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平成二十五年五月二十五日 日曜日
耳障りなけたたましい音に急かされて、瞼を意に反して上げざるを得ない――布団から右手を床伝いに伸ばして、目覚まし時計のアラームを止める。
多くのサラリーマンや学生にとっては憩いの日曜日。だが俺は今日も八時に出勤しなければならない。
夜中まで雨音が耳啌を賑わせていたが、窓からカーテン越しに差し込む眩しい朝日が今日の天気を物語っている。
洗面所で顔を洗い、歯を磨く。寝起きなのでいつもかけている黒縁の眼鏡をかけていないせいで、自分の顔が霞んで見える。
寝癖でボサボサの髪、切れ長な目は冷たいと言われる――
歯磨きを終えて、髪をとかして整髪料で整える。前髪は爽やかさを意識して左に流している。最後に愛用の黒縁眼鏡をかけると、夏川探偵事務所職員の小島真樹の完成だ。
家を出るまでまだ時間があるので、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、リビングのテレビを点ける。
事件が判明してから四日目で、さすがにトップニュースの座は政治家の汚職事件に奪われてしまったようだ。
昨日の帰り際、夏川さんから明日は千鶴さん宅に行くと教えられた。そろそろ現場検証も終わって、立ち入りが出来る頃らしい。
だが、殺人現場に勝手に入っていいのだろうか? 推理小説やサスペンスドラマでは、お約束のように探偵役が現場を闊歩しているが……
めぼしいニュースもなく、画面の左上に表示される時間表示が出発時刻を刻むまで、ぼんやりと画面を眺めていた。出発時刻を守らなければ背筋の凍る赤ちゃん言葉を耳にする羽目になる。
結局千鶴さんとフォードさん殺害事件の新たなニュースは無く、期待外れ感に襲われていると出発時刻がやって来た。
――京王電鉄橋本駅周辺の光景ももう見慣れたものになっている。カーナビの無機質な音声が律儀に案内をしてくれているが、もう頼らなくとも千鶴さん宅までの道順は頭に入っている。
昨日の雨でダム湖の水位が上がっているように感じる。気のせいかもしれないが……
「千鶴さん宅って、勝手に入っていいんですか?」
「捜査員がいなければただの空き家だから入っていいよ。捜査員がいれば許可してくれるかどうかだねぇ」
「許可してもらえなかったら、ここまで来たのが無駄足になるんですね……」
勾配を登っていくと屋根に赤いランプを付け、白と黒で装飾された車が見えた。どうやら、許可をもらわなければならないらしい。
今回も路肩に車を停めたが、黄色いテープはもう無くなっている。それだけで立ち入りへのハードルがかなり下がった気分だ。
車を降り、玄関の前に近付くと見覚えのある痩せた警察官がこちらに駆けつけてくる。確か五十嵐という警察官だ。
「この家に御用ですか?」
「探偵の夏川です。この前、名刺をお渡ししましたよねぇ?」
痩せた警察官は夏川さんの顔をまじまじと観察すると、俺の顔も凝視する。
「あ、あの時の……。何か御用ですか?」
「松岡警部補はいますかねぇ?」
「本日は松岡警部補は警視庁の合同捜査本部に赴いていらっしゃいますので、ここにはおられませんが」
「そうですか……。この中に入りたいんですがねぇ」
五十嵐刑事は身体をピクリと震わせる。
「うーん、ちょっと待ってください」
懐から携帯電話を取り出し、背を向けて会話を始めた。相手は松岡警部補だろうか? それとも陣頭指揮を執っているという警視庁の藤田警部か?
「真樹君、あっちに行こう」
夏川さんは通話中の五十嵐刑事を尻目に、千鶴さんが刺された現場であるガレージの方へ歩き出す。立ち入り禁止のテープが無いので、ガレージへの立ち入りを阻む障壁はもう無い。
ガレージに停まっている軽自動車の周りに警察官が四人ほど集まっているのは、俺の視界にも入っていた。夏川さんも気になっていたんだろう。
「この車、どうかしたんですかねぇ?」
不意に投げかけられた質問に、警察官の小集団が一斉に驚嘆と欺瞞の入り混じった目で、俺と夏川さんを睨みつける。
「どなたですか?」
「私は夏川探偵事務所の所長をしている、私立探偵の夏川一郎です」
夏川さんが警察官の一人に名刺を差し出すと、今度は視線が俺に集まる。
「夏川探偵事務所の職員の小島真樹です」
慌てて自己紹介をする。名刺を持っていないのでそれ以上の紹介は出来ない。
「事件の日に松岡さんと話していた探偵さんでしょう? 覚えてますよ。今日はどうしてここに?」
集団の中でリーダー格の警察官が、訝しげに夏川さんに問い詰める。身長が俺と同じくらいなので、夏川さんを見下ろす格好だ。
「この家の中に入りたいと思いましてねぇ。もう他の刑事さんに頼んでますから」
「あまり現場を掻き回さないでくださいよ。現場検証は終わりましたけど、まだ事件は未解決なんですから」
「ええ、十分気をつけますから。それより、車の周りに集まって何をされているんですかねぇ?」
