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謀計リング  作者: 茜坂 健
第四章 「交錯」
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 夏川探偵事務所は営業日に留守にしても、何の苦情も問い合わせも来ない。幸か不幸か調査に入り浸れる環境だ。

 午前中、真相の半分は夏川さんによって白日の下に晒された――というのは誇張しすぎだが、糸口は掴んだ。

 同一犯の犯行とばかり思っていたが、そこには複数人の思惑が交錯していたのだ。

 今頃警察がダム湖の中を血眼になって捜索しているだろう。どれだけの水が溜め込まれているのかと想像すれば気が遠くなるが、夏川さんの推理が当たっていれば橋本駅や目黒駅のカメラに映っていた女の服が見つかるはずだ。

 皿と箸がぶつかる音だけが響く無言の食卓の空気は、なんとも言えない重さだ。俺はこの空気を取り払うために声帯を震わせて声という名の空気の振動を生じさせる。

「そろそろ何か見つかるかもしれませんね、ダム湖から」

「かなり大きな湖だからねぇ……。丸一日はかかるかも」

「海じゃないのが救いですね」

 広大な大洋に放り出された証拠は下手すれば見つからないかもしれないが、所詮は四方を囲まれた人工湖だ。必死になって探せば必ず見つかるだろう。

「ここまでの推理を整理しておいた方が良さそうだねぇ。まず発端になったのが千鶴さんからの浮気調査があったところから……」

「そもそも千鶴さんはフォードさんに生命保険をかけていて、離婚するより保険金を受け取る方が良いと思ったのでフォードさんを殺害することにしたんですよね? あくまでも五十嵐刑事の見立てですけど……」

「そうだねぇ……一旦はフォードさんを殺害したのは千鶴さんだという前提にしておこう」

「しかし、千鶴さんは結局我々に浮気調査を依頼してきました」

 夏川さんは水を飲み干し、コップを静かに机に置く。

「浮気調査を頼んできたキッカケなら何となく分かったよ。いくら夫とはいえ、別居中。フォードさんの生活リズムが分からないことには、待ち伏せて殺害なんて出来ないからねぇ」

「なるほど! 大事なのは浮気をしているかじゃなくて、調査書に記されるであろうフォードさんの生活リズムだったんですね!」

 夏川さんはフォードさんに一週間張り付いていた。一週間である程度の生活リズムは把握できるだろう。

 ――遠藤さんのいる成瀬総合興信所に身元調査を依頼したのはより正確な生活リズムを掴みたかったからかもしれない。向こうは三週間も調査しているから、夏川探偵事務所の物と合わせて一ヶ月分にもなる。

「それだけかは分からないけどねぇ……。探偵事務所に依頼するということは、それだけ自分の印象を残すことになるからねぇ。現に事件のニュースを見て僕や真樹君は、彼女が前に訪ねてきた依頼者だと気付いたよねぇ?」

「うーん……確かにリスキーですね」

「だから本当に浮気調査が目的だったのかもしれないねぇ。やっぱりフォードさん側に浮気の事実があれば離婚の時に慰謝料を高くつけられるから……」

「千鶴さんが依頼に来た時、なぜ浮気調査をして欲しいと思ったのか聞かなかったんですか?」

 夏川さんは一切俺から目線を外そうとしない。ジッとこちらを見つめてくるその瞳の奥に吸い込まれそうになる。

「……聞いてないんだよねぇ。あまり詮索しないようにしてるからねぇ」

 それを聞いておいてくれればここで悩む必要は無かったのだが……。事件の調査になればあれだけ色んな人に根掘り葉掘りと聞き込む割に、本業では淡白な仕事っぷりだ。

「まぁ、とりあえず慰謝料を高くしたいために浮気調査を依頼したということにしよう。しかし彼女はフォードさんの浮気を知り、思いの外怒りがこみ上げてきた……」

「そこでフォードさんを殺害して、保険金を受け取るほうに針が振れたんですね。合理性よりも自分の感情に流された感じですね」

 こればかりは推測するしかない。死人に口無しだ。

「ここで身元調査をせずに大きな興信所に頼んだのは、自分の印象を薄めるためかな? 見るからに暇そうな探偵事務所だからねぇ」

「そうだとすれば千鶴さんに殺意が生まれたのは、夏川さんが浮気を突き止めた所からですよね? 千鶴さんはあの日からフォードさん殺害計画を立て始めた。そして、成瀬総合興信所にも身元調査を依頼し、フォードさんの生活リズムを把握した千鶴さんは計画を実行に移した」

 千鶴さんが夏川さんから調査書を受け取ったのは四月二十八日だ。そして五月二日に成瀬総合興信所に身元調査を依頼し、二週間後の五月十六日に調査書を受け取っている。

 ――そういえば、調査をした所長が海外に行かなければならなくなったから、郵送で送ったと言っていた。

「そして事件の日だねぇ――千鶴さんは五月二十一日の夜、十九時半頃橋本駅のカメラに映っていたんだったねぇ。目黒駅に着いたのが二十時半頃」

「で、フォードさん宅まで行って待ち伏せして二十時四十分から二十一時頃の間に、帰ってきたフォードさんを殴り殺したんですよね」

「ここでの動きは……」

 夏川さんが手帳を取り出し、ページを繰る。目当てのページにたどり着く前に口は動き出した。

「まずフォードさんの遺体を車の影に引きずって行き、そこで財布からお金を抜いた」

「千鶴さんの財布には五、六万入ってたんですもんね。やっぱり千鶴さんが怪しいですね、ウォーキングするのにそんな大金持ちませんから」

 五、六万が大金という価値観はフリーター生活の長かった俺からすれば当たり前なのだが、もしかすると目の前の大金持ちはそうは思っていないかもしれない。

「お金を抜いたのは強盗に見せかけて、動機がある自分が疑われにくくするためだろうねぇ」

「ここからですよね、夏川さんの推理は」

「まず彼女は返り血を浴びた羽織り物を脱いだ。とにかくこれを処分しなくちゃいけないからねぇ……。真樹君はリュックサックに入れて橋本駅まで持ち帰り、ダム湖に捨てたと考えたんだねぇ」

