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平成二十六年五月二十四日 土曜日
世田谷と川崎を分断している多摩川を渡ると、すぐに川崎市に入ったことを知らせる標識があった。
リアウィンドウに打ちつける雨粒が、ワイパーによって拭われては、また新たな雨粒が視界を遮る。朝から鈍色の空が広がり、空気は冷えている。
ここ数日の暑さの反動か、今日は目が覚めた時から強い雨が降り続いている。
成瀬総合興信所も夏川探偵事務所同様、土曜日も営業しているらしい。
カーナビに映し出されるルートを辿っていくと、大きなオフィスビルから張り出した看板に成瀬総合興信所の文字を見つけた。オフィスビルの来客用駐車場に車を停めて、傘を差して入り口へと歩く。
「ひどい雨だねぇ」
「本当ですね。横殴りの雨ですから、傘を差してたのにズボンの裾が濡れてしまって……」
「僕も、靴を変えてきて良かったよ」
夏川さんの足下に目をやると、昨日まで履いていた革靴ではなく、少し薄汚れた古そうな革靴に変わっている。雨の日用に古い革靴を取ってあるのだろう。
(あんまり金持ちっぽくないな……)
俺は一人で苦笑したが、当然隣の夏川さんはそれに気付かない。
「じゃあ入ろうか。四階にあるみたいだねぇ」
自動ドアをくぐると、エレベーターが正面に見える。乗り込むと階数ボタンの上に各階に何の会社が入っているのかが表示されているが、確かに四階に成瀬総合興信所が入っているようだ。
エレベーター独特のふわりとした感覚が襲ってきたかと思えば、すぐに到着音と共に四階で停止した。俺はエレベーターが上昇する時のふわりとした感覚がどうも苦手なのだ。
ゆっくりと扉が開くと、左手の方にガラスがはめ込まれた重そうな扉が見えた。
「あそこですね。成瀬総合興信所と書いてあります」
事前にアポはとってあるので、躊躇いなく扉を押し開けた。
大きな興信所だけあって、入り口のすぐ隣に受付がある。そこに座っているピンクの服を着た中年の女性に名前と案件を告げると、内線電話で所員を呼んでくれた。
入り口の前は廊下が左右に延びていて、右の方に扉が並んでいる。恐らく、依頼者と会うための個室だろう。左の方に目をやると突き当たりに大きな窓があり、ガラスにぶつかった雨粒が止めどなく流れている。その右側の壁に空いた通用口から一人の男が姿を現した。
「これはこれは、遠いところ御足労を……」
やたらと腰を低くして出てきたのは、くたびれたスーツを着た三十代くらいの男だ。俺はその男の渋く突き刺さるような声をどこかで聞いたことがあった。
――男は無精髭を綺麗に剃り、髪も整髪料ですっきりと整えているが、その面影と声が記憶の中のとある人物とリンクするまで時間はさほど必要ではなかった。
「遠藤さん?」
「ああ、よくお覚えで……」
見た者を不穏にさせる怪しげな笑み……
紛れもなくフォードさんのマンションに住んでいた、遠藤要二という男だ。
「これをどうぞ」
手渡された名刺には『成瀬総合興信所所員 遠藤要二』と記されている。洞察力や記憶力が良い仕事とは、探偵のことだったと今更ながら気付いた。
「遠藤さんも人が悪いですね……探偵ならそう言ってくだされば良かったのに」
「えっと、小島真樹さんでしたね。ちょっと意地悪をして、サラリーマンだなんて言ってしまいまして……」
いたずらっ子のように無邪気に笑うその顔は、あの時会った人物のイメージとはかけ離れている。
「でも、夏川さんは私が探偵だと気付いていたみたいですが」
「ええ。なんとなくねぇ」
夏川さんと遠藤さんの間にシンパシーのようなものを感じたのは、同じ探偵同士だったからなのか。類は友を呼ぶではないが、遠藤さんが探偵だとあの時感じ取っていたのだろう。
だが、夏川さんも、探偵だと分かっていたならそう言ってくれればいいのに……
「しかし、まさかここの所員だったとは、思いもしませんでしたよ」
夏川さんは俺のことは眼中になく、遠藤さんの方を向いて話し出す。
「私も、まさかうちの所長が殺された小林千鶴さんから依頼を受けていたとは知りませんでしたよ。調査に出てたり、依頼者の相談を受けていたりすると、所員同士あまり会えなかったりしますからしかたないですが……」
「千鶴さんから依頼を受けていたのは、所長さんなんですか?」
「そうなんです……。まぁ、入り口で話をするのもなんですから、奥の個室へどうぞ」
