エピソード 3ー1
「……橋が、落ちていますね」
辺境と王都を隔てる大河に架けられた石の橋が崩れていた。
事実だけを語ればただそれだけのこと。
だが、一行の脳裏には共通の疑問が浮かんでいた。
(そんな偶然があるのか?)――と。
石橋といえど、崩れることもある。だが、珍しいことに違いはない。行きは問題なかったのに、帰りまでのわずかな期間に石橋が崩れた。
魔導具の不具合が人為的と仮定するならば、橋も落とされたとみるべきだ。
つまり、誰かの謀略に巻き込まれた可能性が浮かび上がる。
真っ先に考えられる黒幕はバルドルだ。
将軍である彼は、軍縮に繋がる結界の魔導具についても否定的な意見を述べていた。彼が戦争継続を願っているのなら、これが彼の策略である可能性は否定できない。
だけど、レナート、ただしくはマギノリア聖王国が関わっていて、この共同開発を失敗させ、その責任をグラニス竜王国に押しつけようとしている、といった可能性も零ではない。
ゆえに、アストリッドはバルドルが首謀者と考えながらも、レナートのことも信じ切れずにいるという疑心暗鬼に陥っていた。
(だけど、これがレナートの謀でないのなら、彼もまた疑心暗鬼に陥っているはずよ)
一番怪しいのがバルドルであることは共通認識だろうと、アストリッドは考えている。だが、レナートから見れば、自分も容疑者の一人に含まれているはずだと理解していた。
つまり、互いが疑心暗鬼に陥っている状況。
なんとか状況を打開しなければと、アストリッドは焦燥感を募らせていた。
だが、二人から最初に疑われているバルドルもまた、同じように考えを巡らせていた。
これが、グラニス竜王国、つまりはアストリッドの工作である可能性。あるいは、軍縮を反対する自分を疎ましく思った、レナートが自分を消そうとしている可能性などを危惧していた。
――そう。
アストリッドもレナートもバルドルも、この件には関わっていない。だが、彼らはそれを知らず、だからこそ三者三様に疑心暗鬼に陥った。
自分以外の二人、どちらかが自分を陥れようとしているののだろう――と。
だが、疑いの比率には偏りがある。
一番怪しいのはバルドルだ。
彼が軍縮に反対して、なのに急に手のひらを返して魔導具の設置に協力的な姿勢を見せた。その直後に発生した、人為的にも見える魔導具の不具合。
その帰り道に橋が落ちたとなれば、第一容疑者となるのは当然だ。
だが、アストリッドもレナートも、互いを容疑者から外すことが出来ないでいた。もしもこれが相手の工作であるのなら、それは戦争再開への一手である可能性が高い。
万が一を考えれば、わずかな可能性でも無視することは出来ない、と。
(落ち着きましょう。まだ誰かの工作だと決まった訳じゃないわ。工作だとしても、今回は牽制だけの可能性もあるし、両方ともが敵という可能性は低いはずよ)
だが、だからこそ、ここで変に騒ぎ立てて、自分が疑われる訳にはいかないと慎重になる。全員がそこまで思い至ったからこそ、場の空気はどこまでも重くなっていた。
そうして誰もが相手の出方をうかがっている状況かで、不意にバルドルが口を開いた。
「たしか、半日ほど下流に向かった場所に小さな橋があるはずです」
「……ふむ。ならばその橋を使うのがよさそうだ」
レナートがバルドルの提案に乗ろうとする。それに気付いた瞬間、アストリッドはたまらず、「お待ちください」と声を上げた。
「アストリッド、なにか意見があるのか?」
レナートとバルドルの視線が集中する。
自分の発言一つで、グラニス竜王国の行く末が左右するかもしれない。そんな緊張感に息が詰まる。だが、アストリッドは拳を握って、その恐怖に抗った。
「レナートは、この橋の崩落が自然によるものだとお考えでしょうか?」
「……そなたは、これが作為的なものだと考えているのか?」
「明確な根拠はありませんが、可能性としては考慮するべきだと考えています」
