③高橋さんと謎の電話
花屋「はなまる」の次の日。
昨日と変わらず晴天、突き刺すような日差し。ラジオの天気予報は当てにならない。肌がヒリヒリする。
休日ということでBは当たり障りのない私服をクローゼット前で選び、日除け用のグレーのキャップを深めに被ると、冷蔵庫で冷やしておいた麦茶をごくり、サンダルを履いて玄関をでた。
空気が熱くて重い。サウナみたいだ。傘はもたない。キャップのつばに熱が降り積もるのを感じながら図書館へ向かう。
○○図書館。
学校最寄りの駅からそう遠くない位置にある。Bは幼少時代からお世話になっている。
図書館にたどり着くと、背負っていたリュックからタオルを取り出し顔面をゆっくりとなぞる汗を拭き取った。
正面ホールから自動ドアを通り中に入る。入ってすぐ横の公用トイレに入る。
用は足さずにすぐ鏡の前へ立つと、Bはグレーのキャップで潰れた髪を濡らした手で立ち上げた。襟元を整える。口をゆすぐ。
「よし」と呟くと、高橋との待ち合わせ場所である図書館内の共用スペースに向かった。
図書館内、共用スペース。
隣席で数字と格闘している高橋を横目で眺めながらBはクーラーの送風口から吹く風に当たっていた。
夏だということを忘れてしまいそうだった。腕や足が冷房によって心地よく収縮する。小学生時代、夏休みに毎日のようにこの図書館に入り浸ってことを思い出す。机、椅子、棚、本、本、本。自分だけが成長して図書館はなにも変わらないことがとても不思議に思えてくる。
夏休み直前に行われる期末テストが近づいている。このテストを失敗すると夏休み中は補習授業をすることになる。それはなんとしても避けたい。Bと高橋は休日を利用して図書館でテスト対策をしていた。
Bはページをめくる。紙と指が擦れる独特の音が鳴る。空気に切れ目が入るような音。それは静かな図書館に違和感なく溶け込んでいく。
数学のワークノートに書き出された文字を読む。命令口調の文と数字。
焦らずゆっくりと、ワークノートが求めている問題の意図を理解する。理論的に考える。数字を当てはめる。答えに行き着く。解答が正しいか確かめる。
それをひたすら繰り返す、繰り返す。
Bは数学が得意だった。
そのようにして範囲のページを手早く終わらせると、Bの体内に充満していた緊張の空気を静かに吐き出して椅子に深く腰かけた。
ふと高橋のワークノートを見た。
高橋のノートは消しゴムの痕やしょうもない落書きで埋め尽くされている。図書館でテスト対策勉強を始めた時からページが変わっていない。当の本人は教科書との終わりそうにもない睨めっこをしている。数学だけができないというのは本当のようだ。
Bはペンをくるくると回しながら辺りを見た。
共用スペースにはBと高橋以外に数人いた。皆それぞれ教科書らしきものを広げて書き物に勤しんでいる。図書スペースの児童向け絵本コーナーには小学生の兄弟が静かに本を選んでいる。シンプルなシャツを着た老人が新聞を睨んでいる。
Bは図書館が好きだ。
だからといい本が格別好きなわけではない。本は年に三冊読めば良いほうだ。図書館が好きな理由は一つ、ただなんとなく好きなのだ。
強いて言うなら、一体感。図書館内の全ての人の一体感。
互いに見知らぬ人間同士が「静寂」を心がけながら目の前の課題に集中する。
そこにはある程度の緊張が伴った安堵感がある。自宅のソファやトイレ、バスルームとは違った安堵感がある。図書館の「静かな一体感」はBにとってかけがえのないものだった。
突然、隣からノートにペンが落ちる音がした。
見ると高橋がペンを手放してうなだれている。
どうやら数字に完敗のようだ。
高橋はおもむろに携帯電話を取り出し、なにか入力を始めた。だがすぐに卓上の「携帯電話の使用をご遠慮願います」を発見し、遠慮がちに机の下に携帯電話を隠して使用した。
数秒後、Bのポケットにある携帯電話が一定のリズムで震える。メールがきている。高橋からだった。
Bは同じように遠慮がちにメールを開いた。メールにはこうあった。
「もうだめ。外に出て休憩しよう」
高橋はにやりとして席を立ち上がった。Bも後に続いた。
図書館脇の公園にやってきた。
刺すような大陽の光から逃げるように、花壇に挟まれた道を進んでゆくと、開けた場所があった。
左手側にブランコやシーソーなどの遊具が幾つかある。右手側には遊具がある方向に顔を向けたベンチが並んでいる。
Bと高橋は公園入り口前の自販機で購入した缶コーヒーを片手にベンチに座った。
