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平成二十六年四月二十八日 月曜日
渡された数枚の書面に目を落とすその女性の顔に、やや怒りの感情を見て取れた。
その女性の名前は小林千鶴。ちょうど1週間前、俺の勤務先である夏川探偵事務所に彼女はやって来た。
年齢は確か三十三歳。黒のロングヘア、色白でくっきりとした目鼻立ちに薄い唇、耳には真珠のピアスをつけており、細身でいかにもお淑やかな女性といった感じだ。
彼女の依頼は夫の浮気調査だった。今彼女の目の前にある書面は、浮気調査の結果を記した調査書という訳だ。
「恐らく、旦那さんは浮気をされていると思います。確実には言えませんが、この一週間で三回夜遅くに同じ女性が旦那さんのお宅を訪ねて来ました」
重い沈黙をそう言って破ったのは夏川探偵事務所の所長、夏川一郎。フリーターだった俺をこの事務所で雇ってくれた私立探偵である。
「一週間に三回もって……絶対浮気じゃないですか?」
千鶴さんの声には怒気が含まれているのが分かる。
「その可能性が高いです。三日とも女性は二十一時台から二十二時台に旦那さんのお宅を訪ね、帰ったのは二十四時台から二十五時台と、三時間から四時間程度滞在していますし」
夏川さんはそう言うとくいっと上体を乗り出し
「では確実な証拠も含めて、その女性の身元の調査を引き続き私の方で調査致しましょうか?」
と千鶴さんの方をじっと見つめて尋ねる。
もちろん千鶴さんがその問いかけに了承してくれれば、事務所の財政は潤うのだが……恐らく夏川さんはそんなことは気にしていないであろう。
夏川探偵事務所は東京都世田谷区の小汚いテナントビルの二階にあり、夏川さんは事務所の奥に併設された住居スペースで毎日生活している。
それだけ聞けばよく推理小説に出てくるような貧乏な私立探偵をイメージするが――実際俺もそうだった――夏川さんの両親は不動産をたくさん持っているらしく、子供の頃からお金に困ったことはないらしい。いわゆるボンボンの子なのだ。
夏川さん自身も親から幾らかの不動産を譲ってもらって賃料収入があるらしく、金には困らないらしい。なのでこの探偵は稼ぐ事に対して全く執着心がないのである。依頼料も他の事務所に比べればかなり安い。
と言うより、そもそもなぜそんなに賃料収入があるのにこんな息の詰まりそうな小さな探偵事務所をやっているのかは謎だが……
しかもたいして忙しくないのに俺を正社員として雇ってくれているのだ。俺は一ヶ月前からここで働いているが、依頼料の安さを怪訝に思われているのか、この一ヶ月で来た依頼は千鶴さんの浮気調査の依頼も含めて二件しかない。
俺の給料を払えば事務所は大赤字だろう。 そう、夏川一郎という男は変人なのである。
そんなことを考えていると、千鶴さんは俺が淹れた煎茶をひと口飲み
「いえ、身元調査は構いません」
と短く答えた。
訴訟沙汰にしないならば、今回の調査書だけでも夫を追及できるだろうから、そうするつもりだろう。
「では、ここまでの依頼料だけ頂きます。事前にお知らせした口座に振り込みをお願いします」
夏川さんは淡々と答え、千鶴さんに向けてぎこちない笑顔を見せた。
夏川さんは表情を作るとき、まるで機械のように表情を変えるのである。約一ヶ月間、夏川さんのぎこちない表情を見てきたが、あの人の表情筋は針金の束で出来ているのではないかとさえ思ってしまう。
その後やや事務的なやり取りが続いたあと、千鶴さんは調査書が入った封筒をバックに押し込むようにしまってから事務所を出ていった。
俺は二人に出した煎茶を片付けるために、ついさっきまで依頼者と探偵が向かい合っていた机に近付いた。机は窓際に置かれている。 近付いたついでに窓の外に目をやると、千鶴さんが歩いて行くところが視界に入った。
「真樹君? あの依頼者は僕に似てるね」
俺の鼓膜を変人探偵の声が震わせた。
「え? どこがですか? 全く共通点は思い浮かばないですけど……」
「今、彼女歩いて帰ったろう? 近くのコインパーキングとは違う方向だし……ということは電車で来たんだろうねぇ」
「電車で来ることが夏川さんと何か関係が?」
「彼女の住所、神奈川県の相模原市だったよね? ここまで電車で来るよりも、車で来るほうが早いのに電車を選んだってことは、彼女運転出来ないんだろうねぇ」
そう言われて、千鶴さんの依頼を受けた時に書いてもらった書類の住所の欄に神奈川県相模原市と書いてあったことを思い出した。
「ああ、夏川さんも運転苦手ですもんね」
俺は少し肩をすくめるような仕草をして見せた。夏川さんは免許を持っているし、白のセダンも所有している。ただ、運転をするのは嫌いらしく、自分ではほとんど運転しない。
これは夏川さんが人手不足でもないのに正社員を雇った一つの理由だろう。たまに運転手を頼まれる。
「車を持ってないだけじゃないんですか? もしくは、例の旦那さんが、別居先の家に持って行ったとか……」
「確かに調査で彼女の夫の別居先に行ったら車はあったよ。でも彼女は神奈川県の自宅にも車があるって言ってたなぁ……」
俺に対して話しているのか、独り言か、どっちともつかないような調子で夏川さんは尋ねてくる。
「じゃあ、運転苦手なんでしょう、ペーパードライバーなんですね」
そんなことを二人で問答していると、千鶴さんの姿はもう見えなくなっていた……