 畏まって言われると合っているのかどうか不安になる。

「雨ガッパなんてそんなに嵩張る物でもないし、リュックサックにポーチと靴を入れていたとしても十分に入れられるからねぇ」

 夏川さんが俺の考えを肯定してくれていると思うと、何だか気恥ずかしいような擽ったいような気持ちだ。

「まぁ捜索の結果待ちですね。服と一緒に見つかれば万々歳ですよ」

 軽く万歳のポーズをして見せる。ポーカーフェースだから大して嬉しくなさそうな万歳だった……

「そうだねぇ。どっちにしても千鶴さんは、羽織った物を脱いで元の格好に戻って再び目黒駅から橋本駅に戻った。これも目黒駅のカメラに二十一時半頃、橋本駅のカメラに二十二時四十分頃に映っている」

「これでカメラに千鶴さん自身の映像は残さずに済みましたね。この後千鶴さんは人目の無い場所へ移動して、帽子と上下のジャージと靴を脱ぎ、靴はリュックサックに入れていた物に履き替えたと……」

 自分の語り口に併せて、千鶴さんがその作業をこなす様子が脳裏に再生される。千鶴さんのお淑やかで大人しそうなイメージからはしっくりこない映像ではあるが……

「後はリュックサックの中からタオル、財布、キーケースの入ったポーチを取り出し、リュックサックと脱いだ衣類をダム湖に捨てたといったところだねぇ」

 その時間は二十二時四十分過ぎだ。人目の無い所はたくさんあるだろう。

 夜空を映し出し黒く広がる湖に衣類が沈んでいく。事件の真相と共に湖底に葬り去られてしまった。

「捨てた後はもう歩いて帰るだけだねぇ。ウォーキングの格好ですから例え誰かに見られたとしても言い訳は出来るしねぇ」

「あれ? でも、フォードさんの遺体がすぐに発見されてしまったらどうなってたんでしょう? 出かけているのがバレたんじゃないですか?」

 警察がフォードさんの身元を確認すれば、別居中とはいえ妻である千鶴さんに連絡をすることは当然だろう。

「携帯なら適当に誤魔化せるよ。今家にいると言えば良いだけだよ」

「でも、千鶴さん宅の固定電話にかかってくるかもしれないじゃないですか?」

「それなら真樹君が見つけたじゃない」

 夏川さんは至極当然のような顔をしているが、俺が見つけたとは何のことかサッパリ思い付かない。

「え? 何か見つけましたっけ?」

「千鶴さん宅で電話台を調べていた時だよ。電話線、どうなってたか覚えてるよねぇ?」

 ――床に転がっている花瓶を見た時のことだ。思い出すのは一瞬だった。電話線は抜けていた。

「そうか! 電話線を抜いたのは千鶴さんだったんですね」

「そう。後で忍び込んだもう一人の犯人に荒らされて、電話線が抜けていたのもそのせいだと勘違いしていたんだねぇ」

「家の固定電話に電話がかかってこないように千鶴さん自身が出かける前に抜いたんですね?」

「警察がフォードさんの遺体を発見し、千鶴さんに電話しようとしても電話線が抜けているから繋がらない。仕方なく携帯に電話するだろうねぇ」

 携帯にかけさせさえすれば、家にいると嘘をつけばそう簡単にはバレないだろう。最近は携帯電話にGPS機能が装備されているが、被害者の妻に電話するだけなのにいきなり位置情報を調べている筈もない。

 後で警察になぜ固定電話に繋がらなかったか疑問に思われたとしても、部屋の掃除をしていて電話を動かした時に、誤って電話線が抜けてしまったとでも言い訳が出来るだろう。

「ということで、千鶴さんの犯行は完璧のはずだったんだけど……」

「帰ってくる間に何者かに家に侵入された上、その人物と鉢合わせになり、刺されてしまったんですね」

「その何者かが単なる強盗なのか、怨恨で千鶴さんを殺害する目的だったのか。それもまだ分からないねぇ」

 夫の殺害を成し遂げた日に自らが殺害されるとは千鶴さんも思っていなかっただろう。思っていたとすれば、それは超人的な予知能力だ。

 そもそも日常生活で自分が殺されるなどと想像すること自体が稀有なことだが。

「ここで問題になるのが指輪だねぇ」

 まるで自分の指にも指輪をはめているかのように右の掌を眺めつつ、夏川さんが切り出した。

「そういえば指輪はどう説明すれば良いんでしょう? 千鶴さんがフォードさんを殺害したとすれば、千鶴さんが『 K & T 』の指輪を置いたことになりますけど?」

 ほんの微々たる時間の沈黙をおいて、夏川さんがおもむろに椅子から腰を上げる。

 何事かと唖然としたが、ただ単に椅子の周りを徘徊しているだけだ。考え事をしているものと思われる……

「それについてだけど、一つの説得的な推理があるんだよ。まぁ証拠はないけどねぇ」

「聞かせて下さい!」

 説得的でありながら、証拠はないという危うげなバランスの上に立つ推理――

 大きな謎である二つの指輪の真相も、その半分は明るみになるのか。期待感と焦燥に、俺の鼓動が速くなっていく。

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