キジ白、還る
段ボールの隙間から、キジ白の猫がこちらを覗いていた。
「ごめんね、急に」
友人の美咲は、申し訳なさそうに箱の中を覗き込んだ。三日後には、もうこの町にいない。父親の転勤が急に決まって、引っ越し先の県まで、もう決まっているという。
「マンションだから、ペット可のところ、すぐには見つからなくて。うちの庭で拾ったばかりなのに、ごめんね」
この十日ほど、学校帰りに美咲の家に寄っては、ルウの様子を見に行っていた。最初は警戒していたルウも、今ではすっかり私に懐いていた。
「いいよ、うちで飼うから」
私は箱の中に手を入れた。キジ白の猫――名前はルウ――は、大きな目でじっとこちらを見上げていた。本来なら濃いはずの縞模様がところどころ白っぽくくすんでいて、もう若くはないのだと分かる。
「ルウ、おばあちゃん猫だから、手はかからないと思う」
美咲はそう言って笑ったが、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「ありがとう。ほんとに、ありがとうね」
私は何も言えなかった。友達を見送るのも、猫を引き取るのも、初めてのことだった。
三日後、美咲は本当に町を出ていった。
駅のホームで、大きなスーツケースを引きながら、美咲は何度も振り返った。
「ルウのこと、ほんとによろしくね」
「うん。写真送るよ、ちゃんと」
美咲は小さく頷いたが、それ以上は何も言わなかった。言葉にすると、涙が出そうだったのかもしれない。電車が来るアナウンスが流れ、美咲はスーツケースを引いてホームの奥へ歩いていった。
私は、見えなくなるまで手を振り続けた。
家に帰ると、ルウが玄関でうずくまっていた。美咲の匂いを覚えているのかもしれない、と思ったけれど、確かめようがなかった。私はルウを抱き上げて、しばらくそのままじっとしていた。
ルウがうちに来て、最初のひと月はほとんど寝てばかりいた。動物病院で診てもらうと、獣医は「年齢のわりには、どこも悪くないですね」と言って、少し首をかしげた。
「わりには?」
「うーん、毛艶とか、歯の状態とか。もっと年をとった猫だと思っていたので」
美咲からは「拾ったばかりだから分からないけど、たぶんおばあちゃん猫だと思う」と聞いていた。それにしては確かに、元気すぎるのかもしれない。私はそのときはまだ、深く気にしなかった。
夏が近づく頃には、ルウは短い距離なら自分から歩いて移動するようになっていた。以前は一日中同じ場所で丸くなっていたのに、今では日向を求めて部屋の中を移動する。
その後は、秋も冬も、大きな変化は見えなかった。白かった毛の一部が、いつのまにか元のキジ柄に戻っていることに気づいたのは、年が明けてしばらく経った頃だった。半年近くが過ぎていた。
二回目の夏が来る頃には、おもちゃのねずみに前足を伸ばしたり、ソファに軽く飛び乗ったりする姿を見せるようになっていた。それでも、まだ一日の大半は日向でうとうとしている、おっとりとした猫のままだった。
秋が深まり、冬に近づく間、ルウは家じゅうを走り回るようになり、カーテンによじ登り、夜中に運動会のように部屋を駆け回ることも増えていった。
「おばあちゃん猫だったよね、あなた」
私は半分呆れながら、ルウの頭を撫でた。ルウは応えるように、私の手に頭をこすりつけてきた。
体つきだけは、少しずつ丸みを帯びて小さくなっていった。二度目の冬が来る頃には、キジ柄はすっかり鮮やかになり、若い猫にしか見えなくなっていた。
送っていた写真に、美咲からの返信が来たのは、ルウがすっかり一歳そこそこの猫のように見えるようになった頃だった。
「これ、ルウだよね? なんか……若返ってない?」
冗談めかしたスタンプが続いていたが、その夜、知らない番号から電話がかかってきた。美咲のお母さんだった。
