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謀計リング  作者: 茜坂 健
第三章 「浮かび上がる女」
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「と言っても、警察が来た時にもこれがフォード君の浮気相手の写真だと見せられましたけど、その時は思い出せませんでした。彼女を見たのは中尾君の結婚式の時と、葬儀の時の二回……」

 吉永貴子の口元のほくろは、古澤さんにとっても印象的だったのだろうが、さすがに二回会っただけでは思い出せなかったようだ。

「では警察は吉永貴子の正体について、まだ掴んでないんですかねぇ?」

「部下から聞いたんですが、私より後に聞き込みを受けた部下の一人が写真を見て気付いたらしいですよ。だから警察も中尾君と彼女のことは知ってると思います。どこまで聞いたかは分かりませんが」

「それはいつですかねぇ?」

 古澤さんはまたカレンダーに視線を送り、今度は直ぐに視線を正面の夏川さんへと戻した。

「昨日の朝一番でした」

 俺と夏川さんが松岡警部補に吉永貴子の写真を提供したのが、木曜日……

 その翌日である昨日の朝一番に、警察はもう吉永貴子の身元を突き止めたことになる。朝一番ということは、昨日千鶴さん宅で成瀬総合興信所の封筒を見せられた時、すでに警察は吉永貴子のことを知っていたことになる。

 けれどその時は、単に名前と年齢くらいしか教えてくれなかった。どころか、『とりあえず吉永貴子に連絡を取る』とか、いかにもあの調査書を見つけて初めて身元が判明したかのような言い方だった。

 事件現場に現れては、警察と並行して興味半分に事件を嗅ぎ回っている厄介な探偵を軽くあしらったのだろうか……

 松岡警部補の笑顔が脳裏に浮かんだ。やはりあの人でも知っていることを簡単には教えてくれない――推理小説のように、つらつらと情報を教えてはくれないということだ。

「この女性はフォードさんが中尾さんに紹介したんですよねぇ?」

「ええ、詳しい経緯はあまり覚えてませんけど……」

「覚えている範囲で教えてくださいませんか?」

「確か、彼女はフォード君と元々知り合い。学生時代から知り合いだと言っていた気がするけど……結婚式で」

 フォードさんと吉永貴子が学生時代から知り合いとなれば、もし千鶴さんが身元調査も頼んで来ていたとしても、正体を突き止めようとすれば意外と簡単だったかもしれない。

 ましてや大きな成瀬総合興信所からすれば、吉永貴子の身元を突き止めることなど造作もなかっただろう。

「古澤さんは中尾さんの直属の上司でもあったんですか?」

「中尾君も自動車部門ですけど、フォード君と同じで直属の上司になったのは……三年前」

「そうですか……フォードさんは中尾さんに紹介し、その妻になった女性と浮気をしていたということになりますが」

「意外ですね。親友の奥さんと浮気……」

 古澤さんが汗の浮かぶ眉間に皺を寄せる。

「浮気の関係がいつから始まったかはまだ分かりませんがねぇ。中尾さんが亡くなった後からかもしれません」

「それにしても、フォード君はフォード君で奥さんがいたのに、そんなことをするとは……」

 古澤さんはフォードさんに関してかなり好印象を持っていたようだ。やはり自分の部下はかわいいものなのか……

「彼の奥さんの小林千鶴さんのことはご存知ですかねぇ?」

「結婚式に出席したくらいで……フォード君の家に行ったことも無いですから、特別会ったことがあるとか、親しいとかはないです」

「フォードさんは千鶴さんのことを、何か喋ったりしていませんでしたかねぇ?」

「妻の話は酒の席での定番。よく聞きましたよ、最近は愚痴が多かったですが……」

「例えばどういう愚痴でしょう?」

「金遣いが荒いとか、贅沢し過ぎだとか……。確かフォード君の奥さんは専業主婦。フォード君しか稼ぎがないので、お金のことはシビアになってたと思います」

 誰に聞いても千鶴さんの金遣いのことについて、フォードさんが愚痴を言っていたという事実が浮かび上がってくる。フォードさん側も耐えかねていたのかもしれない。

「千鶴さんを恨んでいた人物とか、聞いたことないですかねぇ?」

「それこそ、フォード君自身くらいじゃないですか? ……やっぱり金遣いのこと」

「愚痴をよく言っていたということですが、恨むほどだったんですかねぇ?」

 夏川さんの言う通り、金遣いが荒いことが原因で別居していたとしても、恨みとまで言えるだろうか?

「自分の欲しい物を買うために、フォード君の物を勝手に売ったりしたこともあると聞いた記憶があります。最近は簡単に物を売れるでしょう? 例えばネットオークション……」

「そんなこともあったんですか」

 ただ、フォードさんが千鶴さんを恨んでいたとしても、フォードさんが千鶴さんを殺害したということはあり得ない。死亡推定時刻はフォードさんの方が早いのだから。

 ――そういえば千鶴さんの遺体の側に落ちていた指輪は『 Kevin to ちづる 』と彫られたものだった。そして、サイズからしてフォードさんの物らしいと……

(フォードさんが生きていれば、疑われたことは間違いないな……)

