はじまりは声
昔別名義で書いたシリーズ第三弾。2011年製。
魔女とケンカしてしまった。あたしが余計な事を言い過ぎたのだと思う。それで最終的には目が見えなくなってしまったあたし。
「ちゃんと食べろ」
ちょっと低め、端っこがかすれるみたいなハスキーな声がやって来る。
鼻腔はかすかな麦のにおいと、湯気を感じ取る。オートミール粥かな。
そして何故か、見知らぬ男にご飯を作ってもらうあたし。
魔女のせいで目が見えなくなってから会った人なら当然“見”知らぬ相手だ。外出したらアクシデントにみまわれあたしは川の中に落ちてしまって、風邪と捻挫を手に入れ、ヴィート氏に助けられた。そしてヴィート氏は責任ある大人の正しい対応として、軽度ではあるが怪我人で病人のあたしの世話をしてくれる事になったのだった。
ちなみにこうしてわざわざ食べろと催促されるには理由があって、あたしの食が風邪関係なしに細いからだったりする。何故ならあたしは味覚障害だから。味のしないものを口にするって、意外に楽じゃない。ものを咀嚼するのにも飽きがくる。とゆう事で風邪をひく前から魔女に呪いをかけられる前からあたしの食は細かった。でもヴィート氏はあたしへの度重なる不幸が原因だと思ってる。そしてたぶんあたしより年上の彼は若者はもっと身体を強固にするためきちんとした食事を摂るべきだと考えてるみたい。それゆえの「食べろ」勧告なのだ。
ヴィート氏は寡黙だけど優しい。見ず知らずのあたしに、軽い病人怪我人だとはいえ家に迎え入れ食事を用意してくれるんだから。もちろん、今のあたしの目が機能してないってゆうのが最大の理由なんだろうけど。それにあたしは孤児だし、誰も行方不明の娘を探しには来なかったから。
「はの、自分で食べれまふが」
突然口の中がオートミール粥でいっぱいになった。こうしてあたしが食事に手をつけないと無理矢理食べたさせたりしなければ、もっといいのに。
そして返事もなく、ただあたしが自分の手でお粥を食べるのを見ているだけ(たぶん)。あたしは沈黙に気がついて、食べる以外の目的で口を開く。
「そういえばお料理上手ですよね、いつからご自分で?」
男性にして珍しい、というかヴィート氏の家には彼以外は誰も同居してないらしいのだから仕方がないというか当たり前の事なのだけれど。
「あんた自分を味覚障害って言わなかったか」
「……そこきましたか。ええ、すいませんが味はいまいちよく分かりません。でも、美味しそうなにおいですし、お時間もあまりかけてないみたいですからさぞお料理上手なのだろうな~と」
すると相手は小さな息を吐き出した。ため息とかじゃなく、なんだろう、考えこむための予備動作みたいな感じだ。
というか、まさか聞きにくい事聞いちゃった……かな? だっていつまでたってもヴィート氏の家にはヴィート氏以外は出てこないし、それってつまり相手は大人だろうけど家族がいないみたいな事になるのだから、答え辛いのかな。
「短くはない。それに上手いとは思わないが」
「えったぶんとっても料理上手ですよー! 目が見えるようになった未来のあたしが保証します! あ、でも味覚障害だった」
ヴィート氏の鼻で笑ったような音がする。でも嫌味なものじゃなく、ついうっかりこぼしてしまった笑い声みたいなもの。希望的観測も入ってるかもだけど。
「そうだ、じゃああたしこれを機会に味覚障害治してみますよ。確かヤタイン草が効くって聞いたような気がするし」
「さすがは薬屋、よく知ってるな」
あたしは薬売りをしている。魔女も薬草を扱うからそれ関係で知り合いになったのだけれど――今はケンカ中というか絶縁中。あっちがきっとあたしの顔を見たくないでしょうね。
「聞きかじりですけどね。とゆうか今更ですけどヴィートさんは何をなさっておいでで? 料理人だったらあたし失礼過ぎますよね」
