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「身元調査の書類? じゃあ千鶴さんは、私からの身元調査の提案は断って、この興信所に浮気相手の女の身元調査を依頼したんですか?」
「そうみたいだな……。名前や住所、生活までバッチリ調べられてるぜ」
松岡警部補が逞しく日焼けした大きな手を封筒に突っ込み、中から書類を出す。白い書類が陽射しを反射して眩しい。
「女の名前は吉永貴子。三十八歳で、去年夫を亡くして今は世田谷で一人暮らしだ。あんたが見せてくれた写真の人物と同一人物とみて間違いないな」
そう言って俺と夏川さんの目の前に、その書類に貼付された写真が掲げられた。印象的だった口元のほくろの位置がぴったり一致する。
「世田谷とは灯台下暗しですねぇ。うちの探偵事務所も世田谷ですよ」
「ついさっき見つけたところだから、これからしっかり調べないといけないですが、とりあえずこの興信所と吉永という女性に連絡を取りました」
「それで?」
夏川さんが食い気味に藤田警部に尋ねたが、藤田警部が陰湿な目付きで睨みつける。
「貴方ねぇ……。貴方をここに呼んだのは、夏川探偵事務所の調査書の確認をしてもらうためであって、それ以上のことに首を突っ込むのはやめてください」
松岡警部補が藤田警部の後ろで、小さく肩をすくめて見せる。藤田警部は俺みたいに簡単には乗せられないぞという意味だろうか?……
「では、ありがとうございました。我々は捜査に戻りますので」
なんの余韻も残さず、一瞬で去っていく藤田警部――。松岡警部補の方を一瞥したが、彼もこれ以上話すことはないといった感じで黙り込んでいる。
「すいません。我々もこの興信所の方と吉永貴子さんに会いたいのですがねぇ……。警察も会うんでしょう?」
「もちろん連絡を取って、話は聞くが、まさかついてくるなんて言わないよな?」
「ええ。警察の邪魔にならないようにしたいので、警察と被らないようにしようと思ってるんでねぇ」
なんとも厚かましい言い方だ。とはいえ、警察が聞き込みに行った先で、この変人探偵が出没したら目障りなのは確かだ。あまり邪魔をして独自調査が違法行為になってはいけない。
「そうか。そりゃご苦労さん。いつ会うかはまだ分からないから、それを聞こうとしても無駄だぞ!」
松岡警部補が白い歯を見せてニッと笑う。そしてすぐに身を翻して千鶴さん宅の中に消えていった……
「残念でしたね……向こうの日程が分からなくて」
「じゃあ勝手にやらせてもらうしかないねぇ。とりあえず、興信所はさっきの封筒に電話番号が印刷されていたし、吉永貴子の電話番号や住所も覚えたしねぇ」
「覚えた?」
「さっき松岡警部補が書類の写真を見せてくれたよねぇ? あの時隣に書いてあった住所や電話番号が見えたからねぇ」
日本語なのに何を言っているのか分からなかった。
松岡警部補が書類を掲げて見せたのはほんの数秒だった。その数秒で、目で見ただけの住所や電話番号を暗記したというのか……
「探偵なら、それくらいの洞察力や記憶力は必要だよ」
夏川さんの頬の針金が無理矢理捻じ曲げられる。自慢気な笑み――だろう。
「驚きました。僕なんか、写真の女があの浮気相手の女と同一人物かどうか確認するので、一杯一杯でしたよ」
「他にもその下に家族構成が書いてあったねぇ。去年夫を亡くしたって言ってたけど、夫の名前は『なかおひろし』だったねぇ。漢字では、真ん中の中に尾っぽの尾……。それから、さっき行った喫茶店のマスターの名前の寛明と同じひろの字で『なかおひろし』」
本当によく覚えていると感心する。眼球がフィルムになっているのではないか……
「『中尾寛』ですか。てことは亡くなる前は中尾貴子だったってことですね」
「だろうねぇ……。今は一人暮らしって言ってたから子供もいないんだねぇ」
その時、俺の頭の中で閃光が走った。
「もしかして、『 K & T 』って、ケビンと貴子のことですか!」
そのことに気づいた自分に興奮して、声のボリュームが普段より幾分大きくなってしまった。
「フォードさんが浮気相手に贈った指輪ってことだねぇ……。もちろんそれで確定ではないけど、可能性はかなり高いねぇ」
「その指輪がフォードさんの遺体の側にあったってのはどういうことでしょう?」
「皮脂とかが拭き取られてるからねぇ……。もし吉永貴子が犯人なら、なぜわざわざ殺害した浮気相手から貰った指輪を置いたのかが分からないよねぇ……」
夏川さんが額に手を当てて、俯き加減で目を瞑って考え込んでいる。
何かのメッセージのつもりで置いたのか? それとも他に意味があるのだろうか?