「事件の日、フォードさんは二十時十分頃に退社したようですが、いつもそれくらいの時間でしたかねぇ?」

 窓を叩く雨の音が急に大きくなり始めた。古澤さんが一瞬窓の方に目をやった程だ。朝からの雨はだいぶマシになっていたが、どうやら今日は一日中雨模様らしい。

「一概には言えませんが、確かに最近はずっと八時くらい」

「決まっている訳ではないんですか? 私が浮気調査で彼に張り付いていたときも、大抵それくらいの時間でしたがねぇ……」

「時期によりますから。繁忙期なら、もっと遅くなる日が続くこともありますし、今の時期なら大体八時くらいには帰れます。まぁ八時でも、サービス残業……」

 日本企業の悪しき慣行、サービス残業。

 だが、夜八時に上がれるなら十分な気もする。夏川探偵事務所ならもっと早いが……

「警察から何度も聞き込みを受けていると思いますが、どういうことを聞かれましたか? 吉永貴子の写真以外で」

「今日と同じようなことですよ。フォード君を恨んでる人はいなかったかとか、退社時間とか、夫婦関係」

「なるほど、ありがとうございました」

 夏川さんは手帳を胸ポケットにしまいながら、証言者の労をねぎらうつもりか硬い笑顔を見せる。胸ポケットに吸い込まれた手帳と引き換えに出てきたのは茶封筒だ。それを古澤さんの前に静かに差し出す。

 ――その中身は容易に想像できる。

「どうも」

 古澤さんは慌てて封筒を受け取るとすぐに鞄に突っ込み、ハンカチで汗を拭う。

「失礼します」

 古澤さんは一礼して事務所から立ち去った。俺が出したお茶を回収しようと机に近付くと、夏川さんは腕組みをして大きく背中を反らせる。小さく呻き声を上げ、天井を向いて何かを考えているようだ。

 時計に目をやるともう午後一時になっている。

「吉永貴子と会うのは何時ですか?」

「十四時からだよ。十五時からパートがあるらしいから、あんまり長時間話は聞けないねぇ」

「一時間も無いんですね。一番重要人物なのに……。場所は?」

「彼女の家も世田谷だから事務所まで来てもらうことにしたよ」

 それを聞き、急いでコップを片付ける。一日に二人も客が来たことなど今まで皆無だった。

 事務所の隅にある給湯スペースで、次の客に備えて新しいコップを棚から取り出してお盆の上に置く……と突然夏川さんのシチサン分けの頭が俺の視界を遮った。

「真樹君? 古澤さんの話、聞いてたよねぇ?」

「はい……色々と興味深いことが分かりましたね。中尾寛とフォードさんが同僚だったとは」

「実は、成瀬総合興信所で見た調査書にも、中尾寛が新フジ電機の社員だったとは書いてあったんだよねぇ」

 成瀬総合興信所で遠藤さんが席を外した隙に、調査書を睨みつけていた夏川さんの姿を思い返す。

「分かってたんですか?」

「何かあるかもと思ったけど、そこまで親しい同僚だったとはねぇ……。この情報は大きいよ」

 確かにフォードさんと吉永貴子と中尾寛。この三人が繋がったのは大きいかもしれない。

「他にも分かったことがあるよ。遠藤さんが戻ってくるまでの間だったから少しだけど……。フォードさんと吉永貴子は学生時代の知り合いだったって古澤さんは言ってたけど、あの二人は中学の先輩後輩みたいだねぇ」

「部活動ですか?」

「二人ともバスケ部だったみたい。それ以上は書いてなかったけど」

 もしや当時から恋愛関係があったのでは……?

 漠然とした発想だが、フォードさんが千鶴さんの愚痴をよく言っていたのなら、昔の関係に戻ったということも考えられる。

「それに、吉永貴子は今は自宅近くのスーパーでパートをしているみたいだねぇ」

「ああ、今日も十五時からでしたっけ?」

「夫の中尾寛さんが亡くなってからは収入が無いだろうしねぇ」

 大企業の社員だった夫がいなくなって、生活費を稼ぐのも大変だろう。

「にしても、『かん』だったんですね。夏川さんが『ひろし』って言ったんで完全にそうだと思ってましたよ」

「あの喫茶店に行った後だったからねぇ……。それに一般的にはああ書いたら『ひろし』だよねぇ?」

 残念ながら俺の知り合いに『寛』と一文字で書く名前の人間は存在しないけれど――もっとも三年間もフリーターをやっていたせいで、さして広くはない知り合いの幅ではあるが――一般的には『かん』より『ひろし』が多いように思う。これも先入観というものだろう。

「指輪……」

 夏川さんが小さく呟く。

「指輪?」

「『 K & T 』だよ。あれって、ケビンと貴子じゃなくて、『かん』と貴子じゃないのかなぁ?」

 俺の頭の中でオレンジ色の閃光が僅かに弾けたような気がした。漫画でよくある、豆電球が点灯するかの如く……

「そうか『かんと貴子』もありえますね。でも、ケビンと貴子もありえますし、どっちなんでしょう?」

「それは直接本人に聞くしかないねぇ」

 夏川さんが時計を一瞥する。それは俺に対する、昼食の黙示の催促にも思えた。

 だが、吉永貴子が十四時に来るとなると、のんびり昼食を作って食べている暇はない。

「今日の昼食、チャーハンでいいですか?」

「僕は何でも良いよ。真樹君が作ってくれるならねぇ」

 と、口を真一文字に結ぶ夏川さん。

 金持ちの癖に食べる物にも興味は無いように思える。俺みたいに少食なんじゃなく、三食食べているようだが、何を食べるかについては無頓着だ。

 俺の見立てでは、恐らく夏川さんは俺が帰った後の夕食や俺が来ない定休日は、カップ麺ばかり食べている。台所の食器棚の下の収納スペースに大量のカップ麺がストックされているのを知っているからだ。

 俺を職員として雇う以前の食生活を想像すれば、自分のことではないが悲惨な気分になる。

「すぐに作ります」

 俺は時間が無い時のために、ラップに包んで冷凍しておいたご飯をレンジに乱暴に放り込み、冷蔵庫で冷やされた卵を割って掻き混ぜる。

 吉永貴子からどんな話を聞けるのか、頭の中ではその事がぐるぐると回っている。

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