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返さなくていいもの

作者: リフェリア
掲載日:2026/03/12

 僕はそこそこの大学を出て、そこそこの会社に入った。

 入社してすぐ、同じ部署の隣の班にいる大村康平さんが、僕のメンターについた。


 大村さんは、ぱっと見は物静かで控えめな、定年を間近に控えたただのおじさんだ。

 けれど、少し一緒に働けば、その印象はすぐに覆る。


 朝は誰よりも早く出勤して、部署の清掃や備品の補充をしている。

 その事実に気づいている人は、たぶんほとんどいない。

 僕が知ったのも、偶然だった。


 学生時代、体育会系のサークルで散々しごかれてきた僕にとって、掃除や雑用は下っ端の仕事だった。だから入社してしばらくは、少し早めに出社しては「今日こそ先にやるぞ」と思っていた。けれど、いつも全部終わっている。

 悔しくなって、少しずつ出勤時間を早めていった。

 それでも、間に合わなかった。


 意地になって、始発より前に会社へ向かった朝がある。

 夜明け前の薄青い光の中で、正面玄関の床を黙々と拭いている大村さんの背中が見えた。


 その背中は、妙に静かで、妙に寂しかった。


 大村さんの善意は、それだけじゃない。


 若手がミスをして取引先と揉めたとき、本来なら班長や係長が同行するはずなのに、なぜか毎回そこに大村さんがいた。

 僕が大きな失敗をしたときもそうだった。


 謝罪を終えて会社へ戻る道すがら、ひたすら落ち込む僕に、大村さんは言った。


「取り返せる失敗なんだから、そんなに気にしなくていいよ。反省して、次に活かせばいいだけだ」


 そう言って、軽く僕の背中を叩いた。

 慰めるでも、叱るでもない、静かな声音だった。

 そのときの僕には、その静けさがありがたかった。


 別の日には、子どもが熱を出したと連絡を受けて、青ざめた顔で立ち尽くすシングルマザーの先輩がいた。

 その日は年度末進行の真っただ中で、部署全体が張り詰めていた。もちろん大村さんも例外じゃない。

 それでも大村さんは、ごく自然な顔で彼女の仕事を引き取った。


「子どものところに行ってあげて。仕事は代われるけど、お母さんは代われないから」


 そう言って、いつものように微笑んだ。


 ほかにも、誰も気づかないうちにコピー機の紙が補充されていたり、給湯室のコーヒーが切れていなかったり、忙しい人の机の上にだけそっと資料が揃えられていたりした。

 派手ではない。

 でも、なくなるとたぶん、みんなが困る。


 多くの人が大村さんに感謝していた。

 賞賛もしていた。

 けれど大村さんは、そのたびに困ったように少しだけ笑って、するりと受け流してしまう。


 大村さんは、すごい善人だ。

 それは間違いない。


 でも、ただの善人じゃない。

 そう思いはじめたのは、あの笑顔のせいだった。


 優しいのに、どこか遠い。

 柔らかいのに、触れた指先がすり抜けてしまうような笑い方だった。

 感謝されることにも、頼られることにも慣れているくせに、誰にも寄りかからない。

 まるで最初から、受け取るつもりがないみたいに見えた。


 一度そう思ってしまうと、気になって仕方がなかった。

 僕は、いろんな人に大村さんのことを聞いて回った。


 意外だったのは、みんながみんな、大村さんを手放しで称賛していたわけではないことだ。


 大村さんの気遣いを当たり前みたいに受け取っていた人もいた。

 感謝を向けても届かない気がして、かえって距離を感じた人もいた。

 大村さん自身は誰にも頼らないから、「周りの助けなんか必要としてないんだろう」と反発していた人もいた。


 もちろん、助けられて感謝している人が一番多かった。

 ただ、そのどれもが少しずつ、大村さんの輪郭を浮かび上がらせた。


 そして、誰も定年後の大村さんの予定を知らなかった。


 総務から、定年時の挨拶も表彰も頑なに辞退されたと聞いた。

 僕が「せめて、何かお礼をしたいんです」と食い下がると、総務の古株の女性はしばらく黙ったあと、小さくため息をついた。


「……あの人、ほんとに何も受け取らないのよね」


 そう言って、その人は教えてくれた。

 大村さんに家族がいないこと。

 昔からずっと一人で暮らしていること。

 そして、子どもの頃に事故で両親を亡くしていること。


 休みを取って、大村さんの家の近くまで行った。

 築何十年経っているのかわからない古い家だった。外壁のあちこちに補修の跡があり、雨戸も少し歪んでいた。

 けれど、家の周りだけはきれいに掃き清められていて、伸びた雑草ひとつなかった。


 いかにも大村さんらしい家だと思った。


 近所の人にも話を聞いた。

 最初は警戒されたけれど、「会社の後輩です」と名乗ると、少しずつ口を開いてくれる人がいた。


 小さい頃に事故で両親を亡くしたこと。

 姉がいたこと。

 事故のあと、その姉も亡くなったこと。

 親戚に預けられて育ったこと。

 子どもの頃から、驚くほど何も欲しがらない子だったこと。

