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遠くの空から微かに雷鳴が轟いている。雨足がまた強まるかもしれない。
「夫の事故の事で何か分かったんですか?」
吉永貴子は目を見開いて夏川さんを見つめる。
「いえ、予定も無かったのに急に車のへこみを修理しに行くとは妙な話ですねぇ……しかも大雨の日に。そのへこみって前からあったんですかねぇ?」
「よく覚えていません。夫は車が好きだったみたいですけど、私は車には興味はないので……。しかも電柱に突っ込んだせいで車はボコボコでしたから、元々あったへこみがどれなのかもサッパリ」
アメリカのコメディードラマのように両手を広げて大きく肩をすくめる。夏川さんは顔のパーツを一つも動かさない。
「また、別の話に移りましょうか……」
「ええ」
「今回起こった二つの事件。それぞれの現場には指輪が落ちていました」
夏川さんは『 K & T 』を寛と貴子ではないかと考えていた。いよいよ本人にその核心を突いていこうとしている。
はたから見ている俺の心臓の拍動が、徐々に上がっていく。肋骨の裏で筋肉の塊が躍動している。
「指輪ですか……警察にもさんざん指輪の写真を見せられましたよ」
「フォードさんの遺体の側には『 K & T 』と彫られた指輪が落ちていました。そして、千鶴さんの遺体の側には『 Kevin to ちづる 』と彫られた指輪が落ちていました。――まぁ『 Kevin to ちづる 』の指輪はその二人の結婚指輪で間違いなさそうですが、問題は『 K & T 』の方なんですよねぇ」
「分かりました! そのイニシャルが、寛と貴子になってるから、私の指輪じゃないかって思ってるんでしょう?」
吉永貴子はこれまでと変わらぬ調子で、笑顔さえ見せている。夏川さんの真剣な表情と対照的で陰と陽といった感じだ。
「あなたと寛さんの指輪じゃないんですかねぇ?」
「確かにイニシャルは同じですけど、イニシャルがKの人もTの人もいっぱいいるじゃないですか?」
「ではあなたは、その指輪については知らないんですね?」
「もちろん! 私の指輪だったら、今頃警察に逮捕されてますよ」
そう言って今までよりも強気な笑みを浮かべた彼女と目が合った。背筋に冷たいものが走る。なぜだか今の吉永貴子の笑みに不気味なものを感じたのだ。
「まぁ、所有者の痕跡は綺麗に拭き取られていましたから、あなたの物だという証拠も無ければ、あなたの物ではないという証拠もまた無いんですがねぇ……」
夏川さんも執念深く食い下がっている。窓の外に一瞬稲光が走った。
「では参考までに聞いておきますが、あなたと寛さんの結婚指輪はどういったデザインだったんですかねぇ?」
「イニシャルじゃなくて、結婚記念日の日付を彫りました」
さっきの稲光の雷鳴が遠くから響く。まだ雷雲があるのは離れた所のようだ。
「……事件の日何をしていましたか?」
「アリバイを聞いてるんですね?」
「そういうことになりますねぇ」
「十五時から二十一時までパートをしていました。本当は二十時までの予定だったんですけど、お客さんとのトラブルがあって一時間長引いたんです」
「トラブルとは?」
「私がレジをした時に、卵が割れたとかで……。クレームの電話が来て、その後直接店に来られたんですよねぇ……」
眉尻を下げて苦い表情を浮かべる。
俺もフリーター時代にはコンビニでアルバイトをしたことがあるが、クレームはたくさんあった。
「今日も十五時からパートだと聞きましたけど、いつも十五時からなんですか?」