世界から音がなくなった。あたしには自分が生み出す音とヴィート氏が作る音以外に、耳から得られる情報はないからこんな風に相手に黙りこまれると非常に静かに感じる。
また、まずい事聞いちゃった……? あたしはいつもこうなんだ。まるで神話のエコーみたいに口ばかり先走る。あたしのヘラ様が怒ってないといいのだけれど。
「……畑を、耕している」
なんだ、案外普通。いや、実は山賊稼業です☆っていう本心を隠すための“間”だったのかも、と考えられなくもない。まあ、ヴィート氏に限ってそんな事ないだろうとは思うけど。
あたしの中のヴィート氏は、二十代後半くらいの成人男性。たぶん、そこそこの教養がある人。言葉尻にそうと読み取れるから、むしろ農民っていうのが意外かな。ちなみに顔は精悍なイメージ。整ってもないけどゴツくもない感じ。何故か肌はちょっと浅黒い想像をしてる。なんでだろう、ヴィート氏の低めの声が他の浅黒い肌の男性と似てるのかな。そういえばあたしの周りってわりと農家の人多いからみんな健康的な肌してるもんね。
それにしてもヴィート氏のだんまりはたまに心臓に悪いけど、あたしはヴィート氏と話をするのが嫌いじゃないな。たくさんしゃべったりしないけど、耳になじむ声が心地いいのかも。だからあたしはつい調子にのってしまう。
「ごちそうさま! たぶん美味しかったです。それからヴィートさん、あたしやっぱりそろそろもうおいとましようと思うんですが」
実はあたしはヴィート氏の家にかれこれ三日もお世話になっている。あたしの家がヴィート氏の家から離れてるっていうのがこの家滞在の一番の理由。なにしろあたしは川で流されて移動してきたのだから。遠いから、目も見えない風邪で味くじいた娘をヴィート氏は放っておけなかった。まだ風邪全開だった時は運んでもらう手も考えたのに、ヴィート氏は断固として許可してくれなかった。泊めてもらえるのはありがたいけど、やっぱり申し訳ない。
急に額にひやりとした冷たい感覚が訪れる。たぶんヴィート氏の指だ。ヴィート氏は普段、革の手袋をしているらしいんだけど、さすがに体温は革越しじゃあ伝わらないらしくこうして素手で触れてくる。一瞬だけど、いきなりだったし冷たかったし、あたしはびっくりして心臓をばくばくいわせた。
「まだ微熱がある。足の腫れも引いてない」
そして今日もお世話になるらしかった。這ってでも家を出るつもりはないので、仕方なしにあたしはヴィート氏に従う。これじゃあ風邪が治ってから彼に道案内してもらって自宅にたどり着くしかない。って待てよ、あたしの家をヴィート氏は知らないのに、目の見えないあたしはどうやって案内すればいいんだろう?
なんて考えてるうちに、ヴィート氏はさっさと空の食器を片付けに台所に行ってしまうらしく、床を小さくきしませて去っていったようだ。遠ざかる音に、あたしは少しだけ残念に思った。
なんの拍子でそうなったのか、あたしは退屈だったのかもしれない。
「よくおしゃべりって言われるけど、別にしゃべるのが好きなわけじゃないんですよ」
言いながらも、あたしは自分が下らない事を口にしているという自覚があった。いつもこうなのだ。あたしのおしゃべりは中身がない。相手には近所のおじさんがくしゃみをした回数くらいに興味も意味もないだろう事を口走る。大人なヴィート氏には小娘の好みなんてどうでもいいに決まってるのに。
「黙ってちゃ全然分からないって言われたんです。たまに静まり返るのがすごく気まずくなるのもそのせいかな」
ヴィート氏は頷いての相づちを打ってもいないような気がする。相手がまだ続ける可能性がある場合には口をはさまず最後まで聞く、みたいなタイプ。
「だから沈黙を埋めるみたいにしてしゃべるけど、おしゃべりは目的じゃなくて……」
あたしは、一体何を言いたいんだろう? これも沈黙を埋めたいだけなの? もしかしたら、ヴィート氏はもう聞き流してしまっているかも。つまらないよね、こんな話。せめて何か落ちを作らなきゃ。
