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閑古鳥すらもう鳴かない程、来客は無かった。
これでも生活費と俺の給料はしっかり払われるのだから、夏川一郎という人間がどれほどの資産力を持っているのかが伺い知れる。
食卓を囲みながら推理論議に花を咲かせていたのも今や昔、夏川さんが吉永貴子と成瀬総合興信所に電話をかけ終わると、待っていたのはひたすら来客を待つ退屈な時間だった。
今日突然電話してすぐに会える訳もなく、吉永貴子と会うのは明後日の火曜日になった。今度は彼女の自宅に招いてもらえるらしい……
やはり自宅にとなればかなり渋られたようだが、最終的には承諾してもらえたという。
帰路に着いた俺を襲ったのは激しい疲れだった。何故だろう? 今まであちらこちらを歩き回った時も疲れたが、今日は午前中千鶴さん宅に行っただけなのに激しく疲れている。求めていた真相の半分を掴みかけたことで、今までの疲れがドッと押し寄せてきたのかもしれない。
今回の事件が単独犯によるものでなく、複数人の謀計が交錯した事件だという足掛りを掴んだことは大きな前進だろう。
――自宅に到着すると、まず浴室へ行きシャワーを浴びた。汗を流してベランダの窓を網戸にして風を通す。
リビングの机の前に陣取り、テレビの電源を入れると真っ暗なテレビの画面が鮮やかに彩られた。
サバンナの野生動物の番組をやっていたのか、広大な乾いた茶色の大地をゆったりと歩くシマウマやライオンの映像――もちろんそんな動物番組を見たかったわけではない。画面の下にはエンディングのテロップが流れている。
ちょうど夜の七時半になるところだ。目当ては夜七時半のニュースである。
今日ダム湖の捜索を始めるという大きな動きがあったので、何か新たな情報がニュースで流れないかと期待している。
映像が大自然から人工的なスタジオへと切り替わり、グレーのスーツを着た若い男性アナウンサーが映し出される。アナウンサーが深くお辞儀をして最初に発した言葉は俺の期待する物だった。
『二十一日の夜から二十二日の早朝にかけて、神奈川県相模原市と東京都目黒区で別居中の夫婦が何者かに殺害された事件で新展開です。警視庁の捜査本部は今日、相模原市の被害者宅から数キロ離れたダム湖を捜索し、衣類数点とともに血の付着した雨ガッパが入れられた黒いビニール袋を発見しました』
あまりにも期待通りの展開に小気味悪さすら覚えたが、やはり夏川さんの推理は合っていたようだ。
『捜査本部によると、妻である小林千鶴さんの自宅の最寄駅である京王電鉄橋本駅と、夫であるケビン・フォードさんの自宅の最寄駅である山手線の目黒駅を事件当日の事件のあった時刻に往復した不審な女性の様子がそれぞれの駅の防犯カメラに映されていました。今回袋の中から発見された衣類はこの女性が身に付けていた物と同じ物であり――』
口の中が渇いていくのが分かる。無意識に生唾を飲み込んでいた。
『――妻である小林千鶴さんは事件当日殺害される直前までどこかに出かけていたことから、警察ではカメラに映っていた女性が小林千鶴さんであり、目黒駅に赴きケビン・フォードさんを殺害後、橋本駅周辺で着用していた衣類を脱ぎケビン・フォードさんの返り血の付いた雨ガッパとともにダム湖に捨てた可能性が高いと見ています――』
映像が切り替わり、カメラのフラッシュの白い光とシャッター音がが目まぐるしい二重奏を繰り広げている。どうやら記者会見の映像のようだ。
フラッシュを眩しそうに目を細める初老の男性がたくさんのマイクを前に座っている。
頭頂部から額にかけては綺麗に禿げ上がっているが、その割には両耳の上の側頭部の毛髪は豊かであり黒々としている。まるで禿げている部分だけを綺麗に刈り取ったような頭だ。
大きな眼鏡に鼻の左にはイボのような突起物があり、唇は分厚め。
机に隠れて身体全体は見えないが、肩幅が非常に広いし、胸板も厚くかなり大きなガタイをしているようだ。
男性の顔の右隣に縦書きのテロップが表示される。
『合同捜査本部長 駿河彰宗警視(51)』
どうやら、この男性がこの事件の合同捜査本部の本部長のようだ。陣頭指揮を執っているのは警視庁の藤田直哉警部だった。警視クラスの捜査本部長は基本的に現場に出たりはせず、あくまでも名目上のトップであり、現場で陣頭指揮にあたるのは捜査本部での謂わばNo.2なのだ。
こんな知識も好きで読み漁った警察小説から得たものだ。
名目上とはいえトップであるのだから、会見はしなければいけないのは辛い役回りだろう。社員が不祥事を起こした時にカメラの前で謝っている社長を思い出す。
『えー……今回見つかった雨ガッパの返り血のDNA鑑定並びに、衣類からDNAを検出する作業を進めております。現段階では小林千鶴さんの当日の行動から、防犯カメラに映っていたのは彼女である可能性が高いわけですが、あくまでも可能性であり、別人である可能性もあります』
駿河警視は手元の原稿を何度か覗き見しながら、機械的に語る。緊張しているのか所々声が裏返っている。
『えー……従って雨ガッパの返り血のDNAがケビン・フォードさんのものと一致すれば、防犯カメラの女性イコールケビン・フォードさん殺害の犯人である事はほぼ確定しますが、その女性の正体については衣類からDNAが検出されるのを待たないと断言は出来ません……』
会見場に集まった烏合の衆から質問が浴びせられるところで映像はスタジオへと戻る。アナウンサーは何事も無かったかのように淡々と次のニュースを読み上げる。
しかし、俺の興味はもう尽きている。すぐにテレビの電源を切った。
夏川さんの見立て通り、女性が着用していた衣類がダム湖から見つかった。そして……雨ガッパも一緒に。
俺の見立ても合っていた訳だ。心の中ではにやけずにはいられない。
誰かが見ている訳でもないのだから遠慮せずににやけても良いのだが、いかんせん表情にならない……
問題は衣類からDNAが検出されるかだ。
そして検出されたとしてそれが千鶴さんのDNAと一致するのか……
一致すれば推理通りとなるが、こればかりは結果を待たなければならない。これまで出会った警察官たちも地団駄を踏みながら待っているだろう。
探偵事務所に電話してこの吉報を届けようかと想起したが、恐らく夏川さんも今このニュースを見ている筈だ。……特に根拠は無いが、あの探偵のことだから逐一ニュースをチェックしているのは目に見えている。違ったとすれば、ペットとの会話に夢中になっているくらいだろう。
網戸から吹き抜ける湿気の混じった初夏特有の匂いと生暖かい夜風のせいで、濡れた髪は依然として乾かない。
こんなに生暖かい風しか吹いていないなら、網戸にしても無意味だということに気付いた俺は窓を閉めようとベランダに近付いた。ふと視界に飛び込んできた漆黒の夜空には、細やかな星々が瞬いていた。
柄にもなく、ベランダに出て夜空を眺めてみることを思い付いた。都会の空は星が見えないと言われるが、今日は新月であることもあってか小さな星の光は地球上にしかと届いている。
事件の解決を星に願って……なんて感傷的なことを言ったら俺のことを知る人はひっくり返って驚くだろう。
それも当然。俺自身だって自分がそんなことを思ったら自分の気が狂ったと思って病院に駆け込むに違いない。
外気と同じくらい生暖かい吐息を小さく吐き出し部屋の中へ戻ると、今度は微塵の躊躇いもなく窓とカーテンを閉め切った。




