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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
最終章 赦しと再生
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第7話 あんたばっかりウザかった

 蝉の声がまだ朝なのにもう昼みたいな熱を連れていた。

 昇降口の金属のにおいがふと鼻をかすめて、じわりと重たくなる。


 靴箱を開けた瞬間、背後に気配が落ちる。

 あの独特の冷えた空気。


「ねぇ、教えとこっか。あんたの噂を流したの全部あたし。ついでに使えそうなのを一人巻き込んだだけ。……落ちるとこまで落ちてくれて、ほんと気分いいわ。ざまぁだね?」


 刺すような言葉なのに、前みたいに心臓が跳ねなかった。

 ただ蝉の声に溶けていくみたいに聞こえた。

 ひっそり沈んでいた影がそっと揺れるだけだった。


「……うん、わかってた。ずっと私のこと嫌ってたよね」


 言い返すんじゃなくて、ただ事実をなぞっただけ。自分でも不思議なくらい声が揺れなかった。

 冬の終わりにやっと触れられた痛みをそのまま手のひらに乗せているような静けさがあった。


 柚菜の目が一瞬だけ細くなる。


「あんたがクラスの中心にいるのマジでムカついてた。先生にも好かれて、友達にも囲まれてあんたばっかり」


 その言葉が刺さったころの私はきっとこの場で泣くか逃げるかしてたはず。

 あの頃の私は誰かのひとことに世界の色を奪われていた。


「……でもね、何もかも失って気付いた。

 あの場所はただ与えられてたんじゃなくて、みんなに支えられてたんだって」


 言葉が静かに浮かんでくる。

 ずっと言えなかった気持ちが、やっと形になって滲み出たみたいだった。


 柚菜は舌打ちみたいに息を吐く。


「……ふーん。あんたがそう思うなら勝手にすれば?」

「うん。もう柚菜の言葉で揺れない。私もう前に進むから」


 少しだけ熱くなる。

 柚菜が踵を返して去っていく足音も前よりずっと遠く感じた。

 背中が視界から消えていくのを見送りながら、影がすこし薄くなるのを感じた。


 深呼吸をひとつ。

 金属の温度と蝉時雨が溶け合って、朝の光が靴箱の内側に細く差し込む。


 痛みはまだある。

 でも飲み込める程度の痛みだった。

 その痛みさえ、もう自分の中に置いておける気がした。


 昼休みのざわめきが少し落ち着いてきて、教室の空気がゆるく沈んでいく時間帯だった。

 私たちの机は自然とくっついて、四角い小さな島を作っている。


 食べ終わった弁当箱を畳んでいると、紗月がじっと私を覗き込んできた。


「……瑠奈、朝ちょっと顔違ったけど?」


 その言い方は相変わらずストレートで。

 でもどこか心配が混ざっていて、少しだけ揺れる。


 梨沙がそれを横目で見て、深く追及しない代わりのように静かに笑った。


「まあ……瑠奈のペースで話してくれればいいよ」


 その言葉に肩の力が少し抜けた。

 美桜はペットボトルのお茶をくるくる回しながら、やわらかい声を落とす。


「……無理してる感じじゃないけど、ちょっとだけ考えごとしてるって顔かなって」


 隣に座る佑磨くんが静かにこっちを見た。

 その視線がほんの少し触れただけで、朝の余韻のざらつきがふっと和らいでいく。


「……うん」


 正直に言葉にすると、思ったより自然に声が出た。

 胸の奥に沈んでいた何かが、少しずつ形を変える。


「言いたくなかったら言わなくていいけど……なんかあった?朝」


 私は深呼吸をひとつして、机の端に視線を落とした。

 光がゆっくり指先に触れて、影が細く伸びる。


「……朝に考えることがあって」

「そっか」


 美桜は一瞬まつ毛を伏せて、小さく息を呑む。

 その仕草が静かな波みたいに胸に広がった。

 机の上にこぼれた光の粒が揺れる影の中でゆっくり溶けていく。


「……今日の放課後、佐伯くんと屋上で話すの」


 カバンの中のスマホを思い出すだけで、あの約束の文字が胸の奥でひっそり光る。

 触れてないのに温度だけ残るみたいに。


「佐伯と話すの?」

「うん。ちゃんと向き合いたいから」

「……屋上で?」

「うん」

「そっか。場所が屋上って、なんか……覚悟してるって感じする」


 梨沙の声は軽いけど、芯のところではちゃんと心配してくれていた。


 言葉にすると、少しだけ震えた。

 でもその震えを隠さなくても、三人の前では平気だった。

 この距離なら揺れた声も受け止めてもらえるって分かってた。


「……それならいいと思う。逃げたくないって思うなら」

「瑠奈が決めたなら、大丈夫だよ。帰ってくる場所は……ちゃんとここにあるから」

「うん。帰りのホームルームで顔見せてね。先には帰らせないから」

「ありがと」


 それぞれの言葉がやわらかく落ちて、気づかないうちに喉が熱くなる。

 昼休みの光が少し揺れて見えた。


 佑磨くんは私の横でずっと黙って聞いていた。

 でも、黙っていたのは無関心じゃないって分かる沈黙だった。

 必要以上に踏み込まないのに、ちゃんとそばにいる。


「……行くんだろ?」

「うん」

「そっか」

「緊張してる?」

「……ちょっと」

「大丈夫。瑠奈なら言えるよ」


 佑磨くんは手元のカップを指先で転がしながら、私のほうをまっすぐ見た。

 その目は何かを押しつけるんじゃなくて、ただ信じてるって色をしてた。


「終わったら……ちゃんと戻ってこいよ」

「うん。戻るよ」

「……そっか。なら安心」


 その言葉の温度がじんわり沁みて、息がひとつだけうまく吸えなかった。

 鼓動の音が自分の耳にまで届く。


「……うん」


 それだけ返すと梨沙たちがふわっと笑う。

 からかい半分。でも本気のやさしさ半分。


「はいはい、カップルの空気になってきた〜」

「ほんと甘い。聞いてるこっちが照れる」

「でも……いいね、そういうの。安心する」

「ね。瑠奈、ちゃんと戻ってくるって言ったし」


 三人の声が重なって、教室の昼下がりがやさしい光に満たされていく。

 ざわめきも遠くなって、ここだけ温度が少し高い。


 その真ん中で私は行かなきゃいけない場所と帰ってくる場所。

 その両方をちゃんと胸に抱いていた。

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