2
平成二十六年五月二十二日 木曜日
ゴールデンウイークも終わり、俺は今日も相変わらず、夏川探偵事務所が入っているテナントビルの階段を登ってい た。
今年は例年より暑いらしく、五月の下旬、それも朝なのに夏場のような陽射しがアスファルトを暖めている。
朝八時。夏川探偵事務所の出勤時間だ。
スチール製の安っぽい玄関扉を開けると右手に夏川さんの事務机があり、いつものように広げた新聞越しにカツラかと疑いたくなるほどきっちりしたシチサン分けをした夏川さんと視線が合う。
「おはよう、真樹君。早速お願い」
「はい、すぐに作りますから」
夏川さんが頼んでいるのは朝食だ。
俺の仕事は探偵事務所の社員というより、家政婦に近い。
出勤すると最初の仕事は俺と夏川さんの朝食作り、食べ終われば皿洗い。午前中はあとは事務所の掃除くらいか……
昼になれば昼食を作り、食べ終われば皿洗い。場合によっちゃ洗濯やトイレ掃除をするときもある。
あ……もちろん依頼者が来れば、お茶を淹れて出したり接客応対もするが……
夏川さんはとにかく家事が出来ないようで、正社員を雇ったのもこの家政婦のような仕事をしてもらうためだろう。
俺が夏川探偵事務所の面接を受けたとき、提出した履歴書に記入した「小島真樹」という名前と二十八歳という年齢、そして現在世田谷区で一人暮らしをしているということだけ確認されて、いきなり採用された。
一人暮らしだから家事が出来ると判断したんだろう。
今のところ、この仕事を全く不満に思っていない。理由はふたつ。
ひとつは俺自身、昔から探偵ものや警察ものの推理小説が好きでたくさん読んできた。だから実際の探偵事務所で実際の事件に関わることに興味があったからだ。
もうひとつは食費のことだ。俺がここで作る朝食と昼食――
それは俺の分も作って俺も一緒に食べるのだが、材料は全て夏川さんが買ったものだ。つまり、俺はここに来れば、朝食と昼食はタダで食べることができる。
探偵事務所は定休日の水曜日を除く、週六日営業してい る。俺は少食なので――一日三食食べる人の気が知れないくらいだ、大袈裟でなく――夕食は要らない。
俺が自分で出さなければいけない食費は、毎週水曜日の朝と昼だけでいいのだ。
正社員として給料をもらいながら、週六でタダで飯を食べられる今の生活は非常に充実している。本当はもっと依頼があればより充実するだろうが……
そんなことを考えながら、トーストと目玉焼き、サラダ、ソーセージという、漫画に出てきそうな感じの典型的な朝食を作った。和食を作るときもあるが、こんな感じの洋食の方が作るのが簡単だ。
夏川さんは定期的に食材を買い出しに言って、それを無造作に冷蔵庫に突っ込んである。
俺は入っている食材を見て作るものを決める。何を、どれくらい作るかも、全て俺の裁量に任せられている。
――雇い主の探偵がボンボンの息子で有難い。食材をたくさん使っても少ししか使わなくても一切文句も言われず、冷蔵庫の中が空いてきたらいつの間にか食材が買い足されている。
「夏川さーん、できましたよー」
キッチンのある住居スペースから事務所にいる夏川さんに声をかける。
…………
(おかしいな? いつもなら声を掛けたらすぐに夏川さんがこちらへやってくるのに……)
「夏川さん?」
俺は仕方なく住居スペースと事務所を仕切る引き戸を開けて、事務所の方へ顔を出す。
「ああ、出来たんだね、ありがとう」
夏川さんはそう返事をしたが、身体はテレビの方を向いていた。こんなことは珍しい。いつもならすぐに空腹を満たしに来るのに……
夏川さんの視線の先には、社会派の話題から、スポーツ、芸能ゴシップまで幅広く取り上げている朝のワイドショーが流れていた。見慣れたいつもの、鼻に付く物言いのコメンテーターが何かを話していた。
「真樹君、これを見てみて!」
夏川さんの身体がクルッとこちらを向く。「これ」とは何のことか一瞬分からなかったが、よく見ると夏川さんの指先はテレビの画面を示していた。
「なんか面白いニュースでもあったんですか?」
俺は画面を目指して歩を進める。すると、癒し系とか言って最近テレビに引っ張りだこの、人気女子アナウンサーのアナウンスが、俺の耳にも届いてきた。
『――遺体で発見された小林千鶴さんの身体には、ナイフによるものと思われる刺し傷があり、警察では千鶴さん宅に侵入した強盗に刺されたものと見て、捜査にあたっています』
「え? 小林千鶴さんって、確か……」
「そう、三週間前ここに浮気調査の調査書を取りに来ていた小林千鶴さんだね」
画面の右下に小さく表示された被害者の顔写真が、俺の中の記憶とリンクする。黒のロングヘア、色白でくっきりとした目鼻立ちに薄い唇……それは、間違いなくあの時の来訪者だった。
「千鶴さんが殺されたんですか!」
「それだけじゃないんだよ……」
そう言うと夏川さんは事務机の一番下の引き出しから青いファイルを取り出し、パラパラと音を立てていたが、やがて一枚の書類を抜き出した。
「千鶴さんの依頼は旦那さんの浮気調査だったけど、千鶴さんの旦那さんというのが、この人」
夏川さんは書類に貼り付けてある写真を指差した。そこに写っていたのは茶髪を短く刈り込んだ欧米系の男。
「この人が千鶴さんの旦那さん、名前はケビン・フォード、三十九歳」
千鶴さんが依頼に来た時、千鶴さんの話し声が俺にも聞こえてきていたから、その名前には聞き覚えがあった。
「フォードさんは親の仕事の都合で中学生の時から日本にいたみたいだから、日本語も流暢で、高校を卒業後は新フジ電機に勤めていたんだよ……だから、中身はほとんど日本人みたいなものだったと思うけどね」
新フジ電機といえば精密機械メーカーでは日本で最大手 で、海外にも展開している超大企業だ。俺も大学生のとき、就活で履歴書だけは送った記憶がある……
「実は千鶴さんの遺体が、神奈川県の千鶴さん宅で昨晩発見されたんだけど、今朝フォードさんの遺体も、目黒区のフォードさん宅で発見されたんだよ……」
夏川さんの視線がフォードさんの写真から俺の目に移動する。
――ぶつかる視線と視線。夏川さんの表情は真剣だった。やたらと赤みのある唇は固く結ばれている。
一瞬時空の歪みに意識が捕らえられたような、静かな衝撃が走った。
「え……つまり夫婦が別々の場所で殺されたということですか……」
当たり前のような疑問が、捕らえられた意識を覚醒させるように口を突いて出た。
「うん、二人は今年の初めくらいから別居してたんだよ。今は元々住んでいた神奈川県相模原市の家で千鶴さんが、ケビンさんは目黒区のマンションで住んでいたんだ」
「誰がそんなことを……」
またも湧き出す当たり前のような疑問……
「それはまだ分からないけど、これから千鶴さんの家に行こう。浮気相手の女が絡んでいる可能性があるからねぇ」
夏川さんはテレビの電源を乱暴に消すと、椅子の背もたれにかけていた、いつもの濃紺のスーツのジャケットを羽織った。