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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
最終章 赦しと再生
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第2話 梨沙たちと仲直りしたい

 放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気がいっせいに解けた。

 椅子を引く音や笑い声や窓の外から射す夕方の光。

 その全部が少しだけ遠くに感じられた。


 私は立ち上がりながら、きゅっと詰まるのを感じた。

 机の上に置いた手がうっすらと汗ばんでいた。


「ねえ……この後、話がしたい」


 一瞬、空気が止まった。

 梨沙が顔を上げる。その目が刺すようにまっすぐだった。


「……何?今さら話すことなんてあった?」


 紗月が机に手をついて、視線を逸らさないまま言う。


「あたしたちに瑠奈と話すことなんかないし、美桜、梨沙……帰ろ」


 美桜は少し眉をひそめる。

 その目に一瞬だけ、ためらいの光が揺れた。


 梨沙がため息をつき、視線を私に戻す。


「……いいよ。行くよ」

「ちょっと!!ほんき?」

「うん。瑠奈とこのままってわけにもいかないでしょ」

「……確かにそうだね」


 その沈黙が冷たい風みたいに通り過ぎていった。


 返ってきたその短い言葉にきゅっと締め付けられた。

 それだけの返事なのに、涙が出そうになる。

 心臓の鼓動が誰かに聞かれるんじゃないかと思うほどうるさかった。


「……ありがと」


 表参道の通りは夕方の光がゆっくりと色を変えていた。

 ガラスに映る人の影、行き交う靴の音、焼き立てのパンの香り。

 そのどれもが現実で、でも少し夢みたいだった。


 Café Lumièreのドアを押すと、鈴の音が小さく鳴った。

 冷房の風と一緒に深煎りのコーヒーの香りが流れ込む。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から葛城くんの少し低めの声が聞こえた。

 その響きがコーヒーの香りに混ざって、ゆっくりと空気に溶けていく。


 ミルがまわる音。

 壁のランプの光がテーブルに淡い金色の輪を落としていた。


 窓際の席に並んで座る。

 グラスの中で氷がカランと鳴って、ゆっくりと水滴が落ちていく。

 私の指先にもその冷たさが伝わった。


 梨沙は腕を組んで、少しだけ横を向いていた。

 紗月は視線を落としたまま、指でストローの先をいじっている。

 美桜はストローをくるくると回しながら、何か言いかけてはやめた。


 沈黙がゆっくりとテーブルの上に積もっていく。

 呼吸が浅くなって、言葉がうまく出てこない。


「……みんな本当にごめん」


 声を出した瞬間、空気が少し揺れた。

 目の前のグラスが光を弾いて小さくきらめいた。


「あのときはひどいことをみんなに言った。本当にごめん。

 最初に梨沙たちを裏切ったのは私の方なのに勝手に開き直って。梨沙たちを傷つけて……。絶縁されても仕方なかったってずっと後悔してる」


 梨沙は腕を組んだまま、ゆっくりと息を吐いた。

 視線はテーブルの上。

 その目が一度だけ私を射抜いた。


「……そう言われても。正直、ほんとに悪いって思ってるの?って思っちゃう。今もどこかで自分だけがかわいそうって思ってる顔してるでしょ」


 否定したかったけど、言葉が出なかった。

 その言葉のどこかに自分でも触れたくない部分があった。


 紗月が小さくうなずいた。


「うん。なんか……そのどっちも感じなかったから、余計に瑠奈のことが怖かった」


 あのとき、自分でも何を感じていたのか覚えていない。


 美桜はグラスの縁を指でなぞった。

 氷が小さく揺れて、かすかな音を立てる。


「……でも、ちゃんと話そうって言ってくれたのは正直ほっとした。逃げたまま終わっちゃうのかなって思ってたから」


 その声がほんの少しだけ空気をやわらげた。

 けれど、痛みはまだ引かない。

 私は息を整えるように、グラスの水面を見つめた。


「それで……その浮気相手って、どんな人なの?」


 私はストローの先に視線を落としたまま、唇の奥が乾いていく。


「……遥斗くんとは莉子に誘われたパーティで知り合ったの。最初はただ話を聞いてもらってただけで。でも、気づいたら……佐伯くんと過ごすより遥斗くんと過ごしてる方が幸せに思えてきて、一線を越えた」


