②はなまるじいさんと高橋
まだまだ続きます。ぜひどうぞ
Bは一度も「はなまる」に入ったことがなかった。
店内は濃い色した木目調の涼しい造りだった。気品の良いカフェを思わせる。店内を囲う棚に所狭しと花が置いてある。花は詳しくないのでわからない。だが、どれも元気そうに咲いていた。
さわやかな花の香りが漂う。通学途中、鼻をくすぐるあの香り。
ノイズの混じった声のする方角を注視すると、無骨なラジオがホコリを被っている。黒い箱の中でハキハキと話す女性が午後四時半を告げていた。
「はなまるさーん」高橋は店の奥に向かって声を張った。Bは少し緊張する。
「はなまるさんって?」
「はなまるさん、ここの店長さん」高橋は店の奥を覗き込んだ。「いないのかな」
「店長さんの名前がそっくりそのまま店名になっているのか」
「そう、店長はなまるさんが経営する、花屋『はなまる』ってこと」
「花屋にぴったりの名前なんだね、店長さんは」
「はなまるさんは本名じゃないけどね。私達が勝手にそう呼んでいるだけ」
Bは高橋が口にした「私達」の「達」の部分に少し躊躇いがあるように思えた。だがBは考えすぎとすぐに忘れた。
高橋はもう一度、全く同じトーンで店長はなまるさんを呼んだ。「はなまるさーん」
「やっぱりいない。お出掛けかな」
Bも高橋の後ろから店の奥を覗き込んだ。クーラーの送風によってゆらゆら揺れる暖簾の奥にはダイニングテーブルやテレビらしきものがみえる。はなまるさんはどうやらここで衣食住を済ませているらしい。
「はなまるさんはここだよ」Bの真後ろでいきなり聞き慣れない声がした。
Bは突然の背後からのかすれた声に驚き、飛び退いた。浅黒いシワだらけの老人。老人は首にかけた無地のタオルで額の汗を拭いながら入り口からやってきた。
高橋は笑いながらその老人に言った。「はなまるさん外にいたんだ、気がつかなかった」
老人もシミだらけの顔をシワだらけにしながら快活に笑う。「草刈してたら呼ぶ声がしてなぁ。モネちゃんの声はすぐわかる。よく響くからなぁ。」
モネというのは高橋の下の名前だ。だが不思議と高橋は下の名前で呼ばれることが少ない。高橋が「モネちゃん」と呼ばれているのはとても新鮮に感じた。
「あ、お邪魔しています、高橋と仲良くさせてもらってる同じクラスのBです」Bはできるだけハキハキと喋るよう心掛けた。
はなまるさんはBの顔を観察するように見て、なにか思案しているような表情を浮かべた。その後、我に返ったかのようにまばたきを数回して「おお、どうもどうも、はなまるの店長です」と言った。
「とりあえずその椅子にお掛けなさい、立ちっぱなしもなんだから」
老人は草刈に使った鎌の刃が高橋とBに向かないように慎重にゆっくりと通り過ぎていく。老人から草の青い匂いがする。白いシャツが所々土で汚れていた。
老人が店の奥へ消える。
「あのおじいさんがはなまるさんか」
「そう。ぴったりな名前でしょう?」
「いや、ぴったりかはわからないけど」
「はなまるさん、可愛らしいおじいちゃんなんだよ」
「可愛らしい?」
「とってもユーモアがあって、親しみやすいよ」
「まあ、初対面の人を後ろから驚かすくらいだしね」
「はなまるさん、たぶん飲み物ご馳走してくれると思うんだけど」
「おーい、モネちゃんともう一人、アイスココアとホットココアどっちがいい?」店の奥からはなまるさんの掠れた声が響く。高橋はBに笑いかける。「お茶目なおじいちゃんでしょ?」高橋はしっかりとした声で、アイスココア2つ!と言う。
アイスココアを冷たくしている氷が丸みを帯び始めた。
はなまるさんはBの顔をじっと見つめていた。Bはどうしたらいいかわからず、目で高橋に助けを求める。
高橋はまったく気づいていない。舌に広がるココアの甘みを楽しんでいる。はなまるさんは不思議そうな顔でBの顔を観察した。
「どこかで見たことがある気がするなぁ。それも何度もだ。どこかでお会いしたかね?」
「お会いしたことはないですが、その道はよく通ります。多分その時に見たんだと思います」Bは窓から見える「はなまる」前に接する道を指差した。
「はぁ、だからか。この店の前を通る人なんて滅多にいないからなぁ、どうりでどこかで見た顔だと思った」