まるでマンションの部屋を訪れた時のように、本来は興信所に依頼に来た客用であろう奥の個室へと通される。
小綺麗な内装と大きな設備は、夏川探偵事務所とは月とスッポン、いや、それ以上の違いだ。
「では、少々お待ちください」
個室の中には小さな机を挟むようにして、革張りのソファーが並んでいる。俺と夏川さんがゆっくりと腰を下ろすと、優しく尻を受け止めてくれる。いつも夏川探偵事務所で座っている硬い椅子と全然違うことにも、もはや驚かない。
暫くすると、遠藤さんが冷たい麦茶と、分厚いファイルを持ってきた。麦茶を置く様子が、遠藤さん宅で冷たいお茶を出してくれた時の光景とダブる。
遠藤さんは正面のソファーに腰を下ろす。
「小林千鶴さんから依頼を受けたのは成瀬所長でした。その成瀬所長は今仕事で海外にいまして……」
「仕事で海外ですか!」
静かな空気を切り裂くような大声を出してしまったことに気付き、自分の口元を手で隠す。仕事で海外だなんて、夏川探偵事務所では考えられない――
「ある企業の海外支社に行ってるんですよ。十五日の木曜日からです」
「ずっと海外にいたので、依頼主である千鶴さんが殺害されたことを知らなかったんですねぇ」
「そうです。昨日警察から電話があって、我々所員も驚いて所長に連絡してみたら、確かに小林千鶴という女性から依頼を受けたということでした」
「遠藤さん以外の所員さん達も、千鶴さんがこの興信所に依頼をしていたことを知らなかったんですか?」
「そうみたいですね……。さっきみたいに、入り口の近くに受付があって、依頼に来たお客さんはすぐに個室に連れて行って話を聞きますから、担当の所員以外は会わないことが多いですからね。受付のおばちゃんも、テレビ嫌いらしいですから……」
遠藤さんが顎をなぞりながら淡々と答える仕草も、遠藤さん宅で見た光景と同じだ。あの時は顎は無精髭だらけだったが……
「千鶴さんは浮気相手の女の身元調査を依頼されたんですよねぇ?」
「そのようですね。これが、所長の作った調査書です」
ファイルには、千鶴さん宅で見つかった調査書の原本を白黒にコピーした物が綴られている。
コピーだから同じで当たり前だが、やはりそこに記されているのは吉永貴子という名前だ。
「千鶴さんが依頼に来られたのは?」
遠藤さんの指が、何枚かの書類を捲りあげて、止まる。
「えっと、今月の二日ですね」
「五月二日……。私が千鶴さんに調査書を渡したのが、四月の二十八日ですから、わずか四日後ですねぇ」
「因みに、所長が小林千鶴さんにこの調査書を渡すはずだったのは今月の十六日なんです。ただ、さっきも申し上げたように、所長はその前日の十五日から海外に行かなければならなくなりまして……」
随分忙しい所長だ。自ら海外まで仕事に出向くとは……
「では千鶴さんに渡したのは、遠藤さんなんですか?」
「いえいえ、だったら報道を見て気付いてますよ」
遠藤さんは顔の前で小さく手を振る。
「私は夏川さん達がうちを訪れてくると聞いて、だったら顔見知りの私が応対しましょうということで、こうやって担当した所長に代わって案内をしているだけですよ……。それで、十五日の時点で調査書は既に完成していたので、郵送したらしいです」
「郵送ですか……」
「所長曰く、依頼料は前払いで貰っていたようですし、海外に行かなければならなくなったので、郵送で調査書を送るという形でも良いかと電話で確認したらしいです」
「発送したのは十五日ですか?」
「ええ。十五日に発送して、海外へ出発したとのことです。まあ、送り先は相模原ですから遅くとも翌日には届いていたでしょう」
つまり、当初千鶴さんが調査書を受け取るはずだった十六日には、千鶴さんは調査書を手にしていたことになる。
夏川さんは遠藤さんに許可も取らずにファイルに手を掛け、パラパラと調査書に目を通している。吉永貴子の日常生活やフォードさんとの密会の隠し撮りなどの記載が、びっしりと紙面を埋め尽くしている。
「これのコピーを頂くことは出来ませんかねぇ?」
遠藤さんが上体を仰け反らせて宙空を眺める。
「警察には提出しましたが、いかんせんあなたは私立探偵ですからね……。ちょっと待っててください、副所長に聞いてきますから」
再び部屋の中は静寂が満たされる。気まずい雰囲気を感じたので、口を開いてみる。
「コピーなんて貰えますかね? 守秘義務とかあるんじゃないですか?」