 グラスの中の氷がまたカランと鳴る。

 その音がやけに冷たく響いた。


「……いつから?そんなふうに思ってたの」

「去年の夏くらい……」

「じゃあその間ずっと、佐伯くんのこと好きって言ってたのも――」


 言葉の途中で、梨沙は唇を噛んだ。

 続きは飲み込まれて、テーブルの上で氷の音だけが響き、紗月が小さく息をのむ。


「……ほんとにあり得ない。あたしらに謝るよりさ、佐伯くんにちゃんと謝った?」

「……言ったよ。ちゃんと謝った。でも、もう聞いてもらえなかった。当たり前だよね。あんなことしたんだから」


 一瞬、言葉が空気の中で沈んだ。

 グラスの氷が小さく鳴って、その音だけが残る。

 梨沙は何かを言いかけて、視線を落とした。


「瑠奈って佐伯くんに対してほんとに悪いと思ってるの?」

「……うん、思ってる」


 紗月が机を指先で叩いた。


「その割にはなんというか瑠奈の気持ちが伝わらない」

「……」


 梨沙が小さくため息をついた。


「……瑠奈は佐伯くんに罪悪感とかなかったの?そしてなんでそのことを私たちに相談してくれなかったのかなって思うと寂しい」


 沈黙が落ちる。

 氷の音も止まって、空気がぴんと張りつめた。

 視界の端が少し滲んで喉が熱くなる。


「……あのときは罪悪感とか考える余裕もなかった。ただ誰かに見てほしくて。誰かに必要とされてるって思えたら、寂しさも紛らわせれるかなって。

 でもそれもただの思い込みで……気づいたときにはみんなに相談できなくなってて。ほんとに……ごめんなさい」


 言葉が途中で震えて、グラスの中の氷がひとつ音を立てて割れた。


「うん、もういいよ」

「それでその人とはもう関係は切ったの?」

「……うん、もう関係は終わった。SNSで全部流出して、自分がした行いが最低だったことにやっと気づいた」


 涙が一気にあふれた。

 止めようとしても止まらなかった。

 視界が滲んで、テーブルの輪郭がぼやけていく。


「……もう一度だけ梨沙たちと仲直りしたい」


 声が掠れて、自分でも聞き取れないほど小さかった。

 口にした瞬間、痛んだ。

 それでもどうしても梨沙たちに伝えたかった。


 しばらく誰も何も言わなかった。

 氷が溶ける音だけが、ゆっくりとテーブルの上を流れていく。

 息をするたびに胸の奥がひりついた。


 梨沙がそっとテーブルに手を置いた。

 その指先がわたしの方へ少しだけ伸びる。


「……ほんとにバカだよね、あんた。私たちに何も言わずに全部抱え込んで、勝手に壊れて。……なんかもう怒る気力もなくなった」


 少し笑うように。でも目の奥は濡れていた。


「私も瑠奈のこと一番分かってるって思ってた。けど結局、全然分かってなかったんだなって思った」


 その言葉が静かに落ちた。

 何かが溶ける音がした気がした。


 でも指先が触れた瞬間、どこか現実じゃないみたいに感じた。

 赦されることよりも赦されているという事実の方が怖かった。


 それでも手を離せなかった。

 指先から伝わる体温が、冷たい部分を少しずつ溶かしていく。

 じんわり熱を帯びて、呼吸が浅くなった。


「まだちょっとモヤモヤするけどね。でも……やっぱり瑠奈がいないと、つまんないんだよ」


 紗月の声は少し笑っているようで、泣いているようでもあった。

 手の温度が伝わって、涙がまたこみ上げた。

 温かい。


 人の手ってこんなにも温かかったんだ。

 その温度に心が少し遅れて震えた。


「まだあの時のことを許すわけじゃないけど、次からは何かあったらちゃんと相談してよね。もう勝手に突っ走らないで」

「次また似たようなことがあったら、怒るからね。そして早く佐伯くんには謝ること。謝って済む話でもないと思うけど」

「……うん。約束する」


 声が震えた。

 三人の言葉が重なって、痛いほど響いた。

 赦しじゃなくて、まだ確かめ合っている途中の音。

 それでもその響きが少しずつ温かくなっていくのを感じた。


 氷が溶けて、グラスの中の音が静かになる。

 カフェの照明が少し落ちて、窓の外に夕焼けが滲んでいた。

 淡い金色の光がみんなの頬を照らしていた。


 沈黙の中で、誰かの小さな笑い声がこぼれた。

 その音に釣られるように、空気が少しだけ柔らかくなる。


「……もう仲直りしたし、暗い話は終わりにしよ?」


 紗月がストローを回しながら言う。


「そうそう。せっかくだし、次は明るい話しよ」


 美桜が頬杖をついて笑う。


「え、明るい話って何よ」


 梨沙が少し呆れたように言って、

 その顔を見て三人ともつい笑ってしまった。


 笑うたびに少しだけ涙の跡が乾いていく。

 その笑いはまだ弱々しかったけれど、確かに前に進もうとしている音だった。


「ねえ、そういえば期末テストの結果どうだった?」

「やめて。地雷踏むの早すぎ」

「ほらーやっぱり。梨沙、また数学で先生に呼び出されたでしょ?」

「うるさい。あんた英語の追試組でしょ?」

「え、紗月も?!」

「だってリスニングで寝てたんだもん」

「開き直るなって!」


 美桜が笑いながらストローをくるくる回した。


「ねえ、それより次の週末どこ行く? 久しぶりに四人で出かけよ」

「いいね。でもまた遅刻したら置いてくから」

「それ絶対私のこと言ってるよね!?」

「当たり前でしょ」

「遅刻したことないし!!」

「うそつけ、あの時だって——」

「それは道が混んでただけ!」


 笑い声が重なって、グラスの氷がまた小さく鳴った。

 その音が泣き声の名残をやわらかく溶かしていく。テーブルの上にこぼれた光が少しずつ丸く広がっていった。


「じゃあ、また明日」


 梨沙が手を振る。

 その仕草がまるで時間を巻き戻したみたいに前と同じだった。

 でも、どこか違って見えた。

 あの頃より少しだけ、光がやわらかい。


「瑠奈泣きすぎ」

「明日はアイス奢ってね」


 その声が夕暮れの風に混ざって遠くへ溶けていった。


 私は涙を拭いて、頷いた。

 微かな光が残っていた。

 それは赦しの光というよりやっと自分を赦せそうな予感だった。


 信号が変わる音がして、街のざわめきがゆっくりと夜の色に溶けていく。

 通り沿いのカフェの灯りが、背中を押すように優しく揺れていた。


 歩道の隅に咲いた小さな白い花が、風に揺れていた。

 夕暮れの光を透かして、その白さが少しだけ金色に見えた。


 私は深く息を吸った。

 その息の中に、コーヒーの香りと涙の匂いが混ざっていた。

 それは痛みの名残でもあり、まだ終わらない物語の続きのようでもあった。


 そしてようやく思えた。

 ――もう一度、ちゃんと生きていけるかもしれない。

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