高橋は半分ほどになったアイスココアのグラスを揺らしながらBの顔をのぞき込む。
「あれ、Bってこの道からいつも帰ってるの?こっちって駅から遠回りになるよね、随分と。この道は電車で通学している人とは無縁のはずだけど。Bくん住んでるところこの辺だっけ」
「いや、住んでいる場所は隣町だよ」
「それなら、どうして?」
実際に、駅から直接に学校へ向かうルートと、駅から「はなまる」を通って学校へ行くルートは大違いだ。
「はなまる」前を通ると、正規の通学ルートとくらべて格段と時間がかかる。
それでもBはこの道を使っている。この「はなまる」前の道を通れるようにわざわざ朝早く起きている。
高橋はこちらをじっと見つめている。Bは身体が沸騰するような気持ちになる。
高橋がこの道をよく通ると聞いたからだ、という理由をBは高橋に言うことはできなかった。「散歩がてらにね」と半ば強引に話を切った。
「そんなことより、わざわざ飲み物を用意してくださってありがとうございます。とっても美味しいです」アイスココアを喉に通す。冷たくて甘い。店内の空調機と体内のアイスココアが火照った身体を芯から冷やしていく。
「いやいや、いいんだよ、お礼なんて。モネちゃんの友達ならVIPな待遇をせねばあかん。富豪だったらキャビアを添えたいぐらいだ」
はなまるさんはしわしわの親指と人差し指で輪っかを作り、世の中結局これなんだよ、これ、と嘆いた。
「はなまるさん、お金いっぱいあるじゃない。あんなにでっかいバイクなんて買っちゃって。もう歳なんだからいい加減やめたほうがいいよ」
「え、はなまるさん、バイク乗るんですか?」
はなまるさんは得意げな笑みを浮かべた。
「そりゃあ乗るさ、わたしも若い頃は飛ばしたよ。いまは安全運転だがね」
「へぇ、今度見せて欲しいです。僕、実はバイク好きなんですよ。免許もあと少しで取得できるんです」
「Bくん自動車学校に通ってるの?」高橋は身を乗り出してBに訊いた。
「うん、2ヶ月前くらいから」
「学校で禁止されてなかったっけ、たしか」
Bは唇の前に指を当てて「内緒でお願いします」と囁くような声で言った。
「うわ、悪い子だ」
高橋は目を細めて見下すような声色で言った。だがすぐに「しょうがないなぁ、安全運転でたのみますよ?」と笑った。
はなまるさんはBと高橋の顔をゆったりとした眼差しで眺める。
「しかし、モネちゃんがお友達を連れているところは久しぶりに見たなぁ。いつぶりだろうか」
高橋はあわてた様子で「そんなことないよ、よく遊んでるよ、色んな人達と。先輩とかとも後輩とかとも」と早口で言う。高橋はなぜか必要以上に焦っていた。
不思議に思いながら、Bは校内での高橋をふらふらと思い出す。
クラスの中心的存在でありながら、過度の悪ふざけの参加は上手くかわしている。分け隔て無く笑顔で会話し、クラス内に幾つか存在するグループには属さない。だが孤独感は感じさせない。学力は平均より少し上を保っており、運動はあまりできる方ではない。園芸部では副部長を務めていて、今聞いたとおり後輩とも先輩とも交友は深いようだ。
そんな高橋はクラスで若干浮いていたBにも会話を積極的に試みた。高橋は誰とでもスムーズに会話できる。高橋の凄いところだとBは思う。
これまでも高橋は何度かBに話しかけ、他愛のない会話をしていた。Bは会話を重ねるたび、緊張がほぐれてゆき、ようやくBから声をかけるほどになった。
その頃からだろうか、「はなまる」の通学ルートを使うようになったのは。
高橋は半分になったアイスココアを飲み干すと、ココアの色を纏った氷をストローの先でつついた。Bはそれを横目で観察する。
高橋が俯いた。艶のある濡烏の髪から絹のような肌が覗いている。小さく纏まった鼻、崩れそうな桃色の唇。高橋の横顔をどこか切ない。
はなまるさんが自分の干からびた皮膚を指でなぞる。目尻の皺を確認するように指でなぞる。わざとらしい溜め息を一つ落とす。
高橋は黙ったままだ。つい一分前に溢れていた笑顔の影すら見当たらない。高橋の目は髪に隠れてみることができない。高橋の様子がどこか変だ。
