第3話 もう逃げない
ご飯を食べ終えたあと、静かな時間が流れた。
テレビもついていない。箸を置く音だけが最後の余韻のように響く。
私はその沈黙を切り裂くように言った。
「……話がしたい」
ママがわずかに眉を上げ、パパがゆっくりと腕を組む。
お姉ちゃんは口元をぬぐいながら、何も言わずにこちらを見た。
その瞬間、リビングの空気が一気に張りつめていく。
冷えた湖面のような静けさ。
照明の白が反射して、テーブルの上のグラスが硬質な影を落とした。
パパは腕を組み、ママはまっすぐに私を見据え、お姉ちゃんはソファに浅く腰掛けている。
三人の視線が同時に私を射抜く。
背筋にじっとりと汗が滲むのを感じた。
「分かった。話は聞こう」
喉がからからに渇く。
息を吸うたびにぎゅっと縮む。
震える指先を両膝に押しつけて、どうにか呼吸を整える。
声を出そうとすると痛んだ。
ここで言わなければ、きっと何も変わらない。
逃げてきた時間を終わらせなきゃいけない。
私はゆっくりと口を開いた。
「……遥斗くんと夏休みから何度も会ってました。
もう終わったけど、あの頃は自分でもどうしていいかわからなくて……。
連絡もあまり取れなくなって、ひとりでいる時間が増えて……。
気づいたら、怖くても止められなくなってた。全部私のせいです。本当に……ごめんなさい」
言葉を吐き出した瞬間、氷が砕けるような音がした。
それでも――。
今はこれ以上誰も傷つけたくなかった。
ママの目が細くなり、吐息が小さくこぼれる。
照明の白がママの横顔を照らして、頬の影を深くした。
「……そんなことをよく口にできるわね。どれだけ恥をかかせたと思ってるの?」
「……ごめんなさい。怖いけど言わないと、ずっと嘘のままになるから。ちゃんと向き合いたかった」
「言い訳はいいの。反省してるなら、まず態度で見せなさい」
「うん……。わかってる」
「何でそんなことしたの?頭の中で一度でもバレないって思ったの?」
「……思ってた。思ってたけど……そんなことよりも寂しさを紛らわせたかった」
ママがわずかに息を詰める。
時計の秒針が静かな部屋に規則的な音を刻んでいた。
パパは目を閉じ、深く考え込むように唇を結んでいる。
「同じことは二度とするな。次やったら……絶縁だ」
低く響く声に心臓が跳ねた。
でも、不思議と怖くはなかった。
その言葉の奥にまだ見放されていない温度があったから。
「……二度と同じことはしない」
「……ほんとに心配ばかりさせる子ね」
ママが小さく息を吐く。
パパは静かに腕を組み直した。
「反省してるなら、それでいい」
お姉ちゃんがそのやり取りを見ながら、小さく息を吐いた。
「ねぇ、もうその辺でよくない?泣きそうじゃん」
「泣いてないし……」
「泣いてるよ。めっちゃ目赤い」
お姉ちゃんがソファの横からティッシュの箱を取って、私の方に差し出す。
「はい、これ」
「……ありがと」
箱を受け取ると、紙の角が指先に当たって少し痛かった。
鼻をすする音がやけに大きく響く。
ママがふっと口元をゆるめ、パパも小さく息を吐いた。
その音が合図みたいに部屋の空気が少しずつ緩んでいく。
照明の白がさっきより少しだけ柔らかく見えた。
少し間をおいて、私は再び口を開く。
ずっと心の中で溜まっていたものをやっと言葉にできそうな気がした。
「……お姉ちゃんのことずっと比べられてる気がしてた。
綺麗でなんでもできて。
私は全然届かなくて、それが苦しくて……逃げたくなってた。
でもほんとはただ羨ましかっただけ。ごめん」
お姉ちゃんの目が一瞬揺れた。
驚いたようで、それでもどこか優しい表情になっていく。
「……そんなふうに思ってたんだ」
「うん。言えなかった。私がもっと惨めになる気がして」
「バカだなぁ。そんなの気にしなくていいのに」
「でも、そう思えなかったの。お姉ちゃんが完璧すぎて」
「完璧なんかじゃないよ。……隠すのが上手なだけ」
お姉ちゃんが少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、じんと温かくなった。
ママの声が少し柔らかくなる。
「……そう思っていたなら、行動で見せなさい。反省してるなら結果で返すこと」
「うん。学校も真面目に行くし、成績も落とさない。ちゃんとやるから」
「……ほんとに大丈夫?」
「大丈夫。もう逃げない」
そのとき、パパが静かに腕を組み直した。
「言葉は簡単に言える。問題はこれからだ」
「……わかってる」
「約束を破ったら、次は言い訳は聞かない。家のことも学校のことも自分で責任を取れ」
低い声が部屋に落ちる。
怒鳴り声じゃないのに、空気が一瞬止まった。
「……うん。約束する」
パパは短くうなずき、視線をテーブルに落とす。
その横顔にわずかな安堵が浮かんだ気がした。
お姉ちゃんがふっと笑う。
「これでやっと家族でまともにご飯食べられるね」
「……そうね。今夜はみんなで一緒に食べましょう。せっかく久しぶりなんだし」
「え、また?もう食べたのに」
「デザートよ。冷蔵庫にケーキが残ってたはず」
「……それならいいかも」
パパが腕を組んだまま小さくうなずく。
「……食後の時間くらいはゆっくりしてもいいだろう」
お姉ちゃんが私の方を見て、軽く笑った。
「泣きすぎ。もう涙止めなよ」
「止めてるってば」
「嘘。目真っ赤」
「うるさいな……」
そのやり取りにママが小さく笑った。
テーブルの上のグラスが、照明の白を受けて小さく揺れた。
その揺れがいつの間にか優しい光に見えた。
「もう心配させないでね」
「……うん。もうしない」
ずっと張りつめていた糸が切れて、肩が静かに下りる。
床に落ちた涙の雫が灯りを反射して小さく光った。
冷たいはずのそれが、今度は少しだけ温かかった。
――完全には許されていない。
けれど、もう突き放されるだけの距離じゃない。
私はそのことがただ嬉しかった。