「だから、えっと、よく子供扱いもされます。もうすぐ二十歳なのに」
「えっ」
珍しい、ヴィート氏の間抜けな声。驚いたせいかちょっと高くなった声がまるで少年みたいだった。
「じゃあ、今、十九……?」
「はい。背も低いからよくおチビちゃんて言われますけどね」
あはは、とあたしは自分でもやる気の感じられない笑い声を出す。だってこの低身長、あまり気に入ってない。子供扱いされるし、何より見下ろされるのが嫌。
あ、というかヴィート氏の反応からするとあたしの事を十代半ばかそれ以下くらいに見てたりした? 子供だと思ったから、ここまでしてくれたのかな。
いきなりヴィート氏の反応が怖くなった。顔は見えないけど、それ以外の五感が不吉な予兆を感じ取ってる気がした。年齢詐称って怒られたらどうしよう。
「……おれは、黙ってる事が良い時もあると思うが」
「沈黙は金ですか」
「いや、違うな……。言葉には責任を伴う。一度口にしてしまえばたとえ本心じゃなくとも真実となる」
あたしは珍しく饒舌なヴィート氏に、何故か落ち着かない気分になる。なんでだろう。なめらかな声は心地よいのに。
彼の言うのが、あたしと魔女の仲違いに似通っているからかな。あたしは、確かに心底思った事でもないのに相手にぶつけて怒らせてしまった。それはあたしが言葉の持つ責任というのをちゃんと理解してなかったから引き起こしてしまったのではないか?
『言葉に気をつけなさい』
魔女は言った。あの時、傷つけたって気づくよりも先に頭に血がのぼってたあたしは尚も相手を言い負かそうとした。後になってあんな事言うべきじゃなかったって知ったのに、その時は気づけないでいたんだ。
でも、謝るよりも先に魔女はあたしに呪いをかけた。まあ、実際はちょっと違うけど結果的にあたしは魔女を傷つけたがゆえに目が見えなくなってしまった。
ヴィート氏は、まさかあたしと魔女の間に起こった事を知るはずもないのに、どうしてそんな事を言うんだろう。顔が見えたら少しでも分かるかもしれないのに、ヴィート氏の声は平坦だ。
「だから、言葉は選ぶ事にしたんだ。選んでいる間に相手はおれの反応を無いものと見なして去ってゆくが……」
言葉は発しなければ存在しないも同じ。たとえ万の思いが体にたまっていても。億の単語が脳内を飛び交っていても、音に変えなきゃ塵に同じ。ヴィート氏は、そう言いたいのだろうか。分からなくもない。あたしも、黙ってちゃ分からないって言われた時に、あたしには分かるのに! って間抜けな事を思った時があるから。思いは形にしなきゃ全く伝わらないなんて、思いもしなかったあの頃に。
「言葉を間違えるよりはいい」
ヴィート氏はあたしみたいな失敗をしたみたいな言い方をした。声音には感情をのせまいとして、淡々としていたけれど。そうして選んでくれた言葉で、伝わってくる。ヴィート氏も、失態を演じた事があるんだね。大人な男性って思ってたけど、意外に人間らしいところもあるんだ。
「でも、あたしはしゃべらないからってその人が持つ百億もの思いを疑うなんて出来ない」
あたしは本当に何を言っているんだろう。全く理解出来ない。ただ、ヴィート氏があまりに会話というものと距離を置こうとしてるから、なんでか口をついていた。あたしと楽しい会話をしましょうっていう気分でもないんだけど、なんでかな。あたしは言葉で人を傷つけるような事をしといて、まだおしゃべり推進派でいるみたい。なんだか滑稽だ。
「……そうか」
ヴィート氏のその一言で、この話は打ち切りとなった。
次の日も、ヴィート氏は朝ごはんを持ってきてくださった。
「あ、今日は自分で食べれますから」
おそらくは彼が居るであろう方向に向かってあたしは手の平を向けた。あたしも学習したのだ。油断すると粥を口につっこむヴィート氏には、もう先手を打つしかないのだと。味もしないしあんまり楽しくはないご飯の時間も、早くに済ませてしまえばいいのだ。
