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「あ……自己紹介を忘れていました。私、マスターの相楽寛明と言います」
つむじが見えるほど深く頭を下げられ、俺も畏まって会釈をし返す。マスターの左胸の所には『相楽寛明』と書かれ、ご丁寧に漢字表記の上に平仮名で『さがらひろあき』と読み仮名までふってくれてある名札が付いているので、紹介されなくても読み方まで知っていた。
恐らく、この喫茶店の名前、『純喫茶ひろ』もひろあきという名前からとっているのだろう。
……さっき接客してくれた女の子も名札を付けていたが、名札の文字でなく、それが付いている胸自体に目が行ってしまったので、名前が何だったか全く覚えていない。
「私は夏川探偵事務所の夏川一郎、彼は職員の小島真樹君です」
「どうも、小島真樹です」
もう一度、会釈をする。
「では、千鶴さんのことについて色々お聞きしたいのですが、千鶴さんはいつからいつまでこの店で働いていたんですかねぇ?」
「辞めたのは結婚と同時でしたから、七年前の冬頃ですね。いやぁ、もう七年も経つのかという感じですよ。働き出したのは、二十歳の時からだったかな。高校を卒業してから、何かの専門学校に通ってたみたいですけど、途中で辞めちゃったらしいんですね。で、二十歳から自宅近くのうちの店で……」
非常にゆったりとした、大らかな人柄が滲み出る話し方だ。そのうえ、白髪混じりの髪に、綺麗に揃えられた顎髭。まさにドラマに出てくる渋い喫茶店のマスターのイメージ通りの人物だ。
「辞めた後、彼女とは繋がりはあったんですか?」
「たまにこの店に来てくれましたよ。旦那さんと一緒にね。元々この店で知り合った二人ですからねぇ」
その二人がまさか殺害されるとは思ってもいなかっただろう。ニュースを聞いたときは、さぞショックだったに違いない。
「フォードさんは客としてこの店に来ていて、従業員だった千鶴さんと出会ったんですよねぇ?」
「彼が仕事の合間でここに寄ったのが最初でしたね。彼も、神奈川に住んでたんですけど、外回りの仕事の時、たまたま時間が空いてここに客として来られました」
「いきなり、仲良くなったんですか?」
「彼が小林さんに電話番号を渡したみたいですね。私の目を盗んでね……」
マスターは苦笑したが、むしろ嬉しそうな表情だ。
「で、そのまま交際に至ったというわけですね?」
「ええ。交際中は土日なんかには小林さんのシフトが終わる時間になれば、彼が迎えがてらにコーヒーを飲んで行ってくれましたよ」
出されたアイスコーヒーも、香ばしくて深い味わいだ。雰囲気もあって非常にいい店だ。食べることに興味は無いが、飲み物なら多少は分かる。
「フォードさんとは親しかったんですか?」
「そうですねぇ……物凄く親しかったわけではありませんが、なんせ従業員の結婚相手ですから、結婚式も行きましたし、そこそこですかね」
「千鶴さんとフォードさんは今年の初め頃から別居していました。それはご存知でしたか?」
マスターは気まずそうに頭を掻いて、少し顔を顰める。
「まあ、小林さんが一人でいらっしゃって、その時に聞きましたよ」
「原因はご存知ですかねぇ?」
「小林さん曰く、自分の金遣いが荒いって怒って出て行ったとか……。彼女は旦那がケチなだけだと、うそぶいてましたけどね」
「千鶴さんは昔からそんな性格だったんですか?」
「いや、金遣いが荒いなんてイメージはありませんでしたよ。もちろんプライベートまで細かく知ってるわけじゃありませんが、少なくとも純真な感じでしたけど」
紗知さんと同じだ。千鶴さんは昔はそんな風ではなかったのに、結婚してから変わってしまった……。
金を持つというのは怖いものだ。人をまるっきり変えてしまうのだから……。金を持っていて、元から変な人間も俺の正面にいるが――
「フォードさんが最近、浮気をしていたことはご存知ですか?」
「ついさっき、ニュースで知りました。昨日まではそんなこと報道されてなかったですけどね」
フォードさんの浮気のこともマスコミに流れ出しているようだ。写真まで報じられているのかは分からないが、もしかすると、すぐ身元が分かるかも知れない。
「その浮気調査をしたのが私でしてねぇ、その繋がりで我々も調査をしているというわけです」
「なるほど……。見たところ優秀な探偵さんでしょうから、期待してますよ」
と、マスターは柔和な笑顔を作る。お世辞だとは思うが、これも接客業では欠かせない話術というものだろう。紗知さんもそうだったが、接客業の人には本当に頭が下がる。俺には到底出来そうもない業種だ。
当の夏川さんはお世辞に対する愛想返しか、ほんの数ミリだけ口角を引き上げ、浮気相手の女の写真を取り出す。
「これが浮気相手の女なんですが、心当たりはありませんかねぇ?」
写真を手に取ったマスターの表情に、さして大きな変化は無かった。
「いやぁ……心当たりはないですね……」
「そうですか、ありがとうございます。因みに、フォードさんは浮気をするような人でしたか?」
「どうでしょうねぇ……。彼も優しい夫という感じで、そうは見えませんでしたが、小林さんの金遣いのことで嫌気がさしていたなら、あり得るんじゃないですか?」
それもそうだ。別居中だからそうなってもおかしくはない。千鶴さんは十八日にフォードさん宅を訪ねていたようだが、どれくらいの仲だったんだろう?
