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平成二十六年五月二十三日 金曜日
「おはようございます」
今日も出勤すれば、いつも通り夏川さんが事務所で新聞を読んでいた。読んでいる記事は、千鶴さんとフォードさんの殺害事件についてだろう。
「朝食作りますね」
「ありがとう」
俺は住居スペースの台所へと向かう。
昨夜はかなり良く眠った。睡魔に襲われたのは、よく考えればまだ午後九時頃だっただろう。小学生じゃあるまいし、そんな時間に床についたとは、余程疲れていたに違いない……
今日は確か、千鶴さんが働いていた喫茶店へ行くんだった。また神奈川まで運転しないといけないのは少々面倒だが、俺もこの調査に興味はあるから、我慢するとしよう。
――とりあえず、今日も簡単な洋食を作って、事務所にいる夏川さんを呼ぶ。
夏川さんは椅子に座るなり、口を開く。
「真樹君? 千鶴さんは間違いなく僕が渡した調査書を持って帰ったよねぇ?」
食事を前にして、いきなり事件の話題が飛び出した。
約三週間前の記憶を呼び起こした。千鶴さんが自分の鞄に調査書が入った封筒を入れたのは間違いない。第一それがないと、依頼をした意味がない。
「ええ。持って帰ったと思いますが?」
「実はさっき、松岡警部補から電話があってねぇ。調査書を本当に渡したのか聞かれたんだよ」
「どういう事ですか? 本当に渡したのかって?」
そんな嘘をつく意味はない。間違いなく調査書は千鶴さんの手に渡っている。
「昨日僕たちが帰った後、千鶴さん宅で捜査員たちが調査書を探したらしいんだよ。フォードさんの浮気調査の調査書なら、フォードさんの普段の行動とか、浮気相手の女の他の写真も載ってるから、捜査の助けになるからねぇ。それなら直接僕に聞いてくれたら良かったのにねぇ」
「で、本当に渡したのかって聞いてるってことは、もしかして探しても無かったんですか?」
「そうなんだよ」
もしかして犯人が持ち去ったのか? だとすれば犯人は浮気相手の女なのか?……
「浮気相手の女が犯人だとすれば、侵入して持っていったのかも知れないねぇ。警察に調査書が見つかって自分が疑われないように」
「やっぱり浮気相手の女、怪しいですね」
と、勢い勇んで夏川さんの目を直視したが、夏川さんは居心地の悪そうな様子だ。
「確かに怪しいけど、千鶴さんはその調査書をフォードさんに見せたのかな? 千鶴さんにあれを渡したのは、もう三週間くらい前だよ? 浮気相手の女の身元調査は断ったから、あの調査書をフォードさんに突き付けて、離婚を迫る気かなって思ったんだけど……」
「どうだったんでしょう? あの証拠があれば、離婚が成立していてもおかしくないですよね」
「増田紗知さんが、千鶴さんとSNSで友達だったって言ってたよねぇ?」
「そういえば言ってましたかね」
「だからさっき真樹君が来るまで、千鶴さんのSNSを探してたんだよ。本名で登録してる人も多いからねぇ」
「見つかったんですか?」
「うん。あったよ。でも、それを見ても離婚を匂わせるような記述は無かったよ……。紗知さんが言ってたように、フォードさんへの愚痴みたいなのはいっぱいあったんだけどねぇ」
夏川さんが既にそれだけのことを調べていることに、驚嘆した。俺が出勤した時には、普段通りの様子だったのに……
だが、俺の頭の中にも思い当たる節が見つかった。
「昨日遠藤さんって人が言ってましたよね? 千鶴さんがフォードさん宅を訪問してるところを見たって……。もしかして、その時フォードさんに見せたのかもしれないですね」
自分で話していると、なぜかそうに違いないと思えてくる。声に出して述べることで、自分の想像に信憑性が出てくる気になる。
