返さなくていいもの
僕はそこそこの大学を出て、そこそこの会社に入った。
入社してすぐ、同じ部署の隣の班にいる大村康平さんが、僕のメンターについた。
大村さんは、ぱっと見は物静かで控えめな、定年を間近に控えたただのおじさんだ。
けれど、少し一緒に働けば、その印象はすぐに覆る。
朝は誰よりも早く出勤して、部署の清掃や備品の補充をしている。
その事実に気づいている人は、たぶんほとんどいない。
僕が知ったのも、偶然だった。
学生時代、体育会系のサークルで散々しごかれてきた僕にとって、掃除や雑用は下っ端の仕事だった。だから入社してしばらくは、少し早めに出社しては「今日こそ先にやるぞ」と思っていた。けれど、いつも全部終わっている。
悔しくなって、少しずつ出勤時間を早めていった。
それでも、間に合わなかった。
意地になって、始発より前に会社へ向かった朝がある。
夜明け前の薄青い光の中で、正面玄関の床を黙々と拭いている大村さんの背中が見えた。
その背中は、妙に静かで、妙に寂しかった。
大村さんの善意は、それだけじゃない。
若手がミスをして取引先と揉めたとき、本来なら班長や係長が同行するはずなのに、なぜか毎回そこに大村さんがいた。
僕が大きな失敗をしたときもそうだった。
謝罪を終えて会社へ戻る道すがら、ひたすら落ち込む僕に、大村さんは言った。
「取り返せる失敗なんだから、そんなに気にしなくていいよ。反省して、次に活かせばいいだけだ」
そう言って、軽く僕の背中を叩いた。
慰めるでも、叱るでもない、静かな声音だった。
そのときの僕には、その静けさがありがたかった。
別の日には、子どもが熱を出したと連絡を受けて、青ざめた顔で立ち尽くすシングルマザーの先輩がいた。
その日は年度末進行の真っただ中で、部署全体が張り詰めていた。もちろん大村さんも例外じゃない。
それでも大村さんは、ごく自然な顔で彼女の仕事を引き取った。
「子どものところに行ってあげて。仕事は代われるけど、お母さんは代われないから」
そう言って、いつものように微笑んだ。
ほかにも、誰も気づかないうちにコピー機の紙が補充されていたり、給湯室のコーヒーが切れていなかったり、忙しい人の机の上にだけそっと資料が揃えられていたりした。
派手ではない。
でも、なくなるとたぶん、みんなが困る。
多くの人が大村さんに感謝していた。
賞賛もしていた。
けれど大村さんは、そのたびに困ったように少しだけ笑って、するりと受け流してしまう。
大村さんは、すごい善人だ。
それは間違いない。
でも、ただの善人じゃない。
そう思いはじめたのは、あの笑顔のせいだった。
優しいのに、どこか遠い。
柔らかいのに、触れた指先がすり抜けてしまうような笑い方だった。
感謝されることにも、頼られることにも慣れているくせに、誰にも寄りかからない。
まるで最初から、受け取るつもりがないみたいに見えた。
一度そう思ってしまうと、気になって仕方がなかった。
僕は、いろんな人に大村さんのことを聞いて回った。
意外だったのは、みんながみんな、大村さんを手放しで称賛していたわけではないことだ。
大村さんの気遣いを当たり前みたいに受け取っていた人もいた。
感謝を向けても届かない気がして、かえって距離を感じた人もいた。
大村さん自身は誰にも頼らないから、「周りの助けなんか必要としてないんだろう」と反発していた人もいた。
もちろん、助けられて感謝している人が一番多かった。
ただ、そのどれもが少しずつ、大村さんの輪郭を浮かび上がらせた。
そして、誰も定年後の大村さんの予定を知らなかった。
総務から、定年時の挨拶も表彰も頑なに辞退されたと聞いた。
僕が「せめて、何かお礼をしたいんです」と食い下がると、総務の古株の女性はしばらく黙ったあと、小さくため息をついた。
「……あの人、ほんとに何も受け取らないのよね」
そう言って、その人は教えてくれた。
大村さんに家族がいないこと。
昔からずっと一人で暮らしていること。
そして、子どもの頃に事故で両親を亡くしていること。
休みを取って、大村さんの家の近くまで行った。
築何十年経っているのかわからない古い家だった。外壁のあちこちに補修の跡があり、雨戸も少し歪んでいた。
けれど、家の周りだけはきれいに掃き清められていて、伸びた雑草ひとつなかった。
いかにも大村さんらしい家だと思った。
近所の人にも話を聞いた。
最初は警戒されたけれど、「会社の後輩です」と名乗ると、少しずつ口を開いてくれる人がいた。
小さい頃に事故で両親を亡くしたこと。
姉がいたこと。
事故のあと、その姉も亡くなったこと。
親戚に預けられて育ったこと。
子どもの頃から、驚くほど何も欲しがらない子だったこと。
遊園地の話題になると、ひどく顔色を変えたこと。