目の前で危なっかしく鉄棒にぶら下がる女児が二人いた。少し背の高い子がもう一人の水筒をもってあげている。少し背の高い子が動くたびに水筒と水筒がぶつかり、野球のテレビゲームの試合で聞いたことがあるようなバットの金属音が鳴る。キーン、という快音と、小鳥の囀りが混じり合っている。その音は夏の暑さを掻き散らす音だ。
開けた場所は木々に囲まれてる。覆い囲んでくるような大きな木だ。木と木のあいだから、葉と葉のあいだから、優しく風が吹き抜ける。Bと高橋の肌を撫でる。上気した頬を鎮める。木陰は遊具やベンチを柔く捉えて離れない。さわさわと葉がゆれる度に地面に映し出されたおぼろげな影が踊る。半袖から伸びる高橋の腕にも柔らかい影が乗る。ゆらゆら揺らめいて爽やかな色合いを作り出している。
高橋が缶コーヒーのプルタブを引く音が軽やかに響く。コーヒーを一口含む。ふぅ、と溜め息をつくと高橋は言う。
「数学が全く進まないよ、どうしよう、Bくん。私って本当に数学が駄目みたい。数字をみるとクラクラする」
ベンチの木のささくれを触りながらBは応える。
「どうしようって言われてもな。頑張って向き合うしかない」
高橋はやっぱり努力あるのみだよね、と落胆する。
「というか、高橋は本当に苦手なんだね、数学。冗談かと思ってたよ。ほかの教科はあんなに良い点数だからさ。さっきも図書館で1ページも進んでないよね」
「盗み見してたな?」
見えちゃっただけだよ、と言い訳をするが、高橋は聞かない。
「やらしいやつめ、訴えてやる、変態、ストーカー、夏休み補習だらけになってしまえ」
Bは呆れながらも、高橋と一緒に休日を過ごしているという事実に充実感を感じた。
昨日、花屋「はなまる」で高橋と別れる際に連絡先を交換したのだった。そして図書館で勉強をする約束もした。
高橋の横顔は綺麗だ。背景の木々の深緑を切り取るような肌の白さが空間を神秘的にしている。きめ細かい皮膚が吹き抜ける風を舐める。
その高橋が今隣にいる。その事実は現実味がない。
高橋は缶コーヒーをまた仰ぐ。
「でもありがとうね。いきなり図書館誘っちゃって。私の周りで一番数学が得意な人がBだったからさ。テストも前回良かったんでしょ?教えてもらおうって思ってさ」
高橋が自分の得意教科を知っていることに驚いた。
Bはいままでで人にテストの点数を見せたことが全くといっていいほどない。
思いもよらぬ嬉しさを感じながら、高橋の観察眼の鋭さに驚かされた。
「よく知ってるね、数学だけ点数がいいってこと」
高橋はにやりと笑うと「私ってこう見えて人をよく見てるんだよ」と言う。
「なんかかっこいいね」
Bがそういうと高橋は目を細めて笑った。
「かっこいい、か。はなまるさんにこのことを話したら『影の支配者』って言われたよ」
Bは花屋のはなまるさんを思い出す。シミだらけの親しみやすい顔。真顔で冗談を放つユーモアのあるおじいさん。花屋「はなまる」の店主。
はなまるさんを思い出すと、芋づるのように昨日の高橋の不思議な挙動を思い起こさせる。
高橋が見せたあの表情が網膜に浮かび上がり、目の前にいる高橋の表情に貼り付くように重なる。
物憂げな高橋。
高橋は昨日の表情をBに思い出させないほど生き生きとした表情をして言った。
「はなまるさんどうだった?面白い人だったでしょ、私の自慢の人」
昨日の高橋の表情をしっかりと剥がし取って、Bは本音を述べる。
「ユーモアがあるよね。話し上手だと思った。バイクにも乗ってるらしいし」
「でしょでしょ。はなまるさんもバイクが好きな人と話せて嬉しそうだったよ」
高橋の不思議な挙動の後、はなまるさんはBに若い頃の体験談を話してくれた。それははなまるさんがまだ20代の頃、道路の道端で恥ずかしげもなく泣いていた女を慰め、乗っていたバイクの後ろに乗せて家に送ってやっていると、着いた先はいかにも悪い人間が集まる廃工場のような所で、人相の悪い男に人の女をたぶらかすなといった理由から大金を要求され、罠だとわかったはなまるさんは隙を見てバイクに跨がり脱出したが、後ろからは大量の追っ手が来ていて、壮大な逃走劇を街中で披露してしまった為、市民や警察が大量のバイクの先頭にいるはなまるさんを主犯だと勘違いしてしまい、危うくスピード違反以外にもその集団が起こした過去の悪事を背負いそうになってしまった、という話だ。
はなまるさんはかなりやんちゃな青年だったようである。
「今度はなまるさんのガレージに連れて行ってもらうんでしょ?」