「確かに依頼者や対象者の個人情報は守らなければならないけど、依頼者はもう亡くなってるし、この情報は刑事事件に絡んでるからねぇ」
「刑事事件に絡んでいても、遠藤さんが言っていたように、僕達は警察じゃないんですから、捜査権はないでしょう?」
「まぁそこは同じ探偵同士のよしみで……」
いくら探偵同士とはいえ、個人情報満載の調査書のコピーをくれたりするのだろうか……
「なんて、どうせ吉永貴子さんとも会うんだから、貰えなかったら自分で聞き出せばいいからねぇ。というより、今のうちにこの調査書を頭の中に叩き込もうかねぇ……」
夏川さんは、無造作に置きっ放しにされたファイルを睨みつけている。どこまで本気で言っているのか分からないが、今も夏川さんはその眼球を通して、調査書の情報を頭の中にコピーしているのかもしれない。
不意に個室の扉が大きな音を立てて開けられた。
「お待たせしました……副所長に聞いたんですが、やっぱり個人情報ですからマズいので無理ですね」
やはりそうだろう。個人情報については五月蝿い昨今だ。
捜査権も無い、ただの探偵に過ぎないことを思い知らされる。
「それはしかたないですねぇ――」
呟く夏川さんからはそんなに残念そうな雰囲気は感じられない。やはりもう調査書の中身は頭の中に叩き込んだのだろうか?
「ところで、警察から連絡があった後、所長さんに電話したのは遠藤さんですか?」
「いえ……その時は夏川さんが来られるとは知らなかったので、私は出しゃばりませんでしたから」
「では電話した所員から、所長さんが今回の調査について、何か仰っていたとか聞きませんでしたか?」
「うーん……特には……」
遠藤さんが右手の人差し指を単調なリズムで机にぶつける度に、爪が天板に当たってコツコツと音を立てている。その一定のリズムが心地よくなりだした時、突然音が鳴り止んだ。
「そういえば、依頼を受けてから中間報告をしていないらしいと聞きましたね」
「中間報告?」
「この依頼、受けたのが二日で、調査書を渡す予定だったのが十六日で二週間に渡るでしょう? うちでは、二週間以上の期間で依頼を受ける時は、出来るだけ中間報告をすることにしているんです」
「しかし、それをしなかったと?」
「そうみたいですね。ただ、中には依頼者側の予定が合わないこともありますし、交通費が嵩むのを嫌がって中間報告は結構と仰る依頼者もいますから、珍しいことではないですかね……」
申し訳なさそうな声色なのは、せっかく思い出したことが大して珍しいことではなかったからだろう。
「それ以外には特にはないですね……」
「ありがとうございました。参考になりました」
夏川さんはおもむろに立ち上がった。釣られて俺も膝に手をついて立ち上がる。
「もうお帰りですか?」
「今日は忙しいので……。これからフォードさんの会社の上司や、吉永貴子さんとも会わなければなりませんからねぇ」
「なんだ、吉永貴子とも会うんですね。なら安心ですよ」
「安心とは?」
「さっき私が副所長の所に行っている間に、ここに置いておいたファイルを写真にでも撮られたかと思いましたから……」
低いトーンの声が妙な緊張感をもたらす。もちろん、夏川さんはファイルを睨みつけていたが、写真など撮っていない。
「写真なんて撮りませんよ。必要な情報は吉永貴子さんから得るつもりですからねぇ」
「だったらあんなお願いしないで下さいよ」
頭を掻きながら、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる遠藤さんを尻目に、夏川さんは既に入り口の扉の前に立っている。
「お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。では、この辺で」
――結局遠藤さんは興信所の前のエレベーターまで見送りに来てくれた。あの時は怪しさと親切さが混ざり合ったような人だと思ったが、今はむしろ親切さばかりが感じられる。
激しかった雨は今は小康状態になっている。湿気を豊富に含んだ空気に触れて、自分のズボンの裾の冷たさが不快に感じられる。中途半端に乾いた裾が足首にまとわりついてくる。
「次はフォードさんの上司ですよね?」
「うん、事務所に来てくれるみたいだから、早く帰ろうか」
土曜日のこの大雨の中、わざわざ夏川探偵事務所に来てくれるとは、夏川さんの財力がモノを言っているのは確実だ……
半ば呆れながら、雨がシートを濡らさないよう、素早く車に乗り込んだ。