警察官たちが互いに顔を見合わせ、アイコンタクトで何かの意思疎通をしているようだ。
「……どうせマスコミにも隠す情報じゃないので言います。この軽自動車は事件当日からずっとここに停まりっぱなしなんですが、何故かブレーキに細工がされてましてね」
「ブレーキに?」
「ええ……あっ」
警察官が何か話しかけた途端、口をつぐむ。玄関の方から五十嵐刑事がやって来たからだ。
「ん? 夏川さん、あまりうろうろしないでくださいよ」
「すいませんねぇ。こっちが気になりまして」
すいませんと言いながら、全く悪びれる様子はない。
「で、この車のことを聞いたんですね?」
五十嵐刑事は両手を腰に当てて呆れ顔をしている。さっきのリーダー格の警察官が五十嵐刑事の方に小走りに駆け寄る。
「五十嵐さん、すいません。どうせマスコミにも流れる情報なので、話してもいいかなと……」
「まぁ、確かにどうせ流れる情報だから仕方ない」
五十嵐刑事の逆鱗に触れなかったことに安心したのか、リーダー格の警察官が穏やかな表情になる。
見た目からすれば、五十嵐刑事は三十代半ばくらい。車の周りにいた警察官達は皆青臭さの残る若手といった感じだ。俺と同い年か下くらいだろう。松岡警部補がいなければ、必然的に五十嵐刑事が仕切り役となるようだ。
「細工とはどういう細工なんですか?」
「ブレーキが効かないようになっています。明らかに人の手で作為的にされた細工です。今日この車を動かそうとして、判明したんです」
もうタガが外れたのか、水が流れるように口が滑らかになっている。
「何故この車にそんな細工がされているんですかねぇ? 千鶴さんはペーパードライバーで車はほとんど運転しませんしねぇ」
「今回小林千鶴を殺害した犯人が怨恨による動機だったなら、車のブレーキが効かないようにして殺そうとしたということも考えられます。だがなかなか小林千鶴が運転しないから、待ちかねて直接刺殺したのではないかと」
「家の中を荒らし、強盗に見せかけて怨恨を隠したということは考えられますが、それだけ恨んでいる相手がペーパードライバーであることを知らなかったんですかねぇ?」
夏川さんに問いかけられた警察官達は、バツの悪そうな顔つきで伏し目がちになる。車に細工までするほど用意周到な犯人が、そんなことも調べていないというのは確かに引っ掛かる……
「そもそもその細工って、どういう風にされていたんですかねぇ? 車内ならキーが無いと出来ないと思いますが……」
「車体の底の部分を細工しています。なので、キーが無くてもガレージに忍び込めば可能です」
五十嵐刑事が警察官達の間を縫うように車の隣まで移動し、片膝を立ててしゃがみ込むと、車体と地面の隙間を指差しながら、説明してくれる。探偵にこんなに喋って良いのかと心配になるほどだ。
「事実上誰にでも出来るということですね? このガレージの前の門扉は簡単に乗り越えられる程度の高さですしねぇ」
「そのようです」
犯人は千鶴さんがペーパードライバーであることを知らずに、ブレーキの効かない細工で殺そうとしたのだろうか?
「ところで、我々は中に入っていいんですかねぇ?」
夏川さんの一言で、五十嵐刑事が電話をしていたことを思い出した。
「入ってもいいが、現場の物をむやみに動かさない。手袋をする。靴は脱いで。何かあればすぐに我々に知らせる。我々の邪魔をしない。――以上のことを必ず守ってくださいとのことです」
「ありがとうございます。では手袋を貸していただけますか?」
夏川さんが図々しくも右手を差し出す。
五十嵐刑事は苦笑を浮かべながら、近くの箱のような入れ物から手袋を二組持ってきてくれた。俺も恐縮しつつ手袋を受け取る。
「では、お邪魔します。指示には必ず従いますから」
早々と手袋をはめた夏川さんは、嬉しそうにガレージの奥へと向かった。俺もその背中を追いかける。
「玄関から入らないんですか?」
「犯人は裏庭側の窓から侵入しているからねぇ。犯人と同じく、そこから入ろう。裏庭の様子もよく分からなかったしねぇ……」
「そういえば、裏の植え込みが邪魔でよく見えませんでしたね」
あの後、千鶴さん宅の裏から細い道をかなりの距離歩いて、ヘトヘトになったのが遠い昔のように脳裏に浮かんだ。その道中で夏川さんがすっ転んだのも同時に思い出す。
夏川さんの靴を見ると、つま先辺りに土がこびりついている。あの時アスファルトの割れ目につま先を取られた時の土だろう。
(そういえば昨日は雨だからって、古い革靴履いてたっけ……)
ガレージを抜けて裏庭へ回る。そんなに広くはないが、芝生が青々と茂っていて丁寧に手入れされていたのが分かる。小さな花壇には小ぶりの鮮やかな花が咲いている。
「派手に破られてるねぇ」
夏川さんが手袋をはめた手で、窓をゆっくりとスライドさせる。さっき念を押されたばかりだから乱暴に動かすわけにはいかない。
俺も夏川さんに続いて靴を脱ぎ、千鶴さん宅へ足を踏み入れる。部屋の中は鑑識が現場検証をした後なので、あの日裏のフェンスから覗いた時に比べて多少片付いているようだ。
「さてと、どこから調べようか……」