誰かによる策略ではないかと指摘すると、その場に緊張感が走った。レナートの護衛を務める騎士達が剣の柄に手を伸ばす――寸前、レナートが口を開いた。
「……もしも作為的な現象だとしたら、そなたはどうするべきだと思うのだ?」
「それは……ルートを変えるべきだと提案いたします」
「そなたはこの国の地理に明るくないはずだが?」
なのになぜ、そのような提案が出来るのかという疑念が向けられる。アストリッドは胃が痛くなるようなプレッシャーに晒されながら、それでも口を開いた。
「下流にあるのは小さな橋だとおっしゃいましたね? であるならば、一度にこれだけの人数が渡ることは出来ず、渡河の途中で襲撃を受ける危険があると考えます」
「……なるほど、橋の崩落はルートを誘導するための罠と危惧している訳か」
橋の崩落が人為的なものならば、ターゲットはこの一行の誰かでほぼ間違いない。
であるならば、襲撃の可能性も十分にある。そしてその襲撃ポイントとして、小さい橋を渡る途中というのは十分に考えられる可能性である。
「……となると、上流にある大きな橋に向かうべきか?」
レナートが呟き、アストリッドはその方がいいでしょうと頷いた。その直後、今度はバルドルが「お待ちください」と口を挟む。
「上流の橋は、下流の橋よりも遠くにあります。彼女の言うように橋の崩落が人為的なものならば、時間稼ぎの可能性があるため、遠回りは推奨できません」
「……なるほど。どちらの意見も理にかなっているな」
レナートは思案顔になる。
それを横目に、アストリッドとバルドル、互いの視線が牽制するように交錯した。息が詰まるような緊張感が続くなら、ほどなくレナートは決断を下した。
「下流にある小さな橋を目指す」
その結論に対し、アストリッドは無言で拳を握りしめた。
(レナートがわたくしではなく、バルドル将軍の意見に同調した。つまり、彼はバルドル将軍よりも私を警戒している? あるいは……)
レナートが黒幕、またはバルドルとレナートが同じ目的で動いている可能性。
それはアストリッドにとって最悪の可能性だ。
たとえば、下流の橋の途中で一行を襲撃。それをグラニス竜王国の仕業に見せかけて、責任をグラニス竜王国に押しつけて戦争を再開させる。
あるいは、生きて帰れないかもしれないと、アストリッドは最悪のケースを考えた。
疑心暗鬼に陥る中、一行は下流にある小さな橋を目指して移動を開始する。だが、誰が味方で誰が敵か分からない緊張感の中での移動は神経をすり減らす。
消耗は激しく、一行はほどなくして一回目の休憩に入った。
アストリッドはレナートやバルドルから微妙に距離を取って馬から降り立った。彼女は汗で顔に張り付いた髪を煩わしげに払い除け、持参していた水筒の水を飲む。
そうして馬を休ませていると、そこにタオルを持ったセリーナが近付いてきた。
「アストリッド様、汗をお拭きします」
「ありがとう。でもいまは貴女も休みなさい」
「私は大丈夫ですが……そんなに危ない状況なのですか?」
アストリッドは周囲を軽く見回し、誰にも聞かれていないことを確認して小さく頷く。
「正直、色々と想定外よ」
魔導具の不具合が人為的な可能性は考慮していた。だが、帰りの橋が落とされることまでは想定していなかった。アストリッドは自分の認識の甘さに唇を噛む。
「……いざというときは、貴女だけでも逃げてもらうわ」
バルドルの謀略、あるいはマギノリア聖王国の謀略。
そのいずれにしても、正しい情報を誰かが持ち帰る必要がある。そしてそれは、アストリッドのお付きであるセリーナの役目である。
そう示唆すれば、セリーナはぱちくりと瞬いた。
「え、嫌ですけど」
「そう、それでいいわ――って、は? なんて?」
「アストリッド様を置いて逃げるくらいなら、一緒に死ぬと言ったんです」
「……いやいやいや、貴女そういうキャラじゃないでしょう? どっちかって言うとこう……それって、報酬は弾んでくださるんですよね? とか、そういうタイプでしょう?」
