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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
最終章 赦しと再生
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第1話 教室復帰

 カーテンの隙間から射す光が白すぎて、少しだけ目に刺さる。

 止まっていた時間がゆっくりと。いや、軋むように動き出した朝。


 鏡の前で髪を整えながら、指先が少し震えていた。

 昨日よりもまっすぐに立っているのに、どこかで心が遅れていた。

 ドライヤーの音も制服の擦れる音も遠くで響いては途切れる。

 現実の輪郭だけが先に戻ってきて、心が追いつけない。


 鏡の中の自分は昨日とほとんど変わらない顔をしていた。

 でも、視線の光だけが少し違う。

 眠れない夜を抜けたあとの浅い呼吸のまま。


 玄関のドアを開けたとき、空気が胸に突き刺さる。

 七月の朝なのに、ひんやりとした匂いがした。昨日よりも淡く、どこか他人の家の空みたいに見えた。


 もう逃げないって決めたのに、足はまだ怯えている。

 それでも一歩を出るたびに、靴底が確かに音を返す。

 その音だけが私が今日もここにいる証のようだった。


 電車を降りた瞬間、空気の粒が刺さった。

 ホームに響く声の中で、私の名前が誰かの笑い声の端に混ざっていた。


「ねえ、LIMEでまだ回ってんの見た?」

「え、あれもう消えたんじゃないの?」

「スクショあるし。消えないでしょ。そういうのって」


 ひとりの笑い声に、もうひとつの笑いが重なった。

 金属みたいな高い音で。


 改札を抜けると、代官山の坂がまぶしかった。

 光が白すぎて、視界の輪郭が溶ける。

 通学路を歩く生徒たちの声。

 その中に断片的な言葉が漂っている。


「……かわいそうって言ってもね」

「自業自得でしょ」

「ほんとによく戻ってこれるよね」

「ね、神経を疑うよ」


 風が吹いて、その言葉を散らした。

 でも耳だけは拾って離さない。

 世界のどこを見ても、空気の密度が均等に重い。


 私はスマホを取り出した。

 通知の光が点いていたけど、見るのが怖くて、すぐに画面を伏せた。

 光の反射が頬を掠める。

 痛いほど冷たかった。


 校門が見えた瞬間、喉がひゅっと鳴った。昨日の夜の静けさが一瞬だけざわつく。


 櫻庭高等学校と書いてある看板が朝の光に溶けて滲む。

 誰かが「見た?昨日のLIMEのやつ」って言った。

 笑い声が短く乾いていた。


 私の靴音がそれに重なる。

 同じリズムで鳴っているのに、まるで別の世界の音みたいだった。


 昇降口に近づくほど、声が濃くなる。

 香水の甘さと制服の糊の匂いが入り混じって、喉が詰まりそうになる。

 誰かの足音が背中をかすめた。


「ねえ、あの子本人じゃない?」

「うそ。マジで?こわ……」

「噂では中学の時にいじめてたとか、パパ活してるとかあるらしいよ」

「へー、やば」

「女子の闇だよね、ほんと」


 囁きが皮膚の裏に刺さる。

 振り返ることも目を閉じることもできなかった。


 ただ前を向く。まっすぐに。

 そのまっすぐがいちばん難しくて、挫けそうになる。


 校舎に入ると、湿ったチョークの匂いがした。

 冷房の風が頬を撫でるたびに感覚が薄れていく。

 階段を上るたびに心臓の音が足音とずれていった。


 二年三組のプレートが見えたとき、息が詰まった。

 胸の内側で心臓の音がひとつ強く跳ねた。

 昨日よりも音が遠い。でも現実は確かにここにある。


 扉の前で立ち止まる。

 中から聞こえる声はどれも知っているものばかり。

 でも今の私には知らない音のようだった。

 笑い声が壁の向こうで細く途切れた。

 沈黙よりもその直前の笑いの終わりの方が怖かった。


 深呼吸をひとつ。

 指先が小さく震える。

 ドアノブの冷たさが皮膚に刺さった。

 視界の端が白く滲み、私は扉を開けた。


 視線が一斉に私へ集まる。

 その視線が冷たいようで、わずかに後退りしてしまう。


 机を整える音、ペンを回す音。

 いつも通りを装う動作が、かえって不自然だった。


 私が教室に入っていくたび、周囲の空気が凍る。

 その隙間で誰かの笑いかけるような息が詰まる。


「……おはようございます」


 自分の声が乾いていて、高島先生が顔を上げた。


「ああ……おはよう。今日からだったな」


 それだけ言うと、先生はすぐに出席簿へ視線を落とした。


 私は小さく頭を下げ、通路をまっすぐ進む。

 足音が床の上でやけに重く響く。

 すれ違うたび、誰かの椅子の脚が少し引かれた。

 通路がほんのわずかに広がっていく。


 喉がつまる。

 教室の空気が薄いガラスみたいに肌に張りつく。

 笑いをこらえるような吐息がひとつ。

 そのあとに紙をめくる音が連なる。


 窓際の四番目。

 そこには何もなかった。

 机の上は空っぽで、木の表面だけがやけに白く光っていた。

 時間だけが通り過ぎた場所。

 そこに私のいた証拠はもうなかった。


 梨沙の視線が一瞬だけ横切る。

 笑ってもいない、怒ってもいない。

 ただ冷たく、何も映っていない目。

 その無表情の方が責められるより苦しかった。


 紗月が短くため息をつく音。

 美桜のノートをめくる指がわずかに震えている。

 柚菜のシャーペンが静けさを割るように鳴った。その音のあと、紙の端が破れるような小さな音が続く。わざとではないのかもしれない。でも、刃の先で切りつけられたみたいに痛かった。


