最終話 君と見る花火は一番キレイ
浴衣の帯をきゅっと締めたとき、ふわっと軽くなった。
鏡に映る私はいつもより少しだけ大人に見える気がした。
階段を降りると、リビングの空気がいつも通り静かで、ママがソファから顔を上げた。
「……瑠奈。もう行くの?」
「うん。みんなと待ち合わせだから」
ママは短く頷いて、視線を浴衣の裾へ落とす。
その仕草だけで私をちゃんと見てくれてるのが伝わった。
「似合っているわよ。気をつけて行ってらっしゃい」
その柔らかい一言で、じんわり温かくなる。
パパは新聞を閉じ、軽く目だけを向けてくる。
「節度を忘れるな」
それだけ。でも、それが家族らしくて。なんだか安心した。
玄関に出ると、外の空気は夏特有の熱気を含んでいて、高揚感が一気に息を吸ったみたいに膨らんだ。
——今日はみんなで祭り。
そして佑磨くんもいる。
下駄の音が少しだけ弾んで聞こえた。
浅草駅のA4出口を上がったところで、3人の浴衣がすぐに目に入った。
赤い椿柄の美桜、紺の金魚柄の紗月、白地に向日葵の梨沙。
光に揺れる髪の色だけで、すぐ誰だか分かった。
「瑠奈〜!こっちこっち!」
梨沙が扇子をひらひらさせながら手を振る。
「3人で浴衣って目立つよね……ちょっと嬉しいけど」
下駄の音を鳴らして近づくと、梨沙は私の浴衣を上から下まで見て、すぐに目を丸くした。
提灯の光が浴衣に落ちて朝顔の青がゆっくり浮かび上がる。
美桜は少し後ろで笑っていて、紗月は金魚柄の袖を直しながら静かにこちらを見ていた。
「ねぇ、瑠奈。その浴衣ガチで綺麗すぎん?浅草に舞い降りた朝顔なんだけど」
「やめてよ……」
「お祭りって感じするよね」
夕方の風がゆっくりと通り抜けて、髪の横をかすめた。
ざわめきの中でも梨沙たちの声が近くで混ざり合い、夏の夜の始まりみたいに胸が少しだけ高鳴った。
人混みの向こうから静かな歩幅で佑磨くんがこちらに向かってきた。
紺の浴衣が薄い風に揺れて、光の反射で肩のあたりが一瞬だけ明るくなった。
いつもの落ち着いた雰囲気のまま歩幅もぶれない。
見つけた瞬間のその静かな存在感にふっと締まる。
「ごめん、待った?」
その声がざわめきの層を静かに切り取って届いた。
人ごみの音の中のはずなのにその声だけが澄んでいた。
「今来たところだよ」
梨沙が軽く肩をすくめる。
提灯の赤が揺れて、梨沙の髪に小さく反射した。
佑磨くんが一瞬だけ私を見る。
ほんの一秒の静かな間。
花火の音がまだ遠いのに、その前触れみたいに少しだけ跳ねた。
浴衣の袖が風で触れて、指先まで熱が伝わる。
「……浴衣似合ってる」
小さく落とした声なのに、周りの騒がしさをすっと越えて、真っ直ぐ落ちてきた。
「ありがとう……」
視線が一度だけ揺れた。
この空気の中で梨沙たちの存在が背中をそっと支えてくれているように感じた。
「さ、行こ行こ!屋台すぐ混むから!」
隅田川沿いは人であふれていて、浴衣姿の男女や家族連れが行き交っていた。
屋台の提灯がオレンジ色に灯り、焼きそばのソースの匂いや甘いりんご飴の香りが風に混ざる。
私の横を佑磨くんが歩く。二人並ぶたび自然と周りの視線を集めてしまうのが少し恥ずかしい。
浴衣の裾が流れていく人の気配でそっと揺れた。
「人多いね〜!迷子にならないようにね」
美桜は涼しげに髪をかき上げ、紗月は金魚柄の袖を直しながら帰路の人波をちらりと見ていた。
