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謀計リング  作者: 茜坂 健
第三章 「浮かび上がる女」
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 お茶を一口啜った男は、どこか落ち着き無くそわそわしている。殺害された人物のことを、報酬を貰って話すことへの背徳感からかもしれない。

 千鶴さん以来の客人は依頼人ではなく、証言者だ。

 大企業、新フジ電機でフォードさんの上司だった、古澤守という男。頰が弛み、軽く天然パーマがかかった髪は生え際がやや後退している。身なりはどこにでもいそうなオジさんという印象だ。汗っかきなのか、額に滲んだ汗を何度もハンカチで拭っている。

「休みの日にわざわざすいませんねぇ」

「いえいえ、とんでもない」

 とんでもないのは金を払って殺人事件の調査をしようなどという発想をする探偵だと、俺は心の中でツッコミを入れる。好奇心・使命感・正義感……様々なものが夏川さんを動かしている。

「早速フォードさんのことについて、お話を聞きたいんですが、古澤さんはフォードさんとは親しかったんですか?」

「彼の直属の上司になったのは三年前……。でも、私も彼も自動車部品の部門にずっといましたので、直属の上司になる前から良く知った仲でした」

「自動車部品ですか……。新フジ電機の得意分野はカメラとか光学機器ですよねぇ?」

 夏川さんの言い方が妙に嫌味っぽく聞こえる。

「そうです。日本最大手だけあって、事業展開がかなり広範囲。だからアウェー感はありますよ、正直」

 疲れ切った様子で滴る汗を拭う。こんなに汗っかきでは仕事に影響が出そうな気もするが……

「古澤さんやフォードさんもそういう部門に行きたくて入社したんじゃないんですか?」

「あ、いえ、私は最初から自動車部品に携わりたいと思っていたので……。それは、彼も同じですよ。だってフォード君が卒業したのは工業高校の自動車工学科。卒業して、高卒でうちに入りました。」

「ほう……そうでしたか」

「フォード君が最初目指してたのは自動車整備士。でも、結局うちからの内定を貰ってうちに来たんです」

 文系の俺は工業高校のことは詳しく知らないが、工業高校でも自動車工学科がある所は珍しいだろう。

「彼は社員としてどうでしたか?」

「それは優秀。仕事は非常に真面目……。自動車工学科出身だけあって自動車の知識もかなり豊富でした」

 古澤さんは焦っているのか、手に持っていたハンカチを落としてしまい、慌てて拾い上げる。終始落ち着きがない。

 これでも大企業で人の上に立つことが出来るのかと思えば、三年もフリーターをやっていた自分が情けない。

 俺が就職したのは小さな食品メーカーだったが、仕事にやりがいを感じられなくなり辞めてしまった。なんせ食べることに興味が無いのに食品メーカーに勤めても上手くいく訳もない――

「そうでしょうねぇ。あれだけの大企業に高卒で入るのは、かなり大変なんじゃないですか?」

 夏川さんが低く唸る。

 高卒でそれだけの職に就く者もいれば、あれだけ大金持ちで、こんな小汚い探偵事務所を開いている夏川さんのような変人もいる。世の中チグハグなもんだ――

「どうでしょう……理系企業はありますから、高卒の採用枠」

 話を聞いていると、この人は体言止めが多い。しきりに汗を拭う仕草と相まって挙動不審な感じがする。

「社員として優秀ということですが、職場での人間関係などはどうでしたか? 誰かに恨みを買うようなことは無かったですかねぇ?」

「恨みを買うような性格ではなかったと思います……ただ……」

 なにやら奥歯に物が挟まったように、言葉を喉元で発するか発さないか迷っているように見える。

「心当たりでもあるんですか?」

「いや、逆ならあるかもと思って……」

「逆?」

「彼が入社した当時……もう二十年くらい前のこと……」

 なおも思いついた言葉を、無制御に口から出していいものかどうかを躊躇しているのだろうか? 喉仏が微細に上下しているのが分かる。

 しかし、彼は意を決したように顔を上げて真っ直ぐ夏川さんを見つめる。

「当時、まぁ今もですが、外国人の社員は珍しかったもので……嫌がらせ、もっと安直に言えばいじめ紛いの扱いを受けていたことはありました」

「他の社員からですか?」

「そうですね。事務系の部署と違って現場職。高卒の社員が多いものですから、まだ精神的に幼い奴もいますので」

「それは一種の人種差別のようなものだったんですかねぇ?」

「だと思います。私はその頃は直属の上司ではありませんでしたし、あくまでも会社。学校じゃないので、あまり助け舟を出すようなことはしてません」

 古澤さんはいかにもバツが悪そうにしている。

 高卒ならまだ十八歳……社会人といっても学生に毛が生えた程度だから、そういうことも起こりうるだろう。とはいえ、会社内のいじめは陰湿かもしれない。

「つまり、フォードさんは人に恨まれるようなタイプではなかったけれど、かつてのいじめのことで、恨みを持っていたかもしれないということですかねぇ?」

「かもしれないという程度ですが……なにしろもう二十年くらい前ですから、二十年……」

 二十年という月日がどの程度のものか、二十八歳の俺にはイマイチピンと来ない。八歳の時から今までと言ったって、小学生の頃は時間が経つのがとてつもなく長かったもんだし、部活に追われていた中高は早かった気がする。

 でもそれは今振り返ればそう感じるというだけで、小学生の時に『時間が経つのが長いなぁ』などと考えたことも無かっただろう。

 ――フォードさんにとっての約二十年が、その出来事をどう消化したのかは分からないが、人種差別から来るいじめがフォードさんの心に、深い傷を作ったことは推し量られる。

「それだけ二十年前を強調されるということは、そのいじめ紛いの扱いは今は無くなったんですか?」

「最初の一年くらい続いていたんですかねー……。無くなるきっかけは彼と同期で入社した一人の社員……」

 古澤さんは再三再四額をハンカチで拭う。今日は雨で涼しいのだが、暑い日はもっと酷いのだろうか?

