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平成二十六年五月二十六日 月曜日
穏やかな陽光が心地よく肌を照らす。最近の酷暑が嘘のように爽やかな五月本来の暖かさで、道端の雑草からでさえ季節を彩る艶やさを感じ取れる。
はやる気持ちを抑えていつも通りの時間に出勤する。昨夜ニュースで捜査の進展を知ったからだが、あくまでも早出する訳にはいかない。
ペットとの一時を存分に堪能させてあげるべきだ。なにより俺自身のために……
探偵事務所前の見慣れた光景を横目に見ながらテナントビルの階段を登ると、事務所の前で二人組の男が今まさにチャイムを鳴らそうとしていた。
彼らは俺の姿を捉えると、チャイムに伸ばした指を宙空で留めた。
「ん、あれ? お二人は……」
決して不審な二人組では無かった。どちらも顔見知りだ。
大柄で浅黒く健康的に焼けているのは、神奈川県警の松岡警部補だった。群青色のネクタイが首回りを窮屈そうに締め付けている。
一方、襟はよれよれで皺の目立つワイシャツの男は成瀬総合興信所の遠藤さんだった。
どちらも知った人物なのだが、俺が戸惑ったのはこの二人がなぜ一緒に居るのか……しかも夏川探偵事務所を訪れているのかが解せなかったからだ。
「おお。名前は忘れちまったが、あんたは夏川って探偵の助手君だったかなぁ」
「小島真樹です。まあ覚えていただかなくても構いませんが……」
「あぁ悪い悪い……。探偵さんに御礼申し上げに参ったってところだよ」
御礼というのは夏川さんの推理により、防犯カメラに映っていた女性が身に付けていた衣類が見つかったことに対してだといことは容易に想像がついた。
だが、なぜ遠藤さんがここにいるのかは皆目見当がつかない。
「遠藤さん?」
「どうも、お久しぶりです」
この探偵は毎度のことながら妙に陰のある不審な雰囲気を放っている。初対面で俺が怪しい人物だと思ったのもついこの間の出来事だ。
「まぁまぁ、とにかくお邪魔しよう。もう探偵さんには話を通してあるからな!」
遠藤さんとのやり取りは松岡警部補に遮られてしまった。
俺は金属製の冷たいドアノブを回して足を踏み入れる。俺は職員なのだから、チャイムを鳴らす必要もない。
既に応接セットのソファに夏川さんが腰を下ろしている。到着を待ち焦がれていたようだ。
「真樹君も一緒になったんだねぇ。お二人、こちらへ座ってください」
客人を応接セットに誘導する役割は職員である俺の役割だが、それを夏川さんがこなしている姿がなんとも奇妙に見えた。
遠藤さんは素直にソファへ足を運び、夏川さんと視線を交わらせながらドミノを並べるかの如く、物音を立てずに粛然と対峙した。
一方で松岡警部補はまだ事務所の中を興味深そうに眺め回している。
「腕利きの探偵かと思ったが、随分小汚い事務所だな」
「小汚いって……はっきり言いますね」
「あぁ悪い悪い」
言っていることは何も間違えていない。だから俺も怒ってはいない。
松岡警部補は悪びれることもなく天井の隅から床のタイルの切れ目まで悠長に観察していたが、唐突に俺の肩口を掴み上げ、毟り取ろうかという勢いで玄関の外まで連れ出された。
強制連行でもされるのかと唖然としていると、顔を極端に近付けてくる。お互いの鼻先は見ようによっては触れているだろう。
「こんな寂れた事務所で大丈夫なのか? ちゃんと給料貰ってるんだろうなぁ?」
声には本心からくる憂慮が滲み出ていた。本当に心配してもらっていることに少し申し訳ない気持ちが湧き起こる。
夏川探偵事務所は訪れた人から生活状況を察せられるほどのちんけな事務所なのだ。
「いや……夏川さんは大金持ちなんです。こんな事務所じゃなくても……と言うより、働かなくたって生きていけるくらいに」
「はぁ? じゃあなんでこんな小汚いテナントビルなんだ? 超倹約家なのか?」
これ以上無いくらい目を見開き、両の眉は数本の皺を隔てて今にもくっつきそうになっている。相変わらず感情表現が豊かな刑事だ。
「いや、特別倹約家だからではありません。僕の給料や食費を払えば大赤字ですよ」
「大赤字なのにやってるのか?」
「それ以上の収入があるみたいです」
「じゃあその収入だけで暮らせば良いじゃねぇか?」