「浅草って毎年来てるけど、今日ほんと多いよね」
「風通らないし、暑すぎ……」
提灯の明かりが三人の髪にあたって、色がゆっくりにじむ。
「はいはい。写真撮ろ、写真!」
「ちょっと恥ずかしい……でも、ありがと」
「せっかだから記念にしよ。ほら、こっち」
梨沙がスマホを構える。
光がふっと広がって、周囲の喧騒が一瞬だけ薄くなった。
佑磨くんの肩がそっと触れて、その距離だけがやけに静かだった。
「ほらー、くっついてくっついて!」
「はい、笑って〜!」
「カップルだけでイチャイチャしない!」
「な!!紗月!からかわないでよ!」
背中を軽く押され、私は佑磨くんの方へ半歩寄った。
浴衣同士の布が小さく触れた。
「瑠奈と是枝くんはこっち!私たちが撮ってあげるから」
「じゃ、ちょっと行こっか」
「うん」
梨沙たちの声が遠くに混じって、人の流れと一緒にゆらゆら揺れていく。
歩き出すと、夕暮れ前の光が二人の影を細く伸ばした。
「戻ってきたら屋台行こー!りんご飴買お!」
「焼きそばも絶対食べたい!」
「じゃ、二人は楽しんできな!」
屋台通りはさらに熱気が強かった。ソース、甘い飴、たこ焼きの香り。
色とりどりの提灯が風もないのにわずかに揺れて見えた。
美桜がブルーハワイのかき氷を掲げる。
「かき氷食べよ!ほらブルーハワイといちご。どっちがいい?」
「私はレモン〜」
「じゃ、私メロンにする」
「……俺はいちご。瑠奈は?」
佑磨くんの視線が私をとらえる。
周囲のざわめきより、その視線の温度の方がはっきり伝わった。
「えっ、じゃあ私もいちご。……一口ちょうだい?」
「最初から二つに分ければいいだろ」
佑磨くんが笑って、少しだけ跳ねる。
梨沙がすぐ横から突っ込んでくる。
「ねぇねぇ、二人だけなんか初々しいんだけど〜」
「かき氷より甘い空気出してるし!」
「やめてよ〜!」
金魚すくいの前で足を止めた。
水面の揺れが光を砕いて、金魚の赤だけがくっきり跳ねる。
「絶対取れないんだけど!これ難しくない?」
「瑠奈、貸して。……ほら」
佑磨くんが一匹掬う。
その静かな手つきが周りのざわめきごと金魚を包んでいるみたいで、すっと熱を帯びた。
「え、すご……!」
「はいはい、ヒーロー登場〜」
夕暮れが近づく。
川面が薄くオレンジ色に染まり、提灯の灯りがゆっくり強くなっていく。
浴衣の袖がひと揺れして、夜の気配がやわらかく混じった。
「もうすぐ花火始まるね!」
梨沙が空を見上げる。
紗月がぽつりと提案する。
「人多いし、二人だけで見たほうがいいんじゃない?」
「そうそう、こっちはこっちで場所取っとくから〜」
「え、いいの?」
私が聞くと、梨沙が笑って首を振る。
「いいのいいの!せっかくだし思い出にしなって!」
「……ありがとう。じゃ、少し離れよっか」
「……うん」
人波を抜けると、急に空気が静かになった。
夜風が浴衣の裾をそっと揺らす。
遠くのざわめきが薄まり、川面の匂いがふわっと混ざった。
「……やっと落ち着いたね」
佑磨くんが息を吐きながら、小さく笑う。
「うん。ここ少し涼しい……」
「さっきから浴衣で歩くの大変そうだもんな」
「見てたの?」
「うん。気づかれないように見てた」
どん、と大きな音がして花火が夜空に咲いた。
光が広がるたび、佑磨くんの横顔が淡い色に照らされる。
その一瞬一瞬が静かに沈んでいく。
「……きれい。ほんとに」
「分かる。でも……」
