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手袋をはめた両手をしきりにさすりながら、リビングの中央に仁王立ちする夏川さん。探偵というより、物色中の窃盗犯のような雰囲気を醸し出している。
靴を脱いだ俺の足裏には、靴下越しにフローリングの床の冷ややかな感触が伝わってくる。外は温かいにも関わらず、家主を失い人肌の温もりに触れていないからだろうか。
「この辺から見てみようかねぇ」
宝探しに興ずる探偵は白い電話機が置かれた腰の高さくらいの電話台の引き出しを開ける。
俺も夏川さんの肩越しに中を覗き込んだが、入っていたのはありふれた物だった。
ボールペンや乾電池などの小さな消耗品。のし袋や輪ゴムが大量に入った容器に古いデジタルカメラなど、誰の家にでもある代物ばかりだ。
「こんな生活感溢れる物を見ると、悲しいですね」
「確かに生活感ある物ばかりだけど、荒らされてるよねぇ?」
夏川さんの言う通り、引き出しの中はボールペンや輪ゴムや乾電池などが混ぜこぜになっている。千鶴さんが大雑把な性格だったという可能性もあるが、部屋の荒らされ具合からすれば侵入した犯人がこの引き出しの中も物色したと見て良いだろう。
「こういう所に通帳とかキャッシュカードとかを入れてる人もいるでしょうし……」
「でも、そういうのは見当たらないねぇ。足が付きやすいから持ち去るってことも考えにくいしねぇ」
「今時どこのATMにも防犯カメラはありますからね。暗証番号を割り出してお金を下ろしたところで、すぐに捕まりますよね」
「だから犯人は現金狙いのはずだよねぇ……。本当に強盗ならね」
「千鶴さんの財布からはお金は抜かれてたんですか? フォードさんの財布からは抜かれてたらしいですけど」
夏川さんは俺を見上げてつぶらな瞳で見つめてくる。
「それはさっきの刑事さん達に聞かないと分からないよ」
俺の質問に呆れたのか、怒ったのか、真摯に答えてくれたのか、何とも思っていないのか……機械のようで全く感情が読み取れない返答だった。最新鋭の人型ロボットと会話をしているようだ。
「この引き出しには、めぼしい物は無いみたいだねぇ。まあ、何がめぼしい物なのかも分からないけど」
「だけどこの辺も凄く荒らされてますね……。花瓶まで転がってますよ」
俺の足元に白地にピンク色をあしらった細長い花瓶が倒れている。近くには花は落ちていないし、水が溢れた跡もないので花を活けてはいなかったようだ。
屈んで花瓶に目をやった時、電話機から伸びた電話線のコードが床にだらしなく横たわっているのを見つけた。犯人が強く電話機やこの電話台を動かしたから抜けたのだろう。
「ん? 電話線も抜けてますね。相当激しく荒らしたんじゃないですか?」
懸命に苦笑した――だが、恐らく表情は変わっていないと思われる。
「本当だねぇ。随分乱暴だねぇ」
「にしても、こんなに荒らす必要があったんですか? これでも現場検証済みで多少片付いたんでしょう?」
部屋を見渡すと壁に掛かっていたであろうカレンダーが床に落下し、液晶テレビが倒れている。必要以上に荒らし過ぎな気がするのだ。
「そうだねぇ。金目の物がありそうな所以外もかなり荒らしているねぇ……」
「肝心の金目の物がありそうな所はどこでしょう?」
「リビングでないなら、ありがちなのは寝室かな?」
夏川さんはリビングから玄関に向かう廊下の方へ歩を進める。昼でも薄暗い廊下の両サイドにはトイレや風呂場などの水回りがあり、二階への階段がぽっかりと口を開けている。
「二階の寝室に行ってみよう」
一段一段踏みしめながら登る。途中左に90℃曲がっている踊り場のような所の壁には、額に入れられた千鶴さんとフォードさんの写真が飾られている。
写真の右下には蛍光イエローのペンで英語が書かれている。筆記体で流れるように書かれていることから察するに、フォードさんが書いたのだろう。
「夏川さん、これを見てください。このフォードさんが書いた英語」
前を行く夏川さんを呼び止めてまで写真に注目させたのは、その英語の中に重要な部分を見つけたからだ。
「英語、そんな得意じゃないのでなんて書いてあるかは分からないですけど、この部分は『chizuru』って書いてますよね?」
テーブルについた二人の前に小さめのホールのケーキが置いてある。ケーキにロウソクが立っている所を見ると、この写真は千鶴さんの誕生日の時の写真で、書かれているのは恐らく千鶴さんの誕生日を祝う言葉だろう。
「やっぱりフォードさんは『ち』は『chi』と書いてますね。あの『 K & T 』の指輪がフォードさんと千鶴さんの物でないことはこれで間違いないでしょう」
「そうみたいだねぇ。吉永貴子もあの指輪は知らないと言ったけどねぇ……」