「別居中も千鶴さんがフォードさん宅を訪れたらしいんですが、千鶴さんはフォードさんのことを嫌っていたわけではないんですか? 千鶴さんの金遣いが一方的な原因になって、別居に至ったんですかね?」
普段は夏川さんが聞き込みをするときは出来るだけ黙っているが、気になったのでつい聞いてしまった。
マスターは突然俺が話し出したので、やや驚いた様子を垣間見せながら返答を探している。
「――えっと、小林さん側の金遣いの問題は本人も認識していたくらいですから、原因になったのは間違いないですが……。小林さんは夫に不満は持ってなかったんじゃないですかね……。子供もいませんでしたし、夫への熱が冷めていたことはないと思いますがね」
一つ一つ言葉を選びながら慎重に紡がれた答えだ。いくら千鶴さんが昔働いていた店のマスターだからといって、夫婦の内部事情まで詳しくは分からないか……
ただ、千鶴さんの金遣いが荒くなったのは、大企業に勤めるフォードさんと結婚したからであるということは確実だろう。ならば、熱は冷めていたかもしれない……。いわば金ヅルのように思っていた可能性はある。
(内面を疑いだしたらキリがないな……)
「あの夫婦に恨みを持つ人に心当たりはありますか?」
「いやぁ……どちらも人当たりのいい感じでしたから。私が知っている範囲では居ないですね」
この事件、犯人が単なる強盗犯なのか、怨恨による動機なのか。そもそもそれが、まだはっきりしていない。
「ところで、千鶴さんはペーパードライバーだったようですが、この店に彼女はどういう交通手段で来てたんですかねぇ?」
「働いていた頃から、自転車でしたね。帰りは登りですから大変だったでしょうが……。車も、バイクすら運転してないみたいでしたから」
「山がちなこの辺りで、徒歩と自転車だけという人は珍しいんじゃないですかねぇ?」
「そうですね……。車は運転できなくても、バイクぐらいは運転出来る人がほとんどですね。もちろん、自転車で頑張る人もいますけどね」
マスターが少し苦笑したところをみると、自転車で頑張る人というのはやはり珍しいようだ。
「千鶴さん、そんなに車に乗らないんですか?」
「見たことないですよ、本当に」
「私の事務所にさえ、電車で来たくらいですからねぇ」
夏川さんも負けじと苦笑するが、喉に物が詰まったようなただの苦しい表情になっている。
その時、店の玄関扉がゆっくり開いた。
「あ、いらっしゃいませ!」
マスターが足早に客人の元へ駆けていく。様子から察するに常連さんのようだ。
遅れて従業員の女の子もそこへ駆けつけ、席へ案内する。その様子を見届けるとマスターが再びこちらへ近付いてくる。
だが、夏川さんはすっと立ち上がった。
「そろそろお邪魔しますよ。営業の邪魔をしてはいけませんから」
俺も慌てて残りのアイスコーヒーを一気に飲んで立ち上がる。出来ればゆったりと香りを楽しみながら飲みたかったが……
「失礼いたしました」
マスターにお辞儀をして、夏川さんについて行く。マスターは来店したときと同じような柔らかな笑顔を浮かべている。
「また協力出来ることがあれば、協力しますから」
と、言い残しマスターは常連客の元へ向かった。
玄関のすぐ隣に設置されたレジの前に立つと、女の子がそそくさとレジに入り、慣れた手つきで夏川さんにお釣りを渡した。俺はさりげなく夏川さんにアイスコーヒーを奢ってもらったことになる。
「ありがとう」
「ありがとうございました!」
爽やかな挨拶を背に受けながら、店を出るときにまた目線が女の子の胸元に行ってしまったような気もするが、バレてないだろう……
一直線に白のセダンの元へ歩みを進めていると、夏川さんの携帯が鳴り響く。
『はい、夏川ですが――』