「松岡警部補によれば、フォードさん宅を捜査していた班からも、調査書は見つからなかったとの報告が来たらしいよ。……先に言えば良かったねぇ」
根拠のない信憑性を身に纏った俺の推理は木っ端微塵となった。やはり、ただの妄想だったか……
「まあ、犯人が持ち去ったと見るのが無難だけど、千鶴さんが見つけにくいところに隠したかもしれないし、もっと良く探した方が良いと助言しておいたから、見つかるかもしれないねぇ」
いつからこの変人探偵が、警察に対して助言できるほどの立場になったのだろう……
夏川さんは話したい事を話し終わったのか、後は黙々と食事を口に運んでいる。俺も、同じように食事を口に運ぶという作業をこなす。少食でない人にはあまり理解してもらえないが、正直食事なんてものは、生命維持のための作業に過ぎないと思っている。食べる事に興味が湧かないのだ。
ほぼ同時のタイミングで朝食を終え、俺が皿洗いをしている最中、夏川さんは事件のニュースをチェックしていた。
「夏川さん? 何か新たな情報は流れてますか?」
「千鶴さん宅周辺にいた火事の野次馬とか駆け付けた消防士にも聞き込んだみたいだけど、犯人らしい人は目撃されてないみたいだねぇ」
「やっぱり、進展してないですね……」
大きな火事が起こっていたとはいえ、もうすぐ日付が変わろうかという時間帯だから、それもやむを得ないのかもしれない。
「進展したこともあったんだよ、真樹君」
そう言って夏川さんは、嬉しそうにしている。
「何が進展したんですか?」
「フォードさん宅の駐車場で、話していた学生グループが判明してねぇ……。警察が話を聞いたら、事件の夜、彼らは二十一時過ぎから二十二時四十五分頃まで駐車場にいたらしいよ。その間、帰って来た人はいたけど、駐車場から出て行った人はいなかったらしいねぇ。」
「てことは、フォードさんの死亡推定時刻って……」
「かなり絞られたねぇ。新フジ電機への聞き込みによれば、フォードさんはあの日二十時十分頃退社しているんだよ。そこから電車で目黒駅に着いたのが四十分。これは駅のカメラに映っていたから間違いなく四十分までは彼は生きていたよ。」
「何だか上手い具合に相当絞られましたね。二十時四十分頃から二十一時頃までじゃないですか」
わずか二十分間に絞られた。フォードさんのマンションは駅のすぐ近くだから、駅でカメラに映って以降はもう絞れないかもしれない。
「捜査側にとってかなり運が良かったねぇ。話していた学生グループの記憶を信頼するならだけど……さすがに近くで撲殺が行われていたら気付くだろうし、彼らが駐車場にやって来た二十一時頃にはもうフォードさんは殺害されていたんだろうねぇ」
逆に言えば、学生グループに目撃されなかった犯人側も、運が良かったと言えるだろう。……それとも、学生グループが来るのは二十一時頃だと知っていたのかもしれない。
――脳裏に遠藤さんの姿が浮かんだ。
「情報は他にもあったよ。千鶴さんに刺されたナイフは犯人が抜いて持ち去ったみたいだねぇ」
夏川さんの言葉で、俺の頭の中の遠藤さんの姿は、掻き消された。
「それって、どうなんですか? 凶器から足がつくのを恐れてでしょうか?」
夏川さんは俺から視線を逸らし、明後日の方向を向いて数秒押し黙ったが、突然こちらに向き直る。
「確かに傷口だけじゃ凶器の特定は厳しいからねぇ。刃渡りの長さとか、果物ナイフなのか出刃包丁なのかみたいに、刺した刃物の種類くらいは分かるだろうけど……。それから、フォードさんを殴った石からは指紋とかは検出されなかったみたいだねぇ。その代わり、石の表面に繊維痕があったらしいから、多分手袋をして殴ったんだろうと……。新たな報道はこれぐらいだねぇ」
「じゃあ、我々も調査に行きましょうか? 千鶴さんが働いていた喫茶店に行くんでしょう?」
「真樹君、乗り気だねぇ。よし、早速出掛けようか」