「突然ごめんなさいね。美咲から写真を見せてもらって……」
声は静かだった。私は何を聞かれるのか分からないまま、相槌を打った。
「ルウのこと、少し話してもいいかしら」
電話の向こうで、お母さんは一度、深く息を吸う気配がした。
「本当はもっと早く、話すべきだったのかもしれない。ずっと、言えなかったの」
「あの子、本当はね……この世界の生き物じゃないの」
突拍子もない言葉に、私は言葉を失った。お母さんは構わず、静かに続けた。
「向こうの世界があるの。そこでは、年寄りの姿で生まれて、赤ちゃんの姿で死んでいく――こことは逆の理でね。ルウは、本当は向こうで生まれるはずだった子。それが、間違ってこっちに来てしまったの」
「間違って……?」
「時々、いるのよ。生まれる場所を間違えてしまう子が。私は昔から、そういう子がいることを知っていて……見ればなんとなく、分かるの」
お母さんの声は、それ以上詳しくは語らなかった。
「だから、こっちでは年寄りの姿で現れて、これから赤ちゃんに近づいていく。それが、あの子にとっての……寿命なの」
「じゃあ、赤ちゃんになったら……ルウは……」
「死ぬわけじゃないのよ」お母さんの声が、少しだけ弾んだ。「向こうの世界で、生まれるの。こっちでの終わりは、あっちでの始まり」
私は言葉が出なかった。ルウが、少しずつ子猫に近づいていっていることは分かっていた。でも、その先に「死」ではなく「誕生」があるとは、考えたこともなかった。
「引っ越しのとき、本当は連れていくかどうか、すごく迷ったの。でも、慣れない土地に連れていって、あの子の一番大事な時期を、知らない環境で迎えさせるのは可哀想だと思って。ここでなら、あなたがちゃんと見ていてくれる。それなら、この子はきっと、ここで最期を迎える方がいいと思って……美咲に頼んで、あなたに託すことにしたの」
お母さんの声が、少し震えていた。
電話を切った後も、私はしばらく動けなかった。
それから、ルウの変化は加速していくように見えた。体はどんどん小さくなり、白っぽくくすんでいた毛は艶やかなキジ白の毛並みになり、あれほど走り回っていた足取りも、よちよちとした頼りないものに変わっていった。
その日は、二度目の冬を越えた先、桜が散り始めた頃だった。
ルウは、いつものように私の布団の隅で丸くなって眠っていた。あまりに小さく、頼りない寝息だった。私はそっと、ルウの背中に手を置いた。指先に、いつもの温もりと、小さな呼吸の上下が伝わってくる。
「行くの?」
答えるはずもないのに、聞いてしまった。
ルウはうっすらと目を開け、私の指先に小さな舌を這わせた。ざらりとした感触が、一度だけ。それから、ふ、と一声、小さく鳴いた気がした。それが最後だった。
次に指先が感じたのは、ただの布団の冷たさだった。温もりも、呼吸の上下も、もうどこにもない。布団の上には、小さな窪みだけが残っていた。
私は、その窪みにそっと手を当てた。悲しいはずなのに、不思議と涙は出なかった。どこか遠くで、誰かが今、生まれたばかりの声を上げているような気がした。
ルウがいなくなったことを、私は誰にも言わなかった。言っても、信じてもらえる気がしなかったし、何より、悲しい出来事として扱われたくなかった。
その夜、美咲にメッセージを送った。
「ルウ、旅立ったよ」
しばらくして、返信が来た。
「そっか。……ありがとう、最後まで一緒にいてくれて」
美咲も、きっと知っているのだ。お母さんから聞いたのだろう。それ以上の言葉はなかったけれど、それで十分だった。
窓の外では、桜がほとんど散り終えていた。次の春には、また新しい花が咲くのだろう。
私は、空になった猫用ベッドをそっと片付けた。悲しみよりも、ちゃんと見送れたという実感の方が、今は少しだけ大きかった。
どこかの世界で、今日、小さな命が生まれた。