事務所の時計の二本の針によれば、現在の時刻は十四時三十五分。タイムリミットまで三十分も無くなっている。
「十五時からなのは、水曜と土日です。木曜が朝の九時から昼の十二時までで、月火金は休みです」
「十五時からの日はいつも二十時までですか?」
「そうです」
「まあどちらにしても、事件の日、二十一時までパート先に居たんですね? パート先からフォードさんのマンションまでどれくらいで行けますかねぇ?」
「車で十五分くらいかな?」
二十一時にパート先を出たなら、二十一時十五分頃にフォードさんのマンションに着いたことになる。
フォードさんの死亡推定時刻は、学生グループの証言により、二十時四十分頃から二十一時頃に絞られている。となれば、二十一時の時点でパート先にいた吉永貴子にフォードさん殺害は難しいのではないか?……
だが学生グループの証言も二十一時頃という微妙な表現だ。二十一時十五分でも二十一時頃といえば二十一時頃だし……
「で、事件の日パートが終わってからの行動は?」
「すぐに車で自宅に帰りましたよ。二十時までのパートの日は終わったらすぐ帰って、晩御飯食べてお風呂入って、もう出掛けませんから……あ、でもあの日に限っては帰ってからコンビニに行きました」
「へぇー、あの日に限ってですか」
夏川さんは右肘を机に突いたまま、上半身を乗り出す。その顔には嫌味な粘っこい笑みを蓄えている。
「ええ、朝食にいつも食べているヨーグルトを切らしてるのを忘れてて……。朝ヨーグルトを食べるのが習慣になってるんで、買いに行きました。ついでに飲み物とかも買いましたけど」
「自宅に着いた時間と、コンビニに出掛けた時間、そして帰ってきた時間を覚えていますかねぇ?」
「うーん、自宅に着いたのは二十一時十五分くらいだと思います。ヨーグルトを切らしているのは、帰ってちょっとのんびりしてから晩御飯の用意をしようとした時に気付いたんです。だから、二十一時半頃にコンビニに出掛けたと思うけど……」
語尾が彼女の喉奥に消え入る。三日前にコンビニに出掛けた時間を聞かれても、はっきり覚えていないのは仕方がないだろう……
「帰ってきたのは?」
「コンビニまで車で四、五分だから往復しても二十分もかかってないと思います」
「車で四、五分のコンビニですか? この都会で?」
「歩いて行けるくらいの近くにもあるんですけど、そのコンビニは品揃えが悪いので……」
俺は夏川さんが疑問に思ったことがよく分かる。
この辺りに住み始めた時、コンビニが山ほどあるのに驚嘆した。東京西部の山間部出身の俺からすれば軽いカルチャーショックだった――
「つまり、あなたの言うことをまとめると、二十一時までパート先に居て十五分ごろ自宅に帰宅。そして、半頃にまたコンビニに出掛けて、コンビニに着いたのが四、五分後。帰ってきたのが……コンビニの滞在時間を長めに見積もって、二十一時五十分頃ってところですかねぇ?」
「はい、コンビニに帰ってからは、どこにも出掛けてませんよ。警察にもそう話しましたから、怪しんでるなら警察に聞いてみてくださいよ!」
残念ながら警察に聞いたところで教えてはくれないだろう。警察は吉永貴子のパート先やコンビニの防犯カメラを調べることが出来るが、夏川さんにその権限は無い……
「そのコンビニはどこのコンビニか教えてくれませんかねぇ?」
夏川さんは自らの携帯電話の地図帳を手早く表示させ、吉永貴子の手許に預ける。
吉永貴子は絆創膏を貼った左手で携帯電話を持ち、右手の指で画面をスライドさせている。よくよく見れば、彼女は指輪をしていない。夫が亡くなったから、例の結婚記念日の日付を彫ったという指輪はもうしていないのだろうか?