「その前に、足を」
そういえば今日はまだ捻挫した足を見てもらってなかった。でもそんなに大した事ないと思うけどな。
と思ったら動かしたらそれなりに痛かった。ヴィート氏は革の手袋をした両手であたしの右足首を触れている。いつも思うけど、くすぐったい。それからほんの少しだけ、気分がいい。
「少し腫れの引きが遅いな」
革の手袋が去ると、あたしは少しだけ物足りなく思った。足首は腫れにより熱を帯びて、わずか冷たい手袋が心地よかったのかもしれない。
「それなら、ザンパータの葉がいいかも……ってここ店じゃなかった……。あまつさえちょうど在庫切れで魔女んとこに買いに行くつもりだったっていう……ああもう、あの魔女のヤロー」
ほとんどが一人言になったあたしのぼやきは、しっかとヴィート氏の耳にも入ったようだ。
「その魔女とは商いも?」
ヴィート氏にはあたしと魔女の関係性を詳しく話してはいない。ただ軽い自業自得な理由で魔女に呪いをかけられたとだけ言ってある。ただでさえ気まずい魔女との関係は、実は元々仲がいいってわけでもなかったから説明がしにくい。でも、あたしは必要にかられて魔女のところに薬草を仕入れに行く事が最近では増えていた。その結果がこれだけれど。
「まあ、たまにですけど。あんまりいい商売相手とは言えないですね。何考えてるか分からないし。冗談通じないし。あたしくらいしか客いないみたいだし」
魔女の噂は町ではいまいちまばらに賛否両論されている。でも実害が特にないので放置されているっていうのが実態。あたしも、あの魔女が薬草に詳しくて取り置きが多いって知るまで関わるつもりなんかなかった。
「この間なんかあたしが来るまで倒れてたみたいな状態発見したし」
もうこれ、一人言だなあ。思いながらもあたしは最後に見た魔女の顔を脳裏に浮かべていた。今では本物は見られないけど、何を言ったらいいのか分からないような、困った顔をしてた。傷ついたのかも、なんてその時は分からなかった顔。
「もしかして、仲直りしたいんじゃないのか、そいつに」
あたしは首を動かして、ヴィート氏の顔を見ようとした。そんな事ない! って目をして相手の正気を疑う素振りを見せたかったけど、そうはいかない。あたしの世界は暗いまま。
「……だって、あたしこんな目に遭わされたんですよ」
「少なくともかなり気にしてるだろう」
「ち、違いますー!」
そりゃあ気にしないわけにはいかない。なんせ呪いをかけてきた相手で、恨みもある相手だ。でも、そりゃいつかは自分の非を認めなきゃと思ってたけど、そんな風に直球に言われると困る。
あたしは答えに貧窮した。いいや、もう答えなくていいかも。言葉を選んでる最中ってヴィート氏は受け取ってくれないかな。あ、なんか逃げてるみたいで嫌だな。でも、今この雰囲気も嫌だ。何故か肌がピリピリするみたい。
もしかして、ヴィート氏の中であたしはまだ子供で、謝罪も出来ないお子様だと思われそうになっているのかな。それは困る。でも、まだ魔女に謝りたいと認める気になれない。
「……何の葉、だったか」
「へ?」
「腫れに効く薬草、採ってくるよ」
ザンパータの葉を採りに行こうというらしい。ザンパータは年中生えてる植物だけど、山の足場が険しい場所に生えてるからってあたしが採るのをおこたったがゆえに在庫切れした薬草だ。わざわざ山に行かなくても魔女のところへ行けばあるかもしれない。それでもあたしはヴィート氏に一人してほしくて、群生地を教えた。
昼前には戻ってくるからと、ヴィート氏はあたしにお粥を残して家を出た。
雨音が聞こえてきたのがいつ頃かは分からない。空が曇って日差しが室内にも届かないのをあたしは見えなくなった目の下でもうっすらと理解した。
雨はどんどん激しくなった。募るのは不安、あたしはこんなベッドの上でのほほんと暮らしていていいんだろうか?