「そうなんだよ。詳しい日時は決めてないけど、今度はなまるさんのガレージにいくことになった。凄いね、バイク専用のガレージがあるなんて」
「はなまるさん、本当にバイクが好きだからね、危ないけど、はなまるさんの生き甲斐だからしょうがない」高橋は子供の悪事をしょうがなく許すような顔をしてうっとりと言った。「でも全く困ったところにガレージを建てたよね。よりにもよってあんな僻地に」
Bは尋ねる。
「僻地?どういうこと?」
「はなまるさん言ってなかったっけ。花屋『はなまる』の近くに建てればいいのに、わざわざ遠く離れた町外れの海沿いに建てたんだよ」
「え、なんで」
「わからない。けど、多分、花屋の近くに建てちゃうと花屋の仕事を自分がしなくなっちゃうってわかってるんじゃないかな」
「ああ、なるほど」
「それにしてもあんな場所はないよ、絶対。もっと近くてもいいのに」
Bは高橋の言う「あんな場所」を想像する。
海沿いに吹く潮風を裂く二輪の鉄の塊。世界と平行する灰色の海に浮かぶ夕陽がメタルボディを煌めかせる。けたたましく鳴るエンジン音は海に吸収される。海沿いの道路とゴムのタイヤが限り無く一つになる。景色は後ろに吹っ飛んでいく。ある一定の速度を越えたその時、海の砂漠を走っているような心地になる。
Bははなまるさんが海沿いにガレージを構えたことがなんとなくわかる気がした。
Bはますますはなまるさんのガレージが気になってしまった。
突然、籠もったメロディーが響く。
高橋はびくりと身体を震わせる。
「あ、ごめん。私の携帯。マナーにしてなかったみたい」
鉄棒から移動しブランコで遊んでいた二人の女児がこちらを不思議そうに見たが、すぐに携帯の着信だとわかったのかすぐにブランコの周りではしゃぎはじめた。
高橋はポケットから携帯電話を取り出す。
籠もっていた音がクリアになる。
聴いたことがあるメロディーだ。Bはその音楽のタイトルを思い出そうとするが、なかなか出てこない。たしかつい最近に聴いたことがあるな、とBは思う。
だが、爽やかな夏の公園には考え事は似合わない、と思い諦めた。
高橋は携帯電話を開いた。その瞬間、高橋は目が大きく見開いて身体が凍ったように動かなくなる。Bはそれに気付かない。
Bは随分と手に持ったままであった缶コーヒーを思い出し、ベンチの裏の大きな木が揺れる度に差し込む光を反射させる缶コーヒーのプルタブを引く。軽やかな音が鳴った。
高橋は立ち上がり「ちょっと電話してくる、まってて」と言った。声色が心なしか震えているようにBは思えた。高橋はBに会話が聞こえない距離をとり、電話を始めた。
Bはあまり気にすることなく冷えたコーヒーが喉を流れるのを楽しんだ。
高橋が電話を終えて、険しい顔をしながら「ごめん、すぐ戻るから」と一言だけ残し、公園を去ってからおよそ30分ほど経とうとしていた。
蝉が鳴いている。蝉はBに鳴り続けている。
Bは携帯電話を開いた。高橋から連絡はない。何度か電話をかけるが空しくコール音が響くだけだ。
高橋はなにをしているのだろうか。
なんだか胸騒ぎがする。
「なに心配してるんだ、馬鹿みたいだ」Bは一人で可笑しくなり小さく笑った。
高橋の身を心配している自分が馬鹿みたいだ。
心配するほど大して時間も経っていないし、すぐに戻るから、と言っていたではないか。
きっと何か優先しなければならない用事があったに違いない。
Bは高橋が置いていった飲みかけの缶コーヒーを眺める。いつの間にか爽やかな風は止み、籠もった熱が辺りに充満し始める。
ふとファストフード店に居た隣町の女子高生の話を思い出す。
○○高校の三年生が女子高生を言葉巧みに車に誘い込む。逃げられない状況を作る。人が変わったように突然縄で縛り始める。服を剥いで裸を動画撮影する。そして、人に言えないように脅す。
Bは荒唐無稽な発想だと分かっていながらも、縄に縛られ裸にされ動画を撮られる女に高橋を重ねてしまう。
そんなことあるはずがない。あるわけがない。
確かに高橋は誘われてもおかしくはないルックスを持っているし、それは自分に限らず誰が見ても高橋を目で追ってしまうだろう。
その三年生も高橋に目をつけることも考えられないことではない。
だが、あれほど鋭い観察眼を持った高橋が車に乗り込むことはまずないはずだ。
電話で呼び出されて自ら乗り込んでいくほど高橋は頭の悪い人間ではない。他の人との約束を破ってまで男とドライブをする女でもない。