「私のことをなんだと思っているんですか」
「自分の欲望に忠実な侍女よ」
「分かってるじゃないですか」
セリーナがクスリと笑う。
その言葉の意味を、アストリッドはすぐに理解できなかった。だけど一呼吸おいて、自分の欲望に忠実だからこそ、命令を拒否してアストリッドの側に残ると言っているのだと気が付いた。
「気持ちは嬉しいわ。でも、最悪のケースを回避するためにも――」
みなまで言うより早く、アストリッドは口を閉ざした。少し向こう、こちらに歩み寄ってくるレナートの姿が目に入ったからだ。
アストリッドはセリーナを下がらせ、笑顔を浮かべてレナートを迎えた。彼は少し迷った要素を見せた後、「疲れてはいないか?」と口にする。
「お気遣いありがとうございます。ですが心配には及びませんわ」
無難な答えを返しつつ、彼はなにを考えているんだろうかと考えを巡らせる。いつもとは違う、少し息が詰まるような沈黙が続き、ほどなく彼は「すまない」と口にした。
「……なにに対する謝罪でしょうか?」
「さきほどの判断のことだ」
「わたくしはあくまで個人的な見解を述べたまでのこと。選ぶのはレナート王太子殿下です。ですから、貴方がわたくしに謝罪する必要などありませんわ」
王太子殿下と敬称を付けた瞬間、レナートが「怒っているではないか」と呟いた。
「いいえ、怒ってなどいません」
「……それを怒っていると言うんだ」
その指摘に対し、アストリッドはゆるゆると首を横に振る。
レナートは少し困った顔をして、それからアストリッドの両肩を掴んだ。
「とにかく聞いてくれ」
「――っ!?」
至近距離、強い口調で詰め寄られたアストリッドが狼狽える。それを勝機と見たのか、レナートは畳みかけるように続けた。
「アストリッド、俺は決して、そなたの忠告を無視する訳ではない」
「いえ、あの、ちかっ、近いです! 肩を、肩を放してください……っ」
「嫌だ、聞いてくれるまで放さない」
「ふえぇぇっ」
ちょっと強引に詰められたアストリッドがパニックになる。レナートはそんな彼女の耳元で、「だが、襲撃ならば周囲を警戒することで防ぐことも出来ると考えたのだ」と囁いた。
(た、たしかに、狭い橋の方がくっついて歩けますが……っ)
誰もそんなことは言っていない。
だが、斥候を周囲に放ち、安全が確保されてから渡河することは可能だ。ただし、その斥候が伏兵と共犯ならば、偵察などなんの意味も成さない。
――なんて、いまのアストリッドに考える余裕はない。
だから、「心配するな。斥候は俺の護衛からも出す予定だ」と、レナートがバルドルの裏切りも想定していると口にしても、それに気付く余裕はない。
ただ、辛うじて、レナートが自分に弁明していることだけはなんとか理解した。
「レ、レナートは……」
バルドルを疑っているのかと尋ねようとするが、そこに護衛の騎士が近付いてきた。
「レナート王太子殿下、少しよろしいですか?」
護衛の騎士の一人が、レナートに声を掛けた。彼はアストリッドに「すまない、また後で話そう」と離れていった。
それで解放されたアストリッドは大きく息を吐く。
(は、はぁ……心臓に悪いわ。でも……レナートはやはりバルドルのことも疑っているようね)
疑心暗鬼に陥っている。
それは被害者側の思考、犯人のロジックではない。
(もちろん、それを踏まえた演技である可能性も否定はできないけれど……)
そもそも、マギノリア聖王国がこの時点で裏切る可能性は低い。もしも数ヶ月で事足りる時間稼ぎなら、わざわざ講和を成す必要性は低いはずだから。
つまり、戦争の継続を望むバルドルの独断である可能性が高い。であるならば、この後になにかが起こる可能性が高い。そんなふうに考えながら、アストリッドは川の対岸に視線を向ける。
不意に一陣の風が吹き抜けて髪を揺らす。アストリッドが目を細めながら空を見上げれば、王都の空を薄黒い雨雲が覆っていた。