ヴィート氏は、昼前には帰ってくると言ったのに、たぶんお昼を過ぎても帰ってこなかった。
運びこまれてから出た事はないからヴィート氏の家から山がどのくらい離れているのかは分からない。でも、このひどい雨とザンパータの群生地の足場の悪さを思うと悪い想像しか出来なかった。むくむくと広がり増殖を続ける嫌な予感。ヴィート氏に、ザンパータの事を教えるんじゃなかった! この雨じゃあどこかに転がって死にかけてるかもしれない!
思い立つと、一も二もなくあたしは動き出した。もちろん目は見えないし右足は上手くは動かないし、ついでにまだ体温が平熱より上だ。
でも、またあたしの余計な一言で人が大変な事に巻き込まれようとしているかもしれないのだ。迷ってなんていられない。
まあ……捻挫の痛みに意外とくじけそうになったけど、なんとか引きずって家の外まで出られたみたい。雨だれがあたしを強く打つのを肌で感じる。きっと雲は黒く濁っているのだろう。
痛みをうるさく訴える右足を無視し、あたしは外へ飛び出した。冷たい雨に身を震わせると、さて山がどっちにあるかも分からない事に気づく。
そうだ、誰かあたし以外の健康的な方にヴィート氏が山に行ったっきり帰ってこないと伝え、捜索に向かってもらえばいいんじゃないのかな?
「誰か、すいません!」
早速あたしは叫び出した。なんでもいいからと随分わけの分からない事を大声で話した気がする。それなのに応える声も、人が動く音もしなかった。まさか、この辺りって誰もいないの? そんなはずはない、雨音にかき消されてるのかもとあたしは声の限りに叫び続ける。
それでもあたしの耳に人が作る音は届いてこなかった。
「どうしよう……」
不安はパニックに変わってゆく。あたしはついに自分で山に向かおうと、足を動かした。
が、早速障害物にぶち当たった。ごつごつしてたから、たぶん木。ってゆうか、
「痛い!」
尻餅までついてしまった。ああもう、どうしたらいいのよ!
「どうしようどうしよう……もう……ああやだ……」
全部杞憂であってくれと思うのに、ヴィート氏は何やってるんだと声をかけてもくれない。やっぱり雨で危ない場所で立ち往生なりなんなりしてるんだ。
「どうしよう……っ! もうやだ……もうロドルフォでもいいから誰かなんとかして……!」
絶縁中の魔女の名前が口をついたのは無意識だったのに、叫びは遠くにまで届いたようだ。なんてゆう結果から見ればあっけないものだけれど、たぶんどう考えてもおかしいよね?!
「名前を呼ばれちゃ出てこないわけにはいかないよね」
我が耳を疑った。ああ、今は疑うための目がほしい! この声は魔女、あたしの目を見えなくさせた魔女と呼ばれる男――ロドルフォ!
声の近さからして、間近にいるのは間違いない。でも、さっきまで全然そんな気配も音もしなかった。とゆうか、なんでここに?!
「シア」
ふいに、当たり前のように魔女の顔が見えた。手を伸ばせば届くくらい近くに。フードの下で柔和そうな笑みを浮かべている。わりと端正な顔つきで、見た目は二十代前半くらいの男性。そう、このロドルフォは何故か魔女と呼ばれているが男だ。まあ、魔女には広義の魔法使いって意味も含まれるらしいから問題はないのかも――って、そんな場合ではない!
「ロドルフォっ、大変なの、あたしのせいでヴィート氏が危ない目に……!」
たぶん。とはつけ加えないでおいた。魔女は細めた目を光らせて口を開いた。
「シア、それは何よりも優先させるべき内容?」
「当たり前! だって足場悪いから死んでるかもっ」
ロドルフォのローブを掴んで揺さぶるあたしに、彼は何を思ったのか。顔色は一つも変えずに頷いた。
「この辺りは領主の息子を幽閉するための場所。周りに人はいないだろうから、人の気配をたどって行こう」
「うん! あ、ヴィート氏はザンパータの群生地に行ったから……えっとたぶん山の西!」
ロドルフォはあたしを抱えると、ふわりと浮かび上がった。最初は当たり前の事のように受け入れてたけど、これってよく考えなくても驚天動地!