この事件の調査をする夏川さんは、本当に活き活きしている。
立ち上がった夏川さんは、今日はジャケットを羽織る気配は無い。昨日、特に暑がる様子はなかったが、内心では暑さに堪えていたのかもしれない。昨日からワイシャツだけの俺は、もちろん今日もワイシャツだけで出掛けるつもりだ。
昨日ほどではないが、今日も外は晴れあがっている。ちょうどテレビでは天気予報が流れているが、どうやら今日までは季節外れの暑さで、明日は雨の予報だ。これだけ夏並みの気温が続いていると、明日の雨が待ち遠しく思える。
不意に画面が真っ暗になった。夏川さんがリモコンで電源を切ったのだ。
「じゃあ、行こうか。鍵は預けとくよ」
昨日も活躍した白のセダンのキーを手渡される。
「喫茶店の名前は?」
「『純喫茶ひろ』だって。住所も聞いたから、カーナビで直ぐに分かるよ」
灯りを消して事務所を出ると、本来の仕事場である夏川探偵事務所は、来る者を拒むかのように昼間から薄暗く佇んでいた――
午前八時五十分頃事務所を出発し、約一時間ほどで昨日と同じ橋本駅近くのコンビニで一旦停車し、『純喫茶ひろ』へのルートを確認する。
「千鶴さん宅より、手前側ですね。そんなに遠くないみたいです」
助手席の夏川さんに話しかけたつもりだったが、返ってきたのは言葉ではなく煙草の煙だった。物思いに耽っているのだろうか……
仕方なく無言で車を発車させ、目的地を目指す。千鶴さん宅へ向かうダム湖沿いの大通りではなく、やや込み入った細めの道を進むと、予想より早く『純喫茶ひろ』の看板が視界に入ってきた。
えんじ色の看板にレトロな佇まいで、どこか昔懐かしい雰囲気の喫茶店だ。そんなに広くない駐車場に停車すると、夏川さんはあっという間にシートベルトを外して玄関へと向かう。
(労いの言葉くらいかけてくれてもいいのに……)
俺も遅れをとらないよう急いでエンジンを切ってから、夏川さんの背中を追いかける。
「いらっしゃいませ!」
夏川さんが扉を開いた刹那、穏やかな声の挨拶が耳に飛び込んできた。
カウンターの中で、黒いシャツの上に店の看板と同じ、えんじ色のエプロンを着けた初老の男性が、柔らかな笑顔を見せている。見た者の心が軽くなるような、不思議な安心感のある微笑みだ。
「どうも……。昨日電話した夏川ですが……」
「ああ、随分早くいらっしゃったんですね。まぁ、とりあえず席にどうぞ」
恐らく目当てのマスターだろう。
その男性と同じ服装の若い女性従業員が、足早に近付いてくる。
「こちらへどうぞー」
こんな二人組には勿体無いくらいの笑顔を振りまいて、女性がカウンターから割りと近くに位置する二人掛けの席に案内してくれた。
「御注文お決まりになりましたらお呼びください!」
彼女の幼げな顔立ちが、より接客の明るさを際立たせている。お冷やを置いたとき、幼げな顔と対照的な大きな胸に気付き、やや自分の顔が熱くなるのが分かった。
そんな所に目をやってしまったことを誤魔化すため、メニューをさっと開き、店内の様子を眺めてみる。
――まだ、朝の十時過ぎだし、平日なので他に客は居ないようだ。そういえば駐車場には他に一台、車が停まっていたと思ったが、恐らくあのマスターの物だろう。
「真樹君? 決めた?」
「あ、えっと、僕はアイスコーヒーで」
「僕もそうしようかねぇ」
夏川さんは俺と同じ物と、最初から決めていたような感じだ。
俺は小さく手を挙げて、女性を呼びアイスコーヒーを二つ注文した。
間もなくマスターがお盆にアイスコーヒーを二つ載せて運んできてくれた。
「どうぞ」
マスターは俺と夏川さんのテーブルの隣のテーブルに腰を下ろす。
「他にお客さんも来そうにないですし、小林さんのこと何でも聞いて下さいよ。私も元従業員である彼女を殺した犯人、捕まって欲しいですから」