「皮脂や指紋を拭き取ったなら、指輪の持ち主が分からないと思って敢えて置いたんじゃないですか? メッセージのつもりで」
結局、抽象的な案しか浮かばなかった。
「確かに指輪に彫られているのもイニシャルだけだし、浮気のことが公になってなかったなら、指輪から足はつかないとタカを括ってわざと置いたのかもしれないけどねぇ……」
夏川さんは明らかに不満そうな顔をしている。それも無理はない。そこまでして、なんのメッセージなのかがさっぱり分からない。
「吉永貴子の皮脂や指紋がついていれば、彼女が犯人で確定なんですけどね……」
「その場合は、吉永貴子が指にはめていた指輪が落ちていたことになるからねぇ。まぁ、指にはめている指輪が勝手に外れるってことはないだろうから、突然襲われたフォードさんが抵抗した時に犯人の手を掴んだりして、指輪が外れて落ちたって感じだねぇ……」
皮脂や指紋があればそれが真相で、めでたしめでたしとなるのだろう……
しかし、抵抗したフォードさんの指紋はおろか、指輪の持ち主の指紋などの形跡も拭き取られているとなると、作為的に置いたとみるのが自然だ。
「もしかしたら、吉永貴子が指輪を指にはめていたんじゃなくて、綺麗に拭いた指輪を鞄とかポケットに入れていただけなのかもしれないですね。それがたまたま、落ちてしまったとか……」
「――それなら、一応説明はつくけど……なんだか腑に落ちないよねぇ?」
ごもっともだ。言った俺も腑に落ちていないのだから……
「第一、イニシャルがKとTのカップルなんていっぱいいるだろうしねぇ」
「今のところはケビンと貴子が有力でしょう? 浮気していたのは間違いなさそうですし」
「そうだねぇ……。とにかく、興信所に電話してみよう。探偵同士なら、色々教えてくれるかもしれないしねぇ」
夏川さん以外の探偵も変人なんだろうか?
そんな疑問がふと頭に浮かんだが、それを夏川さんに尋ねるわけにもいかないので、疑問は一旦しまっておこう……
夏川さんはさっそく車に乗り込んだ。今日も千鶴さん宅は立ち入り禁止になっているので、もうこの場所に用はないのだろう。
俺も運転席に乗り込み、エンジンを起動させる。
「事務所に帰りましょうか」
隣の夏川さんは、俺の声には反応せず、携帯電話のディスプレイと向き合っている。
車が動き出すと共に、夏川さんの指が迷いなくディスプレイの上を滑ったかと思えば、夏川さんは携帯電話を耳に押し当てる。
重力に任せればアクセルに触れずとも、下り坂で次第にスピードは速くなり、時折ブレーキを軽く踏みながら進んでいく。次第に、気の遠くなるほど大量の水を蓄えたダム湖のたゆたう水面が目の前に広がってくる。
水面に最も近付いた所でT字路を右折し、橋本駅の方面を目指す。
車内を賑わせていた電話越しのやり取りがひと段落すると、夏川さんは携帯電話を耳から離し、通話を終えた。
「真樹君、明日は川崎市だよ。午前中、成瀬総合興信所に行こう。明日は午前中に、フォードさんの上司にも会わなきゃいけないから忙しいねぇ」
「川崎ですか……。毎日神奈川出張ですね」
やや皮肉を込めたつもりだが、夏川さんは無表情でまたディスプレイを眺めている。
俺も事件の調査は興味を持っているが、たまには自分で運転してほしいものだ。
――事務所に帰ったとき、時刻はちょうど昼の一時過ぎだった。いつもの仕事である昼食作りをしなければならない。
車内で吉永貴子に電話をかけた結果、明日の午後に会えることになったようだ。みんなよく協力してくれるものだ。夏川さんの財力がモノをいっているのかどうかは知らない。
――台所の小さなシンクの前で、氷水に麺を浸す。
ここ最近の暑さに参って、今日は冷やしうどんを作ろうと思い立ったのだ。天気予報通りに、明日は雨になるだろうか? 気温が下がるのは良いが、蒸し暑くなられるとますます鬱陶しい天候だ。
「夏川さーん、出来ましたよー」
叫ぶや否や、すぐに夏川さんが姿を現し、テーブルにつく。
「今日は冷やしうどんです。暑いですからね……」
「ありがとう。成瀬総合興信所のホームページを見ていたんだけど、結構大きな興信所みたいだねぇ。所員もたくさんいるみたいだよ」
同じ探偵事務所でも、夏川探偵事務所とは大きな違いだ。
冷たい昼食を食べてすっきりしたが、午後からの茹だるような暑さに身体を再び温められるばかりで、客も来ないままこの日も営業終了。
明日は多くのサラリーマンにとって休日となる土曜日だが、客相手の探偵事務所は土曜日も通常営業だ。とはいえ、午前中は川崎の興信所に行き、フォードさんの会社の上司に会い、さらに午後は浮気相手の女・吉永貴子に会うということだから、営業日なのに留守になるのは確実だろう……
フォードさんの浮気相手である吉永貴子や、千鶴さんからその身元調査を依頼されていた興信所が浮かび上がり、調査は急速に進展を見せた。
俺はそんな手応えを感じている。