「でも?」
「花火より瑠奈の方が綺麗」
思わず息を止めてしまうほど、迷いのない声だった。
「ほんと急にそういうこと言うよね……」
「急じゃないよ。最初から思ってる」
「……佑磨くんずるいよ」
胸が甘く痺れた。
別の花火が弾ける光の中で、私はそっと佑磨くんの手を握った。
指先が触れた瞬間、佑磨くんがかすかに息をのんで、すぐに握り返してくれた。
「……瑠奈の手冷たい」
「緊張してるの……たぶん」
「俺のせい?」
「わかんない。でも……佑磨くんといるといろんな意味で緊張する」
佑磨くんが小さく笑う。
「俺は瑠奈が隣にいると落ち着くよ。……でも、同時にすごくドキドキする」
言葉が花火の音より深く胸に響いた。
「来年も……また来ようね。今度は2人きりで」
「来年も?」
「うん。……その先も」
「約束な。それにしてもまだ瑠奈を帰らせたくない」
「……私も佑磨くんともっと一緒にいたい」
「じゃあさ瑠奈」
「うん?」
「もう少し一緒にいよう」
一歩近づくと、浴衣の袖が触れて、体温がそっと重なった。
次の大きな花火が咲いた瞬間、佑磨くんが私の頬に指を添えた。
優しくて、ためらいのない触れ方だった。
「……瑠奈」
「なに?」
「……こっち向いて」
その言い方がやけに静かで、きゅっと震えた。
ゆっくり顔を向けると、夜空で花火が咲いて光がふわっと広がる。
その光の中で佑磨くんの表情がほんの少しだけ近くに感じた。
「瑠奈」
もう一度呼ばれた瞬間、胸がやわらかくほどけていくのが分かった。
目が合って。
私はそっと目を閉じた。
次の花火が咲く光の中で。
――唇が触れた瞬間。
世界の音が遠く聞こえる。
彼の体温はとても温かく、柔らかくて。
心臓の音だけがドクンドクンと大きく響いて、頭の中が幸せに包まれていく。
唇が離れたあと、佑磨くんが少し照れたように笑う。
光が横顔をかすかに照らして、彼の笑顔が胸の深いところまで落ちていった。
なんだかそれが名残惜しくて、もう一度、佑磨くんの体温を感じたくなる。
「……ずっとこうしたかった」
「……うん。私も」
「恥ずかしがる瑠奈がかわいい」
「……うるさい。ばか」
胸が甘く苦しくなるほどときめいて、私は小さくうなずいた。
「……でも佑磨くんのこと誰よりも大好き」
小さくこぼれたその言葉が夜の空気に溶けて、花火の余韻みたいに静かに広がっていった。
「やっぱ夏祭り最高だね」
「来年も全員で来よ」
「来年は誰が一番カップル感出してるか勝負しよ〜」
「え、やだ〜!」
私は顔を覆ってしまう。
梨沙が少し優しい声で言う。
「前よりちょっと大人になったね」
「なんか嬉しいよね」
「……ありがと。みんなとまた来れてよかったし……。佑磨くんと来れたのも、ほんとに嬉しい」
提灯の赤がゆっくり揺れて、みんなの表情が柔らかく照らされる。
花火の音が消えたあとの静けさが未だに唇に残ってる熱をそっと落ち着かせてくれた。
夜風が火照った頬を冷ましてくれる。
佑磨くんの隣を歩きながら、私はこっそり何度も笑ってしまう。
梨沙たちもそれを見て安心したように微笑んでいた。
最終章ー完ー
本日で本編は完結となります。
エピローグは今日の夜20時に投稿します。
ここまで読んでくださった方、途中から追いかけてくれた方、静かに見守ってくれていた方も本当にありがとうございました。
最後まで瑠奈の物語にお付き合いいただけたら嬉しいです。