いい大人が二人で狭い踊り場を占拠し、写真を舐めるように眺めていると、階段の下から足音が迫ってきた。五十嵐刑事が姿をあらわす。
「二階行ったらまずかったですかねぇ?」
「いえいえ、夏川さん達が何を調べておられるのか見ておこうと思いまして」
「監視付きですか……」
「松岡さんから穴が空くほどよーく監視しとけよと言われていますから」
五十嵐刑事は目を細めて純朴な笑顔を見せる。この人も松岡警部補と同じタイプだという気がしてきた。
「寝室に入っていいですよねぇ?」
「ええ、さっき言ったことを守っていただければ……」
「もちろん、守りますよ」
夏川さんが右手の親指を立てて頬の肉をひしゃげさせる。五十嵐刑事はその表情を目の当たりにして、釈然としない様子だ。
「あ、今のは夏川さんの笑顔ですから」
「なるほど、そうですか」
初めて夏川さんの硬い表情を見た人には解説をしてやらないと、今の顔の動きは何なのか理解出来ないでいることもままあるのだ。この通訳が出来るのは現時点では俺くらいだろう。
俺と五十嵐刑事は夏川さんに遅れないよう、すぐに階段を駆け上がった。
階段を上がった正面に、扉が半開きになっている部屋がある。夏川さんはこの部屋に入ったと思われる。
中に人がいるとすれば夏川さん以外にあり得ないのだが、なぜか無意識のうちに扉を開ける前に、のっそりと扉の影から部屋の中を覗き見てしまう。他人の家に忍び込んでいる盗っ人気分になっているのかもしれない。
――案の定中にいたのは夏川さんただ一人だった。
「何か見つかりましたか?」
「あまり動かさないでくださいよ」
前の道路に面した出窓に寄り添うように、大きめのベットがある。女性一人で寝るには大き過ぎる。別居するまでは二人で一緒に寝ていたのが、当然に想像される。
「金目の物は寝室じゃ大抵枕元の棚とかに置くんですよねぇ」
ベットの枕元にはベットと同じくらいの背丈の棚があり、棚の上には目覚まし時計や卓上カレンダー、そして電話の子機がある。目覚まし時計は使われることがなくなった今も、真面目に時を刻み続けている。
「犯人もこの棚を物色したみたいですねぇ……。引き出しが歪にせり出してます」
「二階まで隈なく探してますね。家主がいつ帰ってくるかも分からないのに」
五十嵐刑事がポツリと呟いた一言に、夏川さんは鋭い眼光を送る。
「ですよねぇ? 一階もあれだけ荒らしておきながら、二階の寝室も丁寧に物色しています。犯人は千鶴さんが帰宅する時間を知っていたのかもしれませんねぇ」
「でも夏川さん? 犯人はガレージで千鶴さんを刺しているんですよね? それって犯人が逃亡しようとした時に、帰ってきた千鶴さんと鉢合わせになったからじゃ……」
夏川さんは眉間に指を当てる。
「千鶴さんはどこに出かけていたのか……。本当にただウォーキングしていただけなのかな? 五十嵐刑事、何か分かっていないんですかねぇ?」
「ですから、外部にそんなことを漏らす訳にはいきません!」
五十嵐刑事は苦虫を噛み潰したようなような表情をした。
「そんなことを漏らす訳には……と。その言い草からして、何か掴んでおられるんですねぇ?」
「いやっ……」
夏川さんはじっと直立不動だが、五十嵐刑事は一歩後退りした。夏川さんから発せられる威圧感に苦悶しているのが手に取るように分かる。
「我々に教えて頂けないのは仕方ないですねぇ。うっかり口を滑らせると五十嵐さんの首に関わりますから」
「あ、当たり前じゃないですか」
妙な威圧感を醸し出していたかと思えば、飄々とそんなことを言ってのける……。この数秒間の夏川さんが俺にも悪魔のように見えた。
「でも、外部に隠すべき情報と、隠そうとしていないけれど流れていない情報があるでしょう? 私も隠すべき情報を聞こうなんて思っていませんよ。流れていないだけで隠す必要はない情報なら教えて頂きたいですねぇ」
「……松岡さんが『あの男は曲者だ』って何度も念を押してきたのがよく分かりますよ。じゃあ、話せることだけ話しますが……」
「絶対に内緒にしますから。もし私が情報を聞いて犯人を突き止めたとしても、それは警察の手柄だということにしますから。別に私は探偵として有名になるつもりはありませんのでねぇ」
「お、俺も保証します。夏川さんは嘘をつくような人じゃありませんから!」
居てもたってもいられず、五十嵐刑事に向かって小さく叫んでいた。
この変人探偵のために一人の警察官の首が飛ぶのはいたたまれない……が、一方で情報を得ればかなり進展しそうだと思えば胸が踊る自分もいる。そんな微妙な感情の狭間で飛び出した台詞だった。
「内緒ですからね……」
五十嵐刑事は何かを達観したように、一息ついた。
「あの日の橋本駅やその周辺の防犯カメラの映像を解析したんですが、橋本駅のカメラに帽子を被り上下ジャージを着てリュックサックを背負った女性が映っていました」