「ロッ、ロドッ、う、浮いてるよ?!」
「僕も一応魔女ですからね」
「いやいやいや!」
あたしのツッコミもなんのその、ロドルフォはあたしと一緒に空中浮遊で移動した。
慣れると意外に楽しいけど、なんだか不安。てゆうか、あたしってこの魔女と絶賛絶縁中じゃなかったっけ? てゆうか、あたしの目ってそのせいで見えなくなってたんじゃなかったっけ!?
今ではもう、山の俯瞰図が見えるし、雨粒だって、自分の手だって見える。
ロドルフォは、あたしの事を許してくれたんだろうか? 本当ならば、あたしの方が謝るべきなのに。
あたしが見上げると、ロドルフォはまるで全て分かっていますよと言わんばかりに先に答えた。
「まさかそんなに惨めになってるとは思わなかったからね」
元はと言えば、目が見えなくなる呪いっていうのはあたしがロドルフォの薬品をかぶってしまった事が原因。ロドルフォはすぐにそれを治す事も出来たけど、ケンカ後だったからしなかった。彼自身の呪いってわけじゃなかったから、恨みの結果ではなかったのだ。でも、あたしはひどい事を言ったはずなのに。後ろめたくて、全部ロドルフォのせいにしただけなのに。
「……ごめんなさい」
「オルテンシア……君って子は」
「ああ! 人だわ! ヴィート氏かもっ!」
あたしの目は、人らしきものを捉えた。一瞬、木々の合間に人が見えたのだ。ああ、目が見える素晴らしさよ! って喜びの時間を作る暇もない。あたしはロドルフォにすぐさま人影の元へ降り立つよう頼んだ。何故かロドルフォは不満そうに眉を寄せていたけれど、空中浮遊を止めてくれた。
地上に降り立ったあたしたちは、樹木が邪魔ですぐにはさっきみた人影を探し出せずにいた。
「誰か、いないか?」
助けを求めるみたいな大声に、あたしは目を見開いた。ヴィート氏の声! 低めの、ちょっとハスキーな声。なんだかんだ味覚障害で五感のうち二つも失われていた時に一番の情報源だった音が、あたしの耳にヴィート氏が近くにいると教えている!
「ヴィート氏だ!」
ロドルフォも忘れてあたしは音源のところへと駆け出した。あたしの声に人が居ると気づいたのだろう、まだ姿は見えないがヴィート氏が応じてくれる。
「誰かいるのか?」
「ヴィートさん! あたしです!」
木々を縫ってたどり着いたらそこには、崖の下に落ちた少年が居た。
「オルテンシア……?」
確かにあたしの名前を呼ぶ声。ヴィート氏の声。ここ数日で聞き慣れた、耳に心地よい声。
でも、待って、ちょっと待って。
「あなた、誰?」
「お前、目が……?」
「あ、はい。なんだかんだ見えるように。……って、え? まさか、ヴィート氏ですか?!」
だって、そんなの想像してなかった。ヴィート氏の声を持つあの人は、どう見たってまだ十代の子供!