 遊園地の話題になると、ひどく顔色を変えたこと。


 断片ばかりだった。

 それでも何人かに話を聞くうちに、似たような話が少しずつ重なっていった。


 二度目に訪ねたとき、当時を知っているという年配の女性が、ぽつりとこう言った。


「遊園地に行きたいって、康平くんが駄々をこねたらしいのよ。その帰りに事故があったって」

「お母さんが庇って、康平くんだけ助かったって」

「お姉ちゃんは……恨み言みたいなものを残した、って聞いたことがあるわ」


 どこまでが本当なのかはわからない。

 どの人も「らしい」としか言わなかった。

 きっと、ほんとうのことは大村さんしか知らない。


 会社へ戻る電車の中で、僕はずっとそのことを考えていた。


 大村さんは、何を思って、あんなふうに人を助け続けてきたんだろう。

 どうして、あんなにも与えることには慣れているのに、受け取ることだけは下手なんだろう。


 答えはわからなかった。

 けれど、あの静かな善意の積み重ねが、ふと、祈りみたいなものに思えた。


 誰かのために何かをすることでしか、自分をここに置いておけない人の祈りだ。


 そのとき初めて、僕は少し怖くなった。

 このまま定年を迎えたら、大村さんは本当に、誰にも見送られないまま消えてしまう気がした。


 それが嫌だった。

 どうしても、嫌だった。


 僕は、大村さんに感謝している人たちに声をかけた。

 総務の古株の女性も力を貸してくれて、すでに退職していた人たちにも連絡が届いた。

 驚くほど多くの人が集まってくれた。


 大村さんが退職する日の朝。

 大村さんは、いつも通りの時間に出社していた。


 玄関を掃除して、備品を整え、コーヒーメーカーの水を替え、コピー機に紙を補充し、給湯室に茶菓子を置く。

 いつもと何ひとつ変わらない手順で、最後の日の朝を片づけていく。

 それからロッカーの中の少ない私物を紙袋にまとめて、誰にも気づかれないように会社を出ていこうとした。


「待ってください、大村さん!」


 僕は廊下の向こうで、その背中を呼び止めた。


 振り返った大村さんは、いつものように穏やかに笑った。


「坂上くんは、今日も早いね。どうしたんだい」


「少しだけ、付き合ってください」


 半ば強引に、会社の隣のビルの貸会議室まで連れていった。

 扉を開けた瞬間、大村さんが足を止めた。


 中には、人がいた。

 社長も、上司も、同僚も、部下も、もう辞めたはずの人たちまでいた。

 みんな少し緊張した顔で、でも確かな気持ちを抱えて立っていた。


 最初に口を開いたのは、あのシングルマザーの先輩だった。


「あの日、あのまま帰れなかったら、私はたぶん一生後悔していました。背中を押してくれて、本当にありがとうございました」


 次に、以前別部署へ異動した先輩が言った。


「取引先で大きなミスをしたとき、辞表を書くつもりでいました。あの日、一緒に頭を下げてくれたこと、ずっと忘れていません」


 給湯室担当の派遣さんが、少し照れくさそうに笑った。


「毎朝、コーヒーが切れてないの、当たり前だと思ってました。でも違ったんですよね。あれに救われてた人、たくさんいたと思います」


 ひとつ、またひとつと声が続いた。

 大村さんに助けられた日。

 かけてもらった短い言葉。

 拾ってもらった失敗。

 黙って差し出された善意。


 大村さんは最初、ただ戸惑っているように見えた。

 けれど言葉を受け取っていくうちに、いつもの笑顔が少しずつ崩れていった。

 笑っているのに、どこか泣きそうな、初めて見る顔だった。


 僕は前に出て、花束を差し出した。


「大村さん。僕は、あなたが何を思って人を助けてきたのか知りません。知ったつもりにもなれません。でも、あなたに助けられた僕たちが、あなたに感謝していることだけは事実です」


 自分でも驚くくらい、声が震えていた。


「今まで、本当にありがとうございました」


 深く頭を下げた。

 しんと静まり返った会議室で、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。


 顔を上げると、大村さんは花束を見つめていた。

 すぐには受け取らなかった。

 受け取ってしまっていいものか迷うように、その指先がわずかに震えていた。


 やがて大村さんは、壊れものに触れるみたいに、そっと花束を抱えた。


 その瞬間、誰かが泣いた。

 たぶん、僕だった。


 大村さんの目からも、静かに涙がこぼれた。

 それでも、その微笑みはいつもの、誰かを遠ざけるためのものではなかった。


「……ありがとう」


 かすれた声で、たったそれだけ言って、

 大村さんは花束を胸に抱きしめた。


 その花束は、最後まで大村さんの腕の中にあった。

ご拝読いただき、ありがとうございました。


この短編は、バッドエンドに寄りがちな筆者が、それ以外の結末を書こうと頭をひねった作品です。

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