尋問を受けているような錯覚に落ち入りそうになったが、あの変人探偵のために俺が不憫な思いをする道理は微塵も無い。
「探偵がやりたいんじゃないですか? 採算度外視で」
「なんだそりゃぁ……。とんでもねぇ変人だな」
「そうです。変人です」
それは夏川さんを形容するのに最も相応しく、簡潔で分かり易い言葉だ。
松岡警部補は天を仰ぎつつ喧しい音を立てて扉を開け、また事務所に乗り込んだ。背中から様々な感情が溢れている。
「待たせたな……」
松岡警部補が遠藤さんの隣に腰を下ろし、俺は遅れて残された夏川さんの隣の席に着く。考えれば考える程謎めいた組み合わせだ。松岡警部補と遠藤さんが一緒に来た理由をまだ聞いていなかった。
「まぁ今回俺が、捜査に協力してくれた探偵さんに頭を下げに行けとの命令を受けてだな……。ここまでやって来た次第だ」
松岡警部補は素直に人に礼を言うのは苦手なのかぎこちない笑みを浮かべた。
「いえいえ、私はただ推測を述べただけですからねぇ。証拠の無い推測ですよ」
「確かにそうですねー。推理は客観的な証拠に基づいてしなければなりませんから……」
遠藤さんが顎を撫でながら意地悪そうな狡猾な笑みをこちらへ向ける。
夏川さんは何とも思っていなそうだが、俺には聞きたいことがある。
「すいません、遠藤さんは一体なぜここにおられるんですか?」
「はは……やはり、気になりますよね。それは今回の事件の捜査本部に関係がありましてね」
「捜査本部ですか?」
「神奈川県警と警視庁による合同捜査本部が警視庁に設置されていることは、ご存知ですよね?」
「ええ、もちろん……」
昨夜のニュースが脳裏によぎる。合同捜査本部長である駿河彰宗という警視が記者会見を開いていたのは記憶に新しい。
――いや、むしろそのニュースを見たからこそ、昨夜から興奮しているのだ。
「その合同捜査本部のトップである合同捜査本部長の鳩ム……いや、駿河彰宗という人がね……」
「駿河彰宗はこの遠藤という探偵の叔父なんだよ」
松岡警部補によって言葉尻を奪われた形で突拍子も無い事実がひけらかされた。
「警部補、オチを先に言っちゃいましたかー。そうなんですよ。私の母の弟が鳩ム……いや、あの人なんですよね」
「鳩ム?」
「あ、それは……」
何かを言いかけたが、屈強な躯体が前を遮る。
「この探偵、あの警視のことを『鳩ムネ』ってあだ名で呼んでやがるんだよ。警視庁の警視が『鳩ムネ』だぜ?」
口角は上がり、前歯の付け根が剥き出しになるような笑顔。
これに関しては豊かな感情表現が仇になっている。どう見ても『鳩ムネ』を貶めているように見える。
「あ、あの、なんで『鳩ムネ』なんですか?」
「あの人は学生時代からずっと水泳をやってるんですよ。警察に入ってから剣道もやってますけど、今でも毎週のように泳いでます。そしたら胸周りの筋肉が異常に発達しててねー」
「まさかそれで胸が前に飛び出てるから『鳩ムネ』?」
画面で見た駿河警視の体格は確かに大きかった。
人は不思議なものでそうに違いないと思っていても、とりあえず尋ねなければ気が済まない。この疑問が俺の口から零れ出た刹那に、遠藤さんは頷いていた。
「名前もアキムネですからね。ピッタリでしょ?」
「で、それは良いとしてだ、なんで俺とこの探偵が一緒に来たかと言うとな……自分の叔父が捜査本部長だと知って口を利いたんだよ。夏川って探偵の意見を是非聞いてみてはどうかってな」
「私が鳩ムネに助言した事を夏川さんに直接報告したくて勝手にやって来たんですよ。そうしたら警部補とビルの下で会いましてね……」
知らないところで妙に話が飛躍していた。もはや夏川さんと警察の繋がりに障壁は無くなったも同然ではないか……
「その話を聞いた矢先に、探偵さんの言う通りにダム湖の捜索をしてみりゃ本当に袋が見つかったからなぁ……。もうこうなれば探偵さんの援助を正式に得ようという訳だよ」
「正式にと言ってもあくまでも駿河警視より上には内緒でしょう? 私人に捜査の協力を願うなんて上層部は快く思っていないでしょうねぇ?」
「まぁ今回袋が見つかったのも俺や五十嵐があんたにペラペラ喋ったからだからな。世間的にも内部的にも全開にする訳にはいかないわな」
「捜査本部のメンバーに対しては堂々としていいってことですよ」