さきから妙な空気が流れ始めていることにBは気づく。Bは不思議に思う。はなまるさんは椅子に深く腰掛け、なにかを待っている。Bはますます不思議に思う。はなまるさんと高橋の間に無言のやりとりがあるように思われる。
高橋はストローの先をくるくる回す。ストローのさきについたココアが小さく飛び散る。
Bは悟られないように俯いた高橋の顔を覗き込む。高橋はテーブルをただ見つめていた。テーブル上に飛び散ったアイスココアの一滴をただ見つめている。
高橋はゆっくりと顔を上げると、はなまるさんとBを交互に一瞥し、なにか逡巡した。Bは慌てて目を背ける。
はなまるさんは高橋がなにかを言い出すのをまっているようかのようにBは見受けられた。
Bは自分が邪魔になっているのではないか、と考え始める。
高橋を横目で見た。高橋は喉になにかがつっかえていて、呑み込むこともできずに、早く吐き出したいように見える。桃色の崩れそうな唇が淡く震えている。だが吐き出すことも躊躇しているようにも見える。
「明日の天気をお知らせします。雨です」ネジの締まった声が店内に無機質に響く。
はなまるさんの表情は穏やかだ。その表情は、Bと高橋を観察しているのか、それともラジオを聴いているのかわからない。
Bは居心地が悪くなる。いっそのこと適当な理由をつけて出てしまおうかとも考える。
高橋ははなまるさんとある約束事をしていたのかもしれない。それは他者の耳には入れてはならない大切な話だったのかもしれない。
そこへBが割り込む形となり、言い出したいことをはなまるさんに打ち明けることができなくなった。そう考えられるのではないか。
だが、それならばなぜ高橋は自分を「はなまる」に入るよう促したのだろうか。大事な話があるならば、遠回しにでも別れを告げて一人で「はなまる」に入っていくだろう。
高橋がいま躊躇っている言葉とはなんなのだろうか。Bの脳をもやもやが埋め尽くす。一体なんだというのか。
それと同時に、高橋を不思議な挙動に導く原因はなんだろう、とBは興味が徐々に沸きはじめた。
高橋は何度か口を開いて何かを発しようとした。だが何も言わない。空っぽの言葉がテーブルの上に落とされるだけだ。「はなまる」内には息苦しい無音が充満した。
高橋はついに諦めたような顔を浮かべると、Bとはなまるさんを見比べる。そしてテーブル上のアイスココアの一滴と空っぽの言葉を誇張気味の快活さで吹き払った。
「どうしたの、二人とも、黙りこくっちゃって。そうだそうだ、はなまるさんに聞きたいことがあったの。今度の園芸部の活動でね……」
無音が部屋の隅へ逃げていく。何事もなかったかのように高橋は喋り、何事もなかったかのようにはなまるさんはそれに受け応えている。
Bは横で広がる植物やら花やらの話を聞き流しながら、高橋の挙動について考えていた。高橋はなにかを抱えている、と思った。高橋は確かにおかしかった。いつもの高橋ではなかった。Bはそれを無性に知りたいと感じた。
花屋「はなまる」を出て、高橋と別れ、駅に続く熱の残ったアスファルトの上に目線を落としながらふらふらと歩くBはずっと高橋のことを考えていた。
高橋の謎の挙動。なにかあるに違いない。
だが踏み込んでよいものなのだろうか。ただ単に知りたい、それだけの私欲のために踏みいっていいものなのだろうか。Bは道路に転がっていた小石を蹴る。小石はアスファルトと擦れて気の抜けるような音を出しながら草むらに消えた。
湧き上がる私欲に疑問を感じながらも、その欲を止めようとはしないBがいた。
高橋は誰にでも好かれる人柄だ。当たりが良くて愛想も申し分ない。誰が見ても素敵な女性だというだろう。誰もが高橋と交友していたいと考えるだろう。
Bは奇妙な高揚感を感じ始めていた。初めて目撃した高橋の意外性。恐らく、クラスや部活動では見せることはないあの横顔。高橋がBだけに垣間見せた、誰にもみせることはないあの表情。支配感ともいえる感覚。
もはやBには溢れる私欲を止める術はなかった。高橋の抱えている謎。Bの思考は全てその謎の解決に向かっていった。
そのBの姿を後ろから観察するひとつの影がある。じっとBを見ている。Bは気付かない。その陰はBが見えなくなるまでその場をじっと動かなかった。
Bが道の向こうへ消えるまで、小さく小さく消えるまで。