「それって千鶴さんですか?」
「小林千鶴はTシャツにジャージのズボン、腰にポーチを巻いた格好で殺されていました。服装が若干違いますし、ジャージの種類も違いました」
「じゃあその女性は?」
「顔ははっきりと映っていませんので分かりません。ただ気になったのが、ケビン・フォードのマンションの最寄駅である目黒駅の防犯カメラにもその女性が映っていたんです」
「でも、それだけじゃなんとも言えませんよねぇ? 橋本・目黒間を移動する人は他にもたくさんいたでしょう?」
尤もな意見だ。その区間の定期を持っている人だけでもごまんといるだろう。
「映った時間が問題なんです。橋本駅のカメラに映ったのが、七時半頃。そして目黒駅のカメラに映ったのが、午後八時半過ぎです」
「目黒駅からフォードさん宅まではすぐですからねぇ……。死亡推定時刻であり、犯行可能時刻の二十時四十分頃から二十一時頃にちょうどフォードさん宅に到着できますね」
「しかも、その女性が次に目黒駅のカメラに映ったのが午後九時過ぎで、橋本駅のカメラに午後十時四十分頃に再び映っています」
若干の静寂が訪れる。三者三様、皆がそれぞれに時系列を整理している。
静寂を破ったのは、夏川さんだった。
「なるほど……フォードさんを殺害した後にまた目黒駅から橋本駅に戻ったとすれば、合点がいきますねぇ」
「ケビン・フォードが会社から帰宅する際、目黒駅のカメラに映ったのが午後八時四十分頃ですから、その少し前に橋本駅に到着してマンションの駐車場で待ち構えていたとすればちょうどいい塩梅です」
「でもまだ、その女性が誰なのか突き止められていないんでしょう? 千鶴さんとは服装が違うようですし、橋本駅だからというだけで千鶴さんだとは疑えませんしねぇ」
夏川さんは不満げに少し頬を膨らませる。
「しかし、我々は気になっているんです。小林千鶴が最近になって急にウォーキングを始めたことも含めて……。あの日彼女があんな時間にウォーキングをしていたとも思い難いですし」
五十嵐刑事が言おうとしているのは、その女性が千鶴さんなのではないかという推測だろう。そしてその推測の先にあるのは、千鶴さんがフォードさんを殺害するために出かけていたということだ。
だが服装の違いなどからそれを断定出来ないでいる……
「ちょっと待って下さい」
俺は五十嵐刑事の胸板の前に腕を伸ばして自分の存在を、そして抱いた考えを差し挟む。
「その女性が千鶴さんで、目黒駅にあの時間行っていたとすれば、フォードさんを殺害したのは千鶴さんということですよね?」
「動機面からすればね。ですがその女性が小林千鶴だと分かったところで、イコールケビン・フォード殺害犯が小林千鶴だとは言えません」
「動機面? 千鶴さんにフォードさんを殺害する動機があるんですかねぇ? 逆なら我々の調査で浮き彫りにしましたが」
夏川さんの言う逆ならとは別居に至る原因となった千鶴さんの金遣いの荒さや、金のためにフォードさんの物まで勝手に売っていたという話のことだろう。フォードさんが千鶴さんを殺害する動機ならあるのではないかと考えられる。
「事件現場や関係者周辺をウロウロされていた夏川さんのことですから、小林千鶴の金遣いのことはリサーチ済みでしょうね……実は小林千鶴はケビン・フォードに生命保険を掛けていました。莫大な額というほどではないのですが、離婚するよりはその方が良いと考えるのも自然なんです」
「というと?」
「金遣いなどの問題から別居に至っていますし、二人には子供も居ませんから、小林千鶴からすれば離婚したとしても自分の方に慰謝料はたくさん入ってこないだろうと考えたと思われます。しかし、金遣いの派手だった彼女は出来るだけ多く金を得たかったでしょう」
「なるほどねぇ。それで保険金目当てにフォードさんを殺害したということですか」
ミステリーでは定番の保険金殺人。しかし、それを実行したのが千鶴さんだとすれば、犯人が同日に別人に殺害されたことになる。
千鶴さんを死に至らしめた凶器は持ち去られているのだから、自殺でないことは俺にもすぐ分かる。
「さっきも言ったように、あくまでも推測に過ぎません。カメラの映像が小林千鶴だったとしても、殺害の証拠にはなりませんから」
「私もあの日彼女がどこに出かけていたのかは気になっていますからねぇ。フォードさん殺害の直接の証拠にはならなくても、彼女が目黒駅に出かけていたことが分かれば大進展ですねぇ」
千鶴さんへの疑いが一気に深まったが、同時に謎も深まる。
フォードさん殺害犯が千鶴さんだとしても、千鶴さんを殺害した「もう一人の犯人」は一体誰なのか?
カメラに映っていた女性は千鶴さんなのか?
そして、あの指輪はなんなのか?