「このコンビニです」
液晶画面の一点を指差し、夏川さんに示す。恐らくその指先は地図上のコンビニのマークを指しているのだろう。
「ではあなたの家からフォードさんの家まではどれくらいかかるんですかねぇ?」
「私の家からだと二十五分から三十分くらいかな? 道の混み具合にもよりますけどね」
パート先からフォードさん宅に行くにも、自宅に行くにも約十五分……そして、自宅からフォードさん宅までは二十五分から三十分くらい。ちょうどパート先を挟んでフォードさん宅と彼女の自宅が逆方向にあるような位置関係だろうか。
「事件の日のあなたの行動を証明してくれる人はいますか? コンビニやパート先にいた時間はそこの従業員や防犯カメラで分かるでしょうが……あなたの帰宅時間とか移動経路とかを証明出来る人は?」
「今は一人暮らしだから難しいな……あ、でも、コンビニに出掛けるとき車で道へ出ようとしたら、ちょうどお向かいさんが車で帰って来たんです。だから車で出るところは見てるかと」
証人を思い出して興奮したのか声が少し大きくなる。
「その人に聞けば少なくともあの日の二十一時半頃に、あなたが家に居たことは分かるというわけですねぇ。行き先や帰宅時間までは分からないでしょうが……」
「帰宅時間はさすがに……。夜は人通りも少なめの所ですから」
吉永貴子は必要以上に申し訳なさそうに伏し目がちになる。別に証人がいないことを申し訳なく思う所以はないのだが……
フォードさんのマンションに居た学生グループの証言のはっきりした時刻は曖昧だが、それでも二十一時半頃に自宅にいたならフォードさん殺害は不可能そうだ。俺は頭の中に描いた地図を必死になぞる――
パート先から吉永貴子の家までが十五分。フォードさん宅まで行くにも十五分。フォードさん宅から吉永貴子の家まで約三十分。
となると、パートが終わってからフォードさん宅に向かい殺害したとして着いたのが二十一時十五分頃――もちろん、まだ学生グループの言う二十一時頃では無かったとしてだが――
そこから自宅に帰っていては到着が二十一時四十五分頃になるが、まだフォードさん宅から帰宅する途中の筈の二十一時半頃に家を出るところを目撃されていれば矛盾が生じる。
パートが終わってから一旦家に帰り、二十一時半頃に出てコンビニに寄った上でフォードさん宅に向かったとすれば、フォードさん宅に到着するのが二十二時頃。だが、その時刻は既に学生グループが駐車場に居た。彼らもさすがに二十二時頃を二十一時頃とは言わないだろうから、これも不可能だ。
吉永貴子が犯人でないなら『 K & T 』の指輪は一体……?
頭の中の地図が指輪の疑問に掻き消され、結局クエスチョンマークが増えただけだ。
「今日はありがとうございました。そろそろ時間ですのでこれくらいで……」
「どうです、私の無実は晴れましたか? 浮気してたと思われてたから、一番の容疑者でしょう?」
いたずらっぽい声色で冗談交じりに問いかける。夏川さんはその問いには反応しない。
「また聞きたいことがあれば、話を伺うかもしれませんがよろしいですか?」
「またですか……。まぁいくらでもどうぞ、私お喋り好きだから!」
吉永貴子は腕組みをして誇らしげに胸を張る。
彼女から得た印象は、明るく快活な女性だということだ。殺人事件の調査で会ったのでなければ、ただのノリの良い饒舌な女性という人物像を抱いただろう。
しかし、事件の容疑者という色眼鏡を通しているからか、その明るさが逆に怪しげに思える瞬間も幾度かあった。
「じゃあ、失礼しますね。またご縁があれば……」
折り曲げていたスラリと長い脚を伸ばして立ち上がった吉永貴子は夏川さんに、そして俺にも律儀に会釈をして、傘立ての傘を抜くと玄関のノブに手をかける……
「ああ、あと一つだけお聞きしても良いですかねぇ? あなたの左手の絆創膏、それどうしたんですかねぇ?」
開けかけられた扉がピタリと止まった。吉永貴子は自分の左手を一度眺める。
「……家の玄関で躓いて転びかけた時に、地面に手を付いて擦りむいたんです。鈍臭いでしょう?」
「そうですか、ありがとうございました」
再び動きを取り戻した扉が完全に開くと、事務所と外の世界を繋ぐ大きな口から彼女の姿は外の世界へと消えていった。ビルの一階から冷たい風が吹き上げて来ている。
事務所の窓から見えるくすんだ重苦しい空に、一筋の稲妻が走った。稲光に照らされた夏川さんのシルエットが、俺の目には不気味に映った……




