最終話 もう一度、歩いてみよう
代官山駅の改札を出た瞬間。
湿った朝の風が頬を撫でた。
六月の終わり特有の匂い——。
雨が降りそうで降らない灰色の空気の味がした。
階段を上がる人たちの靴音がざわざわと混ざり合って遠くへ流れていく。
その中であたしの音だけが少し遅れて響いている気がした。
久しぶりの制服は肩のあたりが窮屈で胸の布地が呼吸のたびにわずかに擦れる。
鏡を見て整えたはずのリボンがもう少しでほどけそうに感じた。
——ほんとに行くの?
心のどこかが囁いた。
電車の中で見ないふりをしていた現実が改札を出た瞬間、はっきりと輪郭を持って迫ってくる。
駅前の坂道を上がると、櫻庭高校の校舎が見えた。
白い壁、青い屋根、そして朝の光。
ほんの数週間前まで毎日見ていた景色なのに、今はまるで別の世界みたいだった。
通学路の脇では制服姿の生徒たちが笑っている。
その笑い声がまぶしくて、あたしは視線を落とした。
目の前のアスファルトの上に自分の影だけが長く伸びていた。
あの頃の自分がまだあの中にいる気がして、きゅっと痛んだ。
昇降口の前に着くと、扉の向こうからチャイムの残響と笑い声が重なって流れてくる。
懐かしい音なのに身体が固まる。
息を吸って、吐いて。
深呼吸をしても空気が胸に入ってこない。
「……おはようご——」
声が喉の途中でほどけた。
その瞬間、ちょうど廊下を歩いていた先生が振り向いた。
視線が一瞬だけぶつかる。
あたしはとっさに目を逸らした。
何か言おうとしたのに、口の中で空気が揺れただけで声にならなかった。
先生は小さく会釈して、そのまま通り過ぎていった。
残された空気の中にあたしの小さな声の残響だけが薄く漂っていた。
昇降口の中は少し冷たかった。
掲示板のプリント、ロッカーの金属の匂い。
すべてが日常の顔をしているのに、あたしには遠い。
職員室の前を通ると、一人の先生が目を上げた。
「……久しぶりだな」と穏やかに言った。
その声の中に責める響きはなかった。でも、そこに流れる現実の重さが怖かった。
あたしは小さく頭を下げ、足音を忍ばせるように生徒指導室へ向かった。
途中の廊下で誰かの笑い声が追い越していった。
夏の光が窓ガラスに反射して、目を細めた瞬間。世界が一瞬白く滲んだ。
生徒指導室の前で立ち止まる。
ドアのプレートの文字がまるで審判の札みたいに見えた。
手のひらが汗ばみ、ノックする前から鼓動が鳴っていた。
ドアを開けた瞬間、生徒指導室の空気があの日の記憶を連れてきた。
紙とインクの匂い。
蛍光灯の白い光。
机の並びも時計の針の音も何も変わっていない。
「……おはようございます」
声が震えて、自分でも聞き取れないくらい小さかった。
大野先生が書類から顔を上げる。
一瞬、目が合って、そのまま短く頷いた。
「おはよう。……座りなさい」
その声は以前と同じ低さだったけれど、あのときみたいな冷たさはなかった。けれど、優しいとも言えない。
ただ職務の声の中に少しだけ柔らかい呼吸が混ざっていた。
あたしは指定された椅子に腰を下ろし、鞄から反省文を取り出した。
白い紙の端が指先でかすかに震える。
机の上に置くと、大野先生は静かにそれを受け取り、目を通しながら小さく息をついた。
「……反省文を読ませてもらった。
内容はよく考えたのが伝わる」
あたしは何も言えず、膝の上で手を重ねる。
手のひらに汗が滲んで、冷たく光った。
大野先生はしばらく沈黙したまま、窓の外を一度見てから、ゆっくりとこちらを向いた。
「……今日からしばらくは生徒指導室登校という形になる。教室にはまだ入らなくていい。体調に無理はしていないか?」
その問いにあたしは小さく首を振った。
「そうか」
大野先生は短く答え、書類の上にペンを置いた。
「……無理をするな。時間をかけてでもいい。ここに来るだけでも、今日はよく頑張ったな」
その一言に何かがわずかに揺れた。
感謝でも安堵でもない。
ただ呼吸を許されたような感覚。
「……ありがとうございます」
声にならないほどの小さな声で言って、あたしは頭を下げた。
その瞬間、蛍光灯の光が少しだけ滲んで見えた。
「しばらく保健室で休んでいきなさい」
大野先生がそう言って書類に目を戻す。
その言葉が形式的な指示であるはずなのに、どこか赦しのように聞こえた。
あたしは立ち上がり、ドアノブに触れる指先で自分の体温を確かめた。