「一人の社員?」

「ええ。残念ながら、彼も一年くらい前に亡くなったんです。原因は不運な交通事故………」

「一年くらい前に交通事故でねぇ……」

 夏川さんが自らの意識を外界から遮断したかのように深く考え込む。

「彼はフォード君から紹介された女性と結婚したんです。その女性は結婚式で見ただけでしたけど、口元にほくろのある美人でした」

 そこまで聞いて、俺にも引っ掛かるものがあった。

 一年くらい前の交通事故で亡くなった、口元にほくろのある奥さん、そしてフォードさんとも関連性を持つ……

 ひらひらと糸口が揺れている。手を伸ばせばそれを掴むことが出来そうだ。俺は夏川さんよりも早く手を伸ばす。

「すいません。その社員さんの名前って?」

 あまりにも不自然に俺が口を挟んだので、古澤さんは何が起こったのか分からないといったように唖然としていたが、俺の方に向き直って口を開く。

「名前は、なかお君。なかおかん君」

 俺は半分は痛烈なジャブをを食らわせたが、半分は肩透かしを食らった気分だった。

「なかお……かん?」

「そうです。上中下の中に尾道の尾で中尾。それに、寛大とか寛容とかの寛ですよ」

 ここまで聞いて、ようやく糸口を掴んだ手応えがあった。

「『なかおかん』ですか……ひろしじゃなかったんですね、夏川さん!」

 古澤さんは目を瞬かせてキョトンとしている。

 ――無理もない。『中尾寛』という名前を、俺と夏川さんは昨日聞いたばかりなのだが、古澤さんはそんなこと知る由も無い。

「僕としたことが、喫茶店のマスターの名前に引きずられてしまっていたねぇ。振りがなも振ってなかったし……」

「本当ですね。マスターの寛明という名前と『純喫茶ひろ』という店の名前が頭に残っていたので、寛という字を見た時、無意識に『ひろし』だと思ってしまったんですね……」

 成瀬総合興信所の調査書に記されていた、吉永貴子の元夫の名前。それが、フォードさんの同期入社の同僚と繋がった。古澤さんはフォードさんから紹介された女性と中尾寛が結婚したと言った。

 つまり、フォードさんの浮気相手である吉永貴子と元夫である中尾寛を結び付けたのは、他でも無いフォードさん自身だった。

「とりあえず、お話の続きを伺いましょうか。その中尾寛という社員さんが、フォードさんへのいじめの解消にどう貢献したんですかねぇ?」

「中尾君がフォード君にとっての職場で最初の友人になったんです。中尾君は学生時代はラグビーをやっていてガタイは大きかったんですが、心はすごく優しい。まさに、気は優しくて力持ち。そんな性格でしたから」

「友人を得たことで、いじめ紛いの扱いはなくなったということですか?」

「フォード君も元々は優しく、大らかで明るい性格ですが、それが中尾君という友人を通して他の従業員にも伝わったんでしょう」

 学校なんかでも良くあることだ。クラスで一人孤立している生徒が、話し相手ができた途端、その話し相手を介して他の生徒とも会話をするようになり、次第に交友の輪が広がっていく……

「要するに、フォードさんにとって中尾寛さんは、人種差別的ないじめを受けていた自分の友人になってくれた、大事な同僚だったんですねぇ?」

「二人が仕事終わりに一緒に飲みに行くところなんかよく見ました。仲良かったですね」

 古澤さんは懐かしむように遠い目をしている。

「中尾さんが交通事故で亡くなった時、フォードさんはどんな様子でした?」

「そりゃあ悲しみに暮れていたって感じで……。初めて見ましたよ、彼の涙」

 古澤さんはお茶で口を潤すと、事務所の壁にぶら下がっているカレンダーに目をやる。

「えっと、本当につい最近……。中尾君の一周忌だったんです」

 俺と夏川さんの視線も自然とカレンダーに向かう。あのカレンダーもこんなに見つめられたことは初めてだろう。

「……二十二日でした」

「二日前ですねぇ」

 フォードさんと千鶴さんが殺害されたのは二十一日だ。中尾寛の一周忌と事件が起こった日が近いのも、何か意味があるような気がする。

「ところでフォードさんが浮気をしていたのはご存知ですか?」

「それはニュースで見て驚きました。別居していたのは知っていましたが、まさか浮気をしているとは……」

 夏川さんが吉永貴子の写真を古澤さんの前に差し出す。

「これが浮気相手の写真ですが、中尾寛さんの奥さんはこの人じゃないですかねぇ?」

 古澤さんは写真を一目見て、すぐにコクリと小さく頷く。

「よく覚えてます、この口元のほくろ」


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