 彼女の視線が一瞬だけこちらを掠めた。

 笑いでも怒りでもない。

 ただ「戻ってくるな」と、そう言っているようだった。

 息を吸うことさえためらうほど空気が薄くなる。


 私は鞄を机の横に置き、ノートとペンを静かに取り出す。

 そのわずかな音だけが教室に広がった。音が止まったみたいだった。


「おはよう」


 佑磨くんのその声が妙に透明に響いた。

 夏の光を透かしたガラスみたいに触れたら割れそうなほど静かな音だった。


「……おはよう」


 その言葉が自分の口から出た瞬間、空気がほんの少しだけ揺れた。

 届いたはずなのに何かがその間に落ちていった気がした。

 音も温度も途中で消えていく。


 彼はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ指先でシャーペンを回しながら前を向く。

 芯の擦れる微かな音がやけに近くで響いた。


 その横顔が夏の光にかすんで見えた。

 光と影の境界にいるようで、目を向けることさえためらった。


 黒板のチョークの音が始まった。

 粉が舞い上がる。白い粒子が光を反射して、空気の中で静かに流れていく。

 私はその中で机の角を指でなぞっていた。


 誰もこちらを見ていないのに、見られている気がした。

 背中のあたりにいくつもの視線の残像が張りついて離れない。

 呼吸をするたびに、その重さが皮膚に沈んでいく。


 授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。

 先生の声が遠くでくぐもる。

 ページをめくる音、ボールペンのカチカチ、机を蹴る足の小さな衝撃。


 そのひとつひとつが異様に鮮明だった。

 世界が少しずつ自分を置いていくような感覚。


 二時間目の途中、ふと隣を見ると佑磨くんが小さくメモを破り、何かを書いていた。

 紙の上を走るシャーペンの音が秒針のように規則的に聞こえる。


 でも、それが誰に向けられたものなのかはわからなかった。

 私は見ないふりをした。


 ——逃げない。

 そう思いながらも「もう誰にも見られたくない」と願っていた。

 その二つの感情が静かにぶつかり合っていた。


 四時間目の終わりが近づくころ、グラウンドの方から笛の音がかすかに聞こえた。

 体育の授業の声だろうか。

 風に乗って届く掛け声が教室の窓をかすかに揺らした。


 その音を聞いていると、無意識に呼吸が浅くなっていく。

 体はここにあるのに、心はどこか遠くに浮かんでいる。


 佑磨くんが鉛筆を落とした。

 カランと音が響いて、床を転がっていく。


 私は反射的に拾おうとして、指先が彼の手に触れた。


 冷たい。


 それだけなのにどくんと心臓が小さく跳ねた。


「……ありがと」


 私は軽く頷いて、何も言わずに前を向いた。

 彼の笑みが優しいのか、遠いのか判断できなかった。


 昼休みになり、教室のざわめきが急に戻ってくる。

 誰かの笑い声、椅子のきしむ音、弁当箱を開ける音、ペットボトルのキャップが外れる音。


 梨沙たちの席のほうから、小さな笑い声が聞こえた。

 視線の端で、みんなで廊下に出ていくのが見えた。

 声の輪が遠ざかるたびに、空気の温度がひとつずつ落ちていく。


 気づけば私のまわりだけが静かだった。

 昼休みのざわめきの中で、席の周囲だけ音の膜が張られたみたいに。


 私は机に突っ伏した。

 頬が木の表面に冷たく沈む。

 体温が吸い取られていくようだった。


「……昼食べないの?」


 右隣から小さな声。

 佑磨くんだった。


 顔を上げるのが怖くて、机に頬をつけたまま言う。


「あとで食べる」

「弁当持ってきてないの?」

「うん……今日はいい」


 言葉が途切れる。

 会話にならないまま、沈黙だけがふたりの間に残った。


「……そっか。なら俺もここで食べる」


 それだけ言って、彼はノートに視線を戻した。

 ページをめくる音、ペンの走る音。

 その規則的な音がかろうじて現実をつなぎとめていた。


「なあ、瑠奈。俺は……」

「どうしたの」

「いや、やっぱいいや」


 私は机の木目をぼんやりと見つめた。

 光がゆらいで、線が滲んでいく。

 遠くで誰かが笑っている。

 笑い声も光も全部遠くに感じてしまう。


 この世界に戻ってこられたのに、また落ちてしまうんじゃないか。


 そう思った途端、小さく疼いた。

 それは痛みなのか。はたまた鼓動なのか。

 自分でもわからない。


 私は小さく息を吸い、目を閉じた。

 秒針の音が遠くで重なる。

 あの日と同じように。


 逃げないとそう思ったのに歩き出すことは少し怖くて、とても静かだった。

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