外の光が白く、少し眩しい。
ゆっくり息を吸って、廊下へ出た。
廊下の空気は少し熱を帯びていた。
梅雨明け前の湿気が残っていて、窓から吹き込む風は乾ききらない夏の匂いを含んでいる。
光が斜めに差し込み、床に淡い模様を作っていた。
その模様があたしの足元を静かに追いかける。
まるで置き去りにした昨日が形を変えてついてくるみたいだった。
どこかの教室から、チャイムの残響と笑い声が混ざり合って流れてくる。
椅子を引く音、黒板を叩く音。
すべてが当たり前のように積み重なっている世界。
みんな普通に生きている。
その音がまぶしい。
あたしの時間だけが止まっていたようで、その音に触れるたび小さな痛みが走る。
足音が響くたびに過去の自分と今の自分の温度差がくっきりと浮かんだ。
あの頃のあたしはこの廊下の白さの中を何も考えずに歩いていたのに。
光が反射して、まぶしく滲む。
それでも目を逸らさず、あたしは少しだけ肩を張って歩いた。
廊下の先に保健室のプレートが見える。
白い文字が光に透けて、それだけが救いのように感じた。
一歩、また一歩。
呼吸のたびに空気が少しずつ柔らかくなる。
固まっていたものがほんのわずかにほどけていく。
保健室の扉の前で立ち止まり、あたしは短く息を吐いた。
手のひらが汗ばみ、ドアノブが冷たく感じる。
——大丈夫。
声にはならない言葉が唇の裏で形を結ぶ。
ほんの一文字ぶんの勇気が震えた。
ドアを開けると白いカーテンの向こうで、風が静かに動いた。
消毒液の匂いがゆっくりと届く。
秒針の音が世界を優しく刻んでいた。
机の前で書類を片づけていた千夏先生がこちらに気づいて振り向いた。
「どうしたの?」
その声は白い部屋に溶けるように柔らかかった。
一瞬だけ言葉を失って、あたしは視線を床に落とした。
「……千夏先生に話を聞いてもらいたくて」
声に出した瞬間、硬いものが少しだけ割れる音がした。
千夏先生は微笑んで、手にしていたペンを静かに置いた。
「ええ、そこに座っていいよ」
促されるまま、あたしはベッドの端に腰を下ろした。
白いシーツが冷たくて、少しだけ肩がすくむ。
沈黙が一度だけ落ちた。
秒針の音が息の隙間を通り抜けていく。
「……寂しいっていう理由で、去年の夏に知り合った大学生の人と浮気をしてたんです。それがクリスマスの日に佐伯くんにバレて振られて。そしてその後に浮気相手も音信不通になって」
千夏先生は頷きもせず、ただ静かに聞いていた。
その沈黙は責めるものじゃなくて、受け止めるための静けさに思えた。
「その時になってやっと気づいたんです」
「……」
「自分が佐伯くんにしたことがどれほど傷つけたのかを。でもその事を梨沙たちには到底言えることができなくて、秘密にしてたら、最悪な形でばれちゃって……」
「そうなのね」
「その後に梨沙たちから屋上で問い詰められた時に酷い言葉を言ってしまったんです。そのことも後悔してて。今更そんなこと思ってないなんて言い訳のようで」
「……」
「……独りになるのがこんなにも怖くて辛いなんて知らなかったです」
カーテンが風に揺れ、光の模様が床を滑っていく。
「花園さんがしたことを肯定することはできないけど」
千夏先生の声は淡々としていて、どこまでも中立だった。その正しさが今のあたしには鋭い刃のように刺さる。
「寂しさを埋めるために最低な選択をして、後で後悔するなんて……私だって経験あるしね」
視線を逸らした先生の横顔がとても切なさそうにみえた。
「でもね。その汚れを消そうとするんじゃなくて、抱えたまま歩きなさい。その時の醜いところも、全部ひっくるめて自分自身だから。逃げずにその重みを感じている今の花園さんは素敵だと思うよ」
その言葉がどうしようもなく、胸に響いてしまって。
これから先。あたしは自分がしてきたことからもう逃げない。どんな辛いことが待ってようと――もう現実から目を背けない。
あたし——いや、私は深く息を吸った。
光がまぶしいほど白かった。
カーテンの隙間から差す光が床に波を作る。
その白さの中で、ようやく「生きている」という感覚が実感できて、 クリスマスの夜から止まっていた時間が動き始めたような気がする。
私は目を閉じ、秒針の音と自分の鼓動が重なるのを感じた。
第3章ー完ー
第4章は2月16日月曜日の20時から投稿します。
今後とも応援をどうぞよろしくお願い致します。