顔は確かにごつくも整ってもない、でもシャープでどこか精悍で、かっこよく見える。肌は浅黒くはないけど真っ白ってほどでもない健康そうな色。でも、子供だ! どれだけ多く見積もってもまだ十代半ばくらいにしか見えない。
「ヴィート氏って……男……?」
珍しくロドルフォはひどく顔をしかめた。あたしはそれでもまだ確認したくて、呼びかける。
「ヴィートさん、なんですよね……?」
少年は顔を険しくして、うつむいた。何かにこらえるような声で、名のった。
「ああ、おれはヴィートだ」
……やっぱり。それじゃあ、あたしがずっと大人の男だと思いこんでいただけで、実際のヴィート氏はあたしより年下の男の子だったっていうの? あんなに責任感たっぷりなのに? あんなに料理上手なのに? あんなに成人男性を思わせる声をしているのに?(最後についてはもしかしたら意見が分かれるかもしれないけれど少なくともあたしにはそう聞こえた)
「あれ、てゆうかアレ、領主の息子じゃん」
さりげないロドルフォのつぶやきは、雨の音にかき消されはしなかった。あたしはロドルフォのいる右を見て、ヴィート氏のいる下を見て、疑うように少年を見下ろした。肯定もしないが否定しないという事は、そういう事だ。
「え……えええぇっ?!」
魔女によりあっさり助けられた領主の息子は、自分の幽閉場所へと帰された。
少し前まであたしがいた場所が幽閉の地だったなんて、同じ町にいながら気づかなかった。確かに領主の息子の噂は聞いていた。とゆうより領主の噂。息子をいとうあまりに幽閉させたという、狂気のにじむお話だ。
でもまさか、あたしの世話をしてくれたヴィート氏が実は領主の息子ヴィルジリオで、十二歳で、大人じゃなかったなんて!
「……おれが子供だと気づいてないようだったし、不安になるかと思って黙っていたんだ」
ヴィート氏――ヴィートはまるで謝るように言った。ヴィートはあたしの想像の中の“ヴィート氏”よりも幾分逞しさとか身長とかが足りないように思えたけれど、その責任感の強さとか真摯な声には変わりなかった。
あたしが声と態度で相手を大人と思いこんでいただけなのに、ヴィートは申し訳なさそうだった。
「気にしないで、ヴィート。あ、ヴィートって呼んでいいかな……領主さまの息子だったわね」
「ヴィーでいい」
そちらが本当の名前の愛称だそうだ。少年の顔は、まるで拗ねたみたいな、困ったみたいな、笑いをこらえてるみたいな複雑なものだった。もしかしたら、領主の息子というだけあっていろいろと大変な目に遭ってきたのかもしれない。これくらいの子供は、もっとシンプルに生きていいはずなのに。そういえば幽閉されてたのならヴィーは、すっごく複雑に育ったって事になるんじゃないのかな。あたしは、ヴィート氏だった頃のヴィーには一種の憧れと寄りかかりたいって思いがあったんだけど、今のヴィーは、ほっとけない!
「ヴィー、あのね、あたし……」
「さて、そろそろ帰ろうか、シア?」
あたしの肩を強く掴むは魔女ロドルフォ。何だろう、あたしはまだヴィーに言いたい事がたくさんあるのに。
一瞬、ヴィーとロドルフォとの間に不可視の光が散ったような気がしたんだけど、気のせいかな。
「オルテンシア、こいつ誰だ?」
今更ですな! というわけであたしはヴィーに説明した。
「魔女って、男かよ……」
まあ、そうなるよね。
「坊っちゃんは、畑でも耕してたらどうです」
ちなみにヴィー、幽閉生活に倦怠を覚え自給自足生活をはじめたのだそう。お金は毎月送られるというのに、畑作の趣味に目覚めたらしい。
「そっちは草でも採ってたらどうだ」
なんだかんだ言い出した二人に、あたしはいつの間に仲良くなったのだろうかと疑問に思う。
あたしはしばらくその会話を傍観していたのだけれど、ヴィーが急にくしゃみをしたから慌てた。
「もしかして、風邪? 大変、今度はあたしが看病するから」
「いや、シア帰りますよ」
「……う……」
ヴィーはどう出ていいのか分からない、みたいな顔をしている。まるで何かに葛藤するみたいだ。
「とゆうかあなたも風邪まだ残ってるでしょうが! 病人に看護は無理!」
「もう平気!」
「ほんとか?」
「そこ、しゃべるんじゃありません!」
途中から二人の風邪患者は自分の病を忘れていた。いつしかあたしたちは声高に自分の主張を叫ぶのに没頭していたのだから。
そうして夜が更けて、次の日になってもあたしはヴィーとのつながりをなくそうとは思わなかった。ヴィーもそうだと思う、たぶんね!