そもそも、あの女子高生達の言っていることが真実とは断言できないのだ。
誰かがいたずらで吹聴した法螺話かもしれない。
人から人へ伝わるうちに話が大きくなっただけという可能性もある。
だいたい、たかが連絡が取れないだけで信憑性のない法螺話に繋げて考えるのはなんとも馬鹿馬鹿しい。
なにを心配しているのか、自分は。
特別に変な行動でもない、考えすぎだ、気長に待とう、Bは半ば強引に自分に言い聞かせた。
公園はますます熱を溜め込む。ついさっきまでの涼しさが思い出せないほどに暑さは激しくなる。
蝉が暑さで狂ったかのように鳴き叫ぶ。いや、暑さに狂喜してるのだろうか。
額から浮き出た汗が前髪を濡らす。手の甲で拭う。
Bは堪えかねて、高橋に「先に図書館に戻って勉強してるね」とメールを送り、ベンチから腰を上げようとした。
そのとき、Bの携帯電話が震える。着信だった。
やはり心配なんてしなくてよかった、高橋は電話に出れない用事があっただけのことだったのだ。
現にこうして電話がきている。
Bはポケットへ仕舞ったばかりの携帯電話を取り出す。
「え?」Bの手は止まった。着信は知らない番号からだった。
Bは迷う。携帯はひっきりなしに震える。
数秒置いて、恐る恐る携帯電話を耳に当てた。
「もしもし」Bは蝉の声にかき消されそうな声を出す。
電話の向こうからはなにも聞こえない。
もう一度、少し大きめに「もしもし」と言う。なにも聞こえない。蝉の声がいっそう強く聞こえる。もう一度言う。
「もしもし」
返事はいっこうにくる気配はない。
Bは苛立ち、切ろうとした。すると、耳から離した携帯電話からなにかが聞こえた。
Bは再び耳を当てる。
すると、高橋ではない女の声が携帯電話から聞こえた。
「ねえ、好きな食べ物はなに?」
その声は確かにそう言った。聞き間違いではない。確かにそう言った。突然の謎の問いにBは戸惑う。
「え?」
「だから、好きな食べ物はなに?」
女の声は、湖に小石を投げて出来る波紋のような声だった。
「好きな食べ物?ていうか誰?知り合い?」
Bはそう聞いたが、知人に「好きな食べ物はなに?」といきなり聞いてくる女はいないとすぐに考え至った。誰だ、こいつは?
謎の女はBの問いに答えず喋り続ける。
「言わないってことは、好きな食べ物はないってことね。なるほど。そういうときもあるか。好きな食べ物がないときもある、ふぅん、そうか」
Bは謎の女の奇妙な言動に恐ろしくなる。混乱する。
「誰なんだよ。どうやってこの番号を知ったんだ」Bは怯えていることを悟られないように、ゆっくりと低めのトーンで話す。
「私の好きな食べ物はね、ソフトクリーム。なぜかというと、真っ白で綺麗で甘くて幾ら食べても中は白くて冷たくて溶けちゃうから。わかる?ソフトクリーム。食べたことあるでしょ?今の季節にはぴったりだと思うけど、どう思う、B君」
Bは謎の女が「B」という自分の名前を発した瞬間、全身が寒気立ち、くらくらと目の前が揺れる気がした。
「B君はソフトクリームは好き?それとも嫌い?ふつう?」
蝉が叫んでいる。Bのいるベンチ周辺の木陰が濃くなる。視界がぐにゃりと歪み、足下が覚束なくなる。
「あれ、意外と恥ずかしがり屋さんなのかな、B君は。想像とちょっと違うかも。あ、そういうのは良くないよね、人っていうものは何を考えているのかわからないもんね、決めつけは良くないよね」
ところどころ塗装が剥げていてぼこぼこと穴が空いたUFOの形をした遊具のてっぺんに疲れた女児が水筒を傾けて水分補給している。
女児の口元から日光を反射する水滴が流れ落ちる。
きらり、と瞬いた時、Bは目を覚ましたかのように電話を切ろうとした。
その刹那、謎の女が「高橋」と言った気がした。
Bは手を止める。
泣き叫ぶ蝉が静寂する。
携帯電話から、もう一度「高橋」と聞こえる。
Bは携帯電話を切ろうとした際に弾かれてベンチにこぼれた高橋の飲みかけのコーヒーを気にもかけず、再度、携帯電話を耳に当てる。
「今なんていった?」
……Bの携帯電話は答えない。
「おい、なんて言ったんだ?」Bの口調は問いただすような強いものになっていた。
数秒の沈黙。
謎の女は喋らない。
Bはこの数秒がとても長く感じた。
そして、湖に小石を投げ込んで出来る波紋のような声で女は言った。
「高橋に教えてもらったんだよ、君の電話番号。あ、そうそう、高橋なら今、隣にいるよ」
まだ続きます、誤字脱字は気にしないでくださいお願いします