やり取りは短かった。電話を切ると共に、俺の目線と夏川さんの目線がぶつかった。
「千鶴さん宅へ行こう。調査書が見つかったみたいだねぇ」
その不自然に赤い唇が呪文を唱えたかのように、俺は言われるがまま車に乗り込み、千鶴さん宅への道順を思い出していた。
「――じゃあ、出発しますよ」
シートベルトをしてエアコンを全開にしてから、車を発進させる。
昨日通ったばかりの見覚えのある道へ出ると、後はカーナビの地図を見るまでもなく千鶴さん宅へとたどり着いた。
警察車両や捜査員の数を見れば、昨日よりは少なくなった感じがする。とはいえ、閑静な街に似つかわしくない騒々しさがなお漂っている。
夏川さんが外にいた警察官と、一言言葉を交わすと警察官は千鶴さん宅の中へと消えていった。
「今日は松岡警部補から来てくれと御達しがあったから、話が早いねぇ」
その呑気な口調は場違いに感じた。
「何のために呼ばれたんですか? 調査書は見つかったんでしょう?」
「封筒の中の調査書が本物かどうかと、全て揃ってるかの確認だねぇ」
「どうも、お待たせしました」
俺と夏川さんの会話をつん裂くように突然聞こえた声の方へ目をやると、そこに立っていたのは昨日フォードさん宅にいた、冷徹な役人タイプの警察官だった。相変わらず、髪の毛が不潔な光沢を放っている。
「昨日は名前を名乗っていませんでした。この事件の陣頭指揮を取る警視庁捜査一課3係の藤田直哉と言います」
抑揚のない機械的な自己紹介と共に、名刺を俺にもくれた。階級は警部で、肩書きは警視庁捜査一課3係藤田班班長となっている。
この仲良くなりたくないタイプの人望のなさそうな男が、警視庁捜査一課の班長とは思わなかった。
「ああ、探偵さん! 早速来てくれたんだな」
奥から松岡警部補も姿を現した。藤田警部とあまりにも対照的な陽気さで、明らかに調和の取れていない組み合わせだ。
「これが見つかった封筒です。夏川探偵事務所の物で間違いないですか?」
大柄な松岡警部補を冷たい目で一瞥してから、藤田警部がA4サイズの封筒を夏川さんに見せる。
「ええ、封筒はうちの物ですねぇ」
市販の茶封筒に「夏川探偵事務所」と印字されたシールを貼っただけの代物だが、俺もいつも見慣れている夏川探偵事務所の物だ。
「では中身ですが……」
藤田警部が封筒から取り出したのは四枚に渡る調査書。夏川さんはそれを手に取り少し眺めただけで、藤田警部に手渡す。
「間違いないですねぇ。僕が作った調査書ですし、四枚で全部揃ってますよ」
そこに書かれているのは、フォードさんに一週間張り付いた結果判明したフォードさんの生活パターンと、その中で浮気相手の女と会った日にちや時間などが克明に記されている。
独自調査の中で何度も使っていた、浮気相手の女の写真もきちんと貼られている。
「ところで、千鶴さんは浮気相手の女の身辺調査は断ったんだよな?」
「ええ、そうですが」
「この調査書、随分分かりにくく隠してあったんだよ。台所の床下収納の裏側というか……。まぁ、端的に言えば床下だな」
「なぜそんな風に隠していたんでしょうか? それを見せれば浮気の証拠になるのに」
俺も恐る恐る刑事と探偵の会話に割って入る。松岡警部補がなぜか俺を嬉しそうに見つめる。
「それがな、この調査書と一緒にこんな物も見つかったんだ」
藤田警部が足元から別の封筒を取り上げた。さっきから足元に置いてある封筒は何だろうとは思っていたが……
その封筒は黄緑色の大きな封筒で、表面の下の方に『成瀬総合興信所』という文字とアルファベットを象ったロゴマークが印字されている。
「興信所……。千鶴さん、ほかの探偵事務所にも依頼してたんですねぇ」
「だがこっちは浮気調査じゃない。あんたが調査書を渡した後、浮気相手の女の身元調査の書類だ」