事の発端である遠藤さんは他人事のように嬉々としている。この人は松岡警部補程でないが、明と暗との両面性を兼ね備えているようだ。
「それで何か新しい情報を教えていただけるんですかねぇ?」
「あんたから意見を聞こうって来たんだからな。袋の中の衣類や雨ガッパの返り血のDNA鑑定の結果は早ければ明日にも出るだろう」
「衣類のDNAが千鶴さんと一致し、返り血のDNAがフォードさんと一致すれば最も望ましいんですがねぇ」
「そうなれば防犯カメラに映っていたのは千鶴さんで、彼女が変装して目黒駅に赴いてフォード氏を殺したことになるからな」
そして、同時に犯人がもう一人存在することになる。フォードさんを殺害した千鶴さんもまた何者かに刺殺されたのだから……
「心配なのはちゃんと検出出来るかだなぁ……」
「大丈夫だと思いますよ。犯人はフォードさんを撲殺した時、手袋をして石を持っていたんですよねぇ?」
松岡警部補は無言で頷く。
「だったら袋の中には返り血のついた手袋もあったんでしょう?」
「ああ、あったよ」
「なら大丈夫。事件の日も暑かったですからねぇ。犯人は間違いなく汗をかいていたはず……」
チラリと窓の外の明るい日差しへと視線を送る。ジャージを二枚重ねで着た上に雨ガッパを羽織り、手袋もしていたなら汗が滲んできただろう。
「そうだな。手袋なら皮膚に密着しているから脱ぐ時に汗と一緒に皮膚片が付いてきてもおかしくないからなぁ……」
DNAは汗だけでは検出出来ないことは俺も知っている。DNAは細胞が無ければ検出出来ないのだ。
だが、松岡警部補の言うように皮膚片があればその細胞からDNAを採取出来そうだ。
「ところで吉永貴子のアリバイは判明していますかねぇ?」
「ん? 吉永貴子が気になるのか?」
「それぞれの現場に落ちていましたよねぇ? 指輪が。それに関してなんですがねぇ――」
昨日俺も聞いた千鶴さんの偽装工作の話を淡々と語り始める。松岡警部補は時折大きく相槌を打ちながら前のめりになって聞き入っていたが、俺は大事なことを思い出した。
――お茶を出すのを忘れていたのだ。刑事一人に探偵二人に囲まれ、自分まで頭の切れる探偵気分に浸っていた。だが、俺は紛れもなく探偵事務所の職員だった。
出勤したらいきなり二人組に出くわしたり、松岡警部補に外に連れ出されたり、鳩ムネの話を聞いたりしてすっかり客人への応対という仕事は忘却の彼方へ流星のように消えていったのだ。
夏川さんが偽装工作について語っているのを片耳で聞きながら立ち上がり、席を離れてお茶の準備をする。
俺がいなくなったことは誰も気に留めていない。所詮それだけの存在なのだ。俺は探偵ではない……
「――なるほどなぁ。千鶴さんは『 K & T 』の文字を見て夫が浮気相手の吉永貴子に贈った指輪だと思ったわけだな……」
「千鶴さんは夫が浮気をしていることを私の調査で確信し、それが殺意に変わったと言うのが私の見立てですが……」
「まぁそんなところだろうな。浮気してりゃ慰謝料をふんだくれると思って浮気調査を頼んだものの、いざ本当に浮気をしていると知ったら殺意が湧き保険金目当ての殺しに路線変更ってか……」
「悪い女ですね」
遠藤さんの一言がジェットコースターで落下する時に感じる重力のように重かった。
初めは夏川探偵事務所の貴重な客だった。そして強盗殺人事件の被害者にもなった。それも今となっては悪女扱いだ。
まだ千鶴さんがフォードさん殺害犯とは断定されていないのだが、既に既定路線といった雰囲気だ。
「そこで引っ掛かるのが吉永貴子の発言なんです。『 K & T 』の指輪なんて知らないと言ったんですよねぇ」
「探偵さんの考え通りなら、嘘をついたことになる。まぁ本当に関係ない指輪ってことも考えられるがなぁ……」
「ええ。千鶴さんがフォードさん宅を訪れた時に拾ったというのも、推測に過ぎませんからねぇ」
最も疑わしいとされる千鶴さんが存命でない以上、少なくとも見つかった衣類から千鶴さんのDNAが検出され、千鶴さんがフォードさんを殺害したのだと言えなければ推測の域は出ない。
「とにかく吉永貴子のことはもっと深く突っ込む必要がありそうだな。彼女のアリバイはと……」
松岡警部補が顔を顰めながら細かい文字がすし詰めになった手帳を探索している。
俺は邪魔にならないよう、そっとお茶を彼らに供した……




