第16話 最初からあたしのせい
カーテンを閉めたままの部屋。
外の光がどんなに強くても、ここには届かない。
昼と夜の境目が曖昧になって、時計の針の音だけがかろうじて時間の存在を知らせていた。
世界から切り離されたこの空間では時間の色さえ少しずつ褪せていく気がした。
床の隅に畳まれずに置かれた制服。
誰も触らないまま、皺が深くなっていく。
折り目の跡がまるで昨日の形をそのまま留めているみたいで、それを見るたびに、心のどこかが静かに軋んだ。
机の上には開きっぱなしの反省文。
ペンのインクが乾いて、文字の線が少しだけ滲んでいる。
ペットボトルとティッシュの箱が転がり、ページの端にはうっすら埃。でも、完全な荒廃じゃない。
使用人が誰もいない間に換気してくれるから、空気だけはかろうじて生きている。
その生きている空気が逆に苦しかった。
静かすぎるほど整った空気の中で、あたしだけが音を立てないように息をしている。
呼吸をするたびにきゅっと痛む。
何も言わなくても、部屋が勝手に息をしているのに、あたしはその呼吸に混ざることができなかった。
それがあたしの孤独の証拠だった。
スマホの画面が一度だけ光った。
暗闇の中で小さな光が鋭く目に刺さる。
通知音は小さいのに、心臓が跳ねた。
〈見た?〉
〈まじで最低〉
〈裏切りってこういうことなんだね〉
スクリーンの白が雪みたいに冷たい。
指先が震えて、タップするたびに自分の鼓動が伝わる。
文字の並び方がまるで刃物の列みたいに、読むたび、皮膚の下がひやりと冷たくなっていく。
呼吸を止めても、目の奥が勝手に痛んだ。
喉が乾く。
唇が少し張りついて、息を吸うたびに乾いた空気が刺さる。
声を出そうとしても、息ばかりが漏れて、言葉にならない。
口の中の水分が全部蒸発していくみたいで、それでも何かを言わなきゃいけない気がして、喉が小さく震えた。
誰の言葉も全部同じに見えた。
閉じても頭の中で通知音が鳴り止まない。
まるで直接響くみたいに、思考の隙間を埋めるように鳴り続けていた。
「……もういいよ」
声に出した瞬間、自分の声がこんなに小さかったのかと驚いた。
それは音というより、息の一部だった。
部屋の空気は何も反応しない。
ただ壁に跳ね返ったその音が誰のものでもない他人の声みたいに聞こえた。
あたしはその声を聞き返すこともできず、ただまた黙った。
沈黙がゆっくりと部屋の隅まで戻ってきて空気の重みがあたしの輪郭を少しずつ曖昧にしていく。
お風呂に入る。
けれど、それは生活の一部としての入浴で、気分転換でも清潔のためでもない。
ただ身体のどこかが冷たくなりすぎないように、惰性でお湯を浴びているだけだった。
シャワーの音が壁に反射して、誰かの泣き声みたいに聞こえた。
一瞬、音を止めて耳をすます。それは結局、あたしの呼吸が乱れている音だった。
ドライヤーで乾かした髪をとかす。
でも、艶はもうほとんど残っていない。
指が髪をすべるたびに静電気のような音がかすかに鳴る。
鏡の中の自分はどこか遠い他人みたいで、目が合っても、すぐに視線を逸らした。
頬に触れても、感覚が鈍い。
けれど、その奥で心臓だけが確かに動いている。
音はしないのに胸の内側が小さく跳ねる。
生きていることが少し怖かった。
鏡台の上には埃の積もったメイク用品と香水。
ブラシの毛先が少し曲がって、置きっぱなしの口紅にはひびが入っている。
その中で香水の瓶の中だけがまだ光を閉じ込めていた。
傾けると液体がゆっくり揺れて、その動きがまるで呼吸みたいに見えた。
それを見つめるたび、心臓がほんの少し動く。
生きていることを無理やり思い出させられるみたいで。
目を逸らしたいのに、光から離れられなかった。
食事は部屋の外に置かれる。
ノックの音だけがして、誰も何も言わない。
あたしも返事をしない。
その沈黙がもう会話になっていた。
扉の向こうで、人の気配が遠ざかる音を聞くと世界がまた一段階、静かになった気がした。
冷めた料理を見つめる。
湯気が消えたあとに残る匂いが部屋の空気に溶けていく。
箸をつける日もあれば、そのまま放っておく日もある。
お腹が空いているのかどうかも、もうわからなかった。
家のどこも綺麗なのにあたしの部屋だけ時間が止まっている。
時計の音だけがまだ生きてた。
一秒ごとに過去だけが進んでいく。
その音を聞いていると、あたしだけが置いていかれている気がした。
外の世界は変わらない。
白い廊下には花が飾られ、リビングには小さな音量でクラシックが流れている。
遠くでドアが閉まる音。
階下を行き来する足音。
グラスがテーブルに置かれる乾いた響き。
それらの音が家全体を静かに満たしていた。
そのどれもが正常な世界の証で、あたしはその輪の外に追い出されたままだった。
その境界線は扉一枚ぶんの厚さしかないのに越える勇気がどこにもなかった。
扉の向こうから漂ってくる花の香りが、逆にこの部屋の空気の重さを際立たせていた。
またスマホを手に取るけれど、もう誰からも通知は来ない。
光る画面が指先の体温を奪っていく。
あんなに賑やかだった文字の群れが、今はただ白い光の中に沈んでいるだけ。
でも、頭にはまだあの声が残っている。
「先輩のことは軽蔑します。人としてこんな風になりたくありませんし、一生関わりたくもありません」
あの子の声はもうどこにもないのに、記憶のどこかで今も同じ抑揚で響いてくる。
まるで取り残された警告音みたいだった。
あたしが悪い。
ちゃんとわかってる。
もう十分、みんなに責められた。
だから今はあたしが自分を責めてる。
言葉も音もなくても。
この沈黙がいちばん痛い。
耳を塞いでも、心の中では何かが鳴っている。
時計の音か心臓の音なのかはもう区別がつかない。
その音が生きている証みたいで、少し怖かった。
スマホの光を消して、静かに目を閉じた。
息を吸う。
それだけで少しだけ痛かった。
呼吸のたびに、体のどこかが軋む。
それでもまだ息ができる。
時計の針の音がひとつ、またひとつ。
あたしの知らない場所ではたぶん朝が来てる。
カーテンの向こう側にある世界を想像するだけで胸がざわめいた。
痛みは残ってる。だけどもうみんなが愛してくれた花園瑠奈という偶像の少女はもういない。流出したあの日に全て壊れてしまったんだから。
これからあたしはどうすれば良いのかな。
……分からない。
梨沙や美桜、紗月も失ったのに。
ほんの少しだけまぶたの裏が温かい気がした。けれど、光を見に行く勇気はまだ出なかった。
もう少しだけこの沈黙の中にいたい。
息を殺すたびに部屋の空気があたしの輪郭をゆっくり包み込んでいく。




