたから注意したら、車を蹴ってへこまされたってな。ディーラーに電話して昼から修理しに行くとも送っていたよ」
夏川さんは大きく息をついた。松岡警部補は満足そうにふんぞり返っている。
「その事実は何を示しているのか……ですねぇ。端的に言えば、その事故の原因を作ったのは吉永貴子であり、その事実をフォードさんは知っていた……ということですかねぇ」
「吉永貴子は本当に知らなかったのか怪しいなぁ。本人の記憶のことなんて俺たちが調べようがねぇし……」
「しかし、知っていたところで、どうということはないでしょうねぇ。まさか警部補は吉永貴子が中尾寛を殺すために酔ったふりをして、車をへこませたとでもおっしゃるんですか?」
「んな馬鹿な! へこませたところで中尾寛が大嵐の日にディーラーに持って行くとも限らんし、事故るのを願っていたとしたら宝くじに当たるのを狙っていたようなもんだろう?」
全くもってその通りだ。いくら天候が悪くとも、たまたま事故を起こすのを待っているなどナンセンスでしかない。
「ですねぇ。吉永貴子は指輪に関して嘘をついた可能性が高いことや、フォードさんとの親密な関係などから怪しい人物ではありますが、考え過ぎてはいけませんねぇ」
夏川さんの頰がぎこちなく上がる。
「ああ、そうだな……。千鶴さん・フォード氏・吉永貴子・中尾寛。どうもこの四人の関係が気になってなぁ」
松岡警部補はガリガリと音を立てて頭を掻く。指先から落ちた髪の毛がお茶の中に落ちた。
その四人の中で吉永貴子はフォードさんと寛さんとは関係性があるが、千鶴さんとは面識が無い。だが、千鶴さん側から見れば吉永貴子は夫であるフォードさんの浮気相手だと思われた相手だ。しかもその結果、千鶴さんは吉永貴子に罪を着せてフォードさんを殺害した可能性が高い。
――非常に微妙な関係性を有する四人であることは間違いない。
新たに分かったのは、寛さんが死亡した事故の原因は吉永貴子が車をへこませたからであり、本人はそのことに気付いていないようだが、フォードさんは知っていたようである……ということか。
「ところで、警察はまた吉永貴子に話を聞くんですかねぇ?」
「今のところでは何とも言えんな。藤田警部がそう決めればそうなるし……。千鶴さん殺害時の吉永貴子のアリバイも気になるが、動機があるかどうかがなぁ……」
「面識が無いから動機が無いとは限りませんしねぇ。私は明日、彼女の自宅へ招かれましたが」
まるで一緒に行こうと誘っているような口振りだ。いや、恐らく真意はそうだろう。
吉永貴子の自宅に行くと知って松岡警部補が上気する様子を、夏川さんは面白そうに眺めているのだ。
「よし! 駿河警視に、甥っ子のお気に入りの探偵が明日吉永貴子と会うという話を入れておこう。そんであんたが叔父をそそのかせば、俺たちも一緒に行くことになるだろうよ」
と、遠藤さんの肩をバンバンと叩く。警察が一私立探偵の動きに合わせてくるなど、世間が知ったらどうなるのか分からない。
「まぁ警察も行くことは彼女に伝えておいて下さいよ」
「ああ。吉永貴子は重要人物の一人だからな。『 K & T 』の指輪について嘘をついたかもしれねぇんだから」
「吉永貴子以外で千鶴さん殺害の疑わしい人物はいるんですかねぇ?」
「あの家は鑑識が隅々まで調べまくったが、目ぼしいもんは出なかったな。足跡もはっきり残っていなかったし、指紋も毛髪も取れなかったよ」
松岡警部補は分かりやすく溜め息をついてコップを手に取ったが、自分の髪の毛が浮かんでいるのを見つけて手をすぐに離した。
「裏庭に面したガラスが割られていましたが、裏のフェンスから侵入したんですかねぇ? 簡単によじ登れる程度の高さですし」
「それもはっきりとは分からないが……。逃走は裏からかもな。表は火事の野次馬に目撃者はいなかったし……」
裏には公園に沿った小路が走っていた。夜中なら人通りはほぼ無いだろう。
あの道を進んでいけば緩やかなカーブを描きながら、最終的にダム湖に面した大通りに出る。大通りに出ればそれなりに四方八方へと逃げられるだろう。実際に夏川さんと一緒に自分の脚で確かめたから間違いない。
「ブレーキに細工をされた車はどうでしかねぇ?」
「あの車の周りも当然調べているよ。そこで千鶴さんが刺されていたんだからなぁ。だが、こっちもこれといった痕跡は出なかったよ」
「そうですか……」
「だから他の容疑者と言われてもなぁ……。都会のど真ん中と違って、あの時間帯になりゃ寝静まっているような街だからなぁ」
松岡警部補は横目で遠藤さんに視線を送る。
「疑わしいのはこの探偵さんかもな」
「私ですか?」
遠藤さんは細い目を見開いて困惑している。
「だってそうだろう? フォード氏のマンションに住んでいて、千鶴さんが身元調査を依頼した興信所で働いていて、しかも捜査本部長の身内……。偶然にしちゃ絡んできすぎだろう」
そう言われればそうだが、松岡警部補の様子から察するに本気で疑っている訳ではなさそうだ。本気なら容疑者の前でそんなに機密情報を漏らす筈がない。
「冗談が御上手で……。『鳩ムネ』が捜査本部長になったのは私の所存では無いのに……」
こちらも諸手を挙げて面白そうに応えている。
結局疑わしい人物の筆頭は今のところ吉永貴子だということだ。
「そろそろお邪魔するよ。色々情報を流したんだから、真相を見つけてくれよ」
「ええ。じっくり考えます。もう真相の半分は分かったも同然なんですからねぇ」
「真相の半分って、フォード氏を殺害したのは千鶴さんってことだろ? 残りの半分も頼むよ」
と、言い残し松岡警部補は背中越しに手を挙げて出て行った。
遠藤さんも腕時計に目を落とし、立ち上がる。
「私も仕事に行きます。また真相を見つけたら『鳩ムネ』が喜びますよ」
「残りの真相、必ず明らかにしますよ。遠藤さんのお陰で警察から情報がもらえましたからねぇ」
そもそも夏川さんにこの事件の真相を突き止める義務など無いのだが……
単に好奇心から始まった調査が警察を巻き込んで進んでいることに、違和感と下手な推理小説のような既視感を覚える。
だが不思議と、夏川さんなら必ず残りの真相を明らかにできるだろうと、俺の心の中にもそんな期待が生まれていた。