断片ばかりだった。
それでも何人かに話を聞くうちに、似たような話が少しずつ重なっていった。
二度目に訪ねたとき、当時を知っているという年配の女性が、ぽつりとこう言った。
「遊園地に行きたいって、康平くんが駄々をこねたらしいのよ。その帰りに事故があったって」
「お母さんが庇って、康平くんだけ助かったって」
「お姉ちゃんは……恨み言みたいなものを残した、って聞いたことがあるわ」
どこまでが本当なのかはわからない。
どの人も「らしい」としか言わなかった。
きっと、ほんとうのことは大村さんしか知らない。
会社へ戻る電車の中で、僕はずっとそのことを考えていた。
大村さんは、何を思って、あんなふうに人を助け続けてきたんだろう。
どうして、あんなにも与えることには慣れているのに、受け取ることだけは下手なんだろう。
答えはわからなかった。
けれど、あの静かな善意の積み重ねが、ふと、祈りみたいなものに思えた。
誰かのために何かをすることでしか、自分をここに置いておけない人の祈りだ。
そのとき初めて、僕は少し怖くなった。
このまま定年を迎えたら、大村さんは本当に、誰にも見送られないまま消えてしまう気がした。
それが嫌だった。
どうしても、嫌だった。
僕は、大村さんに感謝している人たちに声をかけた。
総務の古株の女性も力を貸してくれて、すでに退職していた人たちにも連絡が届いた。
驚くほど多くの人が集まってくれた。
大村さんが退職する日の朝。
大村さんは、いつも通りの時間に出社していた。
玄関を掃除して、備品を整え、コーヒーメーカーの水を替え、コピー機に紙を補充し、給湯室に茶菓子を置く。
いつもと何ひとつ変わらない手順で、最後の日の朝を片づけていく。
それからロッカーの中の少ない私物を紙袋にまとめて、誰にも気づかれないように会社を出ていこうとした。
「待ってください、大村さん!」
僕は廊下の向こうで、その背中を呼び止めた。
振り返った大村さんは、いつものように穏やかに笑った。
「坂上くんは、今日も早いね。どうしたんだい」
「少しだけ、付き合ってください」
半ば強引に、会社の隣のビルの貸会議室まで連れていった。
扉を開けた瞬間、大村さんが足を止めた。
中には、人がいた。
社長も、上司も、同僚も、部下も、もう辞めたはずの人たちまでいた。
みんな少し緊張した顔で、でも確かな気持ちを抱えて立っていた。
最初に口を開いたのは、あのシングルマザーの先輩だった。
「あの日、あのまま帰れなかったら、私はたぶん一生後悔していました。背中を押してくれて、本当にありがとうございました」
次に、以前別部署へ異動した先輩が言った。
「取引先で大きなミスをしたとき、辞表を書くつもりでいました。あの日、一緒に頭を下げてくれたこと、ずっと忘れていません」
給湯室担当の派遣さんが、少し照れくさそうに笑った。
「毎朝、コーヒーが切れてないの、当たり前だと思ってました。でも違ったんですよね。あれに救われてた人、たくさんいたと思います」
ひとつ、またひとつと声が続いた。
大村さんに助けられた日。
かけてもらった短い言葉。
拾ってもらった失敗。
黙って差し出された善意。
大村さんは最初、ただ戸惑っているように見えた。
けれど言葉を受け取っていくうちに、いつもの笑顔が少しずつ崩れていった。
笑っているのに、どこか泣きそうな、初めて見る顔だった。
僕は前に出て、花束を差し出した。
「大村さん。僕は、あなたが何を思って人を助けてきたのか知りません。知ったつもりにもなれません。でも、あなたに助けられた僕たちが、あなたに感謝していることだけは事実です」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
「今まで、本当にありがとうございました」
深く頭を下げた。
しんと静まり返った会議室で、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。
顔を上げると、大村さんは花束を見つめていた。
すぐには受け取らなかった。
受け取ってしまっていいものか迷うように、その指先がわずかに震えていた。
やがて大村さんは、壊れものに触れるみたいに、そっと花束を抱えた。
その瞬間、誰かが泣いた。
たぶん、僕だった。
大村さんの目からも、静かに涙がこぼれた。
それでも、その微笑みはいつもの、誰かを遠ざけるためのものではなかった。
「……ありがとう」
かすれた声で、たったそれだけ言って、
大村さんは花束を胸に抱きしめた。
その花束は、最後まで大村さんの腕の中にあった。
ご拝読いただき、ありがとうございました。
この短編は、バッドエンドに寄りがちな筆者が、それ以外の結末を書こうと頭をひねった作品です。




