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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
第3章 崩壊と喪失
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第15話 最悪なクリスマス、最低な女

 街はどこも光で溢れていた。

 駅前のイルミネーションが頬に反射して、冷たい空気が少しだけ痛い。

 遥斗くんの手を取った瞬間、ざわついた。

 家族には友達と遊ぶって嘘をついたけど、その嘘のほうが本当みたいに自然だった。


 クリスマスの渋谷は人の笑い声と音楽で満ちていた。

 目の前にあるのは華やかさなのに、どこか現実味がなかった。

 まるで自分だけ別の世界を歩いてるみたいで、少し怖かった。


「寒くない?」

「ううん、大丈夫」

「手が冷たいな。……ほら」


 彼が指を絡めるように握ってきて、手袋越しに体温が伝わった。


「……こんな人混みの中で手つなぐとか恥ずかしくない?」

「いいじゃん。今日は特別だから」


 そんな軽い言い方が街のざわめきの中で妙に安心して聞こえた。


 レストランに入ると、照明が落とされていて、キャンドルの火が揺れていた。

 グラスの中で氷が鳴るたび、胸が小さく跳ねた。


「こうやって過ごすクリスマス悪くないだろ?」

「……うん。すごくきれい」

「前も思ってたけど、瑠奈ちゃん黒似合うよね」

「え、あ……ありがと」

「シンプルなのに、ちゃんと大人っぽい。あ、褒めてるからね」

「そういう言い方ほんとにずるい」

「事実を言っただけだよ」

「ほんと口が上手いよね」

「でしょ。……でも今日は本気」


 少し照れ笑いしたあと、彼はワイングラスを持ち上げた。


「乾杯だね」

「乾杯」


 グラスが触れ合う小さな音が静かな店内に響いた。

 グラスの中の泡が弾けるたびに小さな音がした。


「せっかくだし、記念に撮ろうか」


 遥斗くんがスマホを取り出して、テーブルの上のキャンドルを少し動かした。


「写真?」

「うん。ほら。この光いい感じじゃん」


 笑いながらカメラを向ける。

 私は慌てて手で顔を隠した。


「顔はダメ……」

「わかってるって。手だけ」


 グラスを持ったまま撮られた一枚。

 背景のイルミネーションとシルバーの指輪が微かに光った。


「いいね、雰囲気ある」

「……あたしにも送って」

「もちろん。こういうの載せたらすぐ彼氏と?とか言われるやつだな」

「……うん、そうかも」


 指先が勝手に動いて、スマホを取り出していた。


 ソルグラムを開く。

 テーブルに置かれたグラスとキャンドル。

 ぼかした背景にイルミネーションの光。

 #Xmasdinner、#特別な夜。

 投稿ボタンを押した瞬間、少しだけ心臓が高鳴った。


「載せた?」

「……うん。内緒の…ね」

「匂わせってやつ?」

「そうかも」

「いいじゃん。それも」


 遥斗くんが笑って、グラスをもう一度持ち上げた。


 外の雪を見ながら、あたしは思った。

 この時間が続けばいい。

 誰かに見せたくなるほど、いまの自分が幸せだと思えたのは、きっと初めてだった。


 でも、彼の指先がテーブルの下であたしの手を握った瞬間、その願いすら言葉にならなくなった。

 ただあたたかかった。

 その温度だけで、全部がどうでもよくなった。


 ホテルの部屋に入ると、空気が甘かった。

 タバコの煙とお酒の匂いが混ざっていて、少しだけ苦しいのに落ち着く。


「飲む?」


 遥斗くんが缶チューハイを差し出す。

 銀のプルタブが小さく鳴った。


「……ありがとう」

「緊張してる?」

「ううん。むしろ安心してるかも」

「そっか。なら良かった」


 缶を口に運ぶと、甘さの奥に微かな苦味が広がった。

 喉が熱くなる。

 机の上にスマホを置いた瞬間、小さな音が鳴った。


 画面には♡15件の通知。

 さっき投稿した写真——グラスとキャンドルのあの一枚。

 彼氏?可愛い雰囲気そんなコメントが並んでいて、胸の奥がふっと軽くなった。


「……もう反応きたの?」


 遥斗くんが笑って、スマホを覗き込む。


「うん。すぐ見つかるね。こういうの」

「人気者だな」

「違うよ。……ただ見てほしかっただけ」

「誰に?」

「あたしのことを見てくれる人」

「じゃあ俺だね」


 その言葉と同時に彼が近づいてきた。

 距離が消えるように唇が触れる。


 キスは静かだった。

 だけど、触れられるたびに世界の輪郭がゆっくり溶けていく。


 タバコの香りとアルコールの熱が混ざって、少しだけくらくらした。

 彼の指先が頬をなぞる。

 指先が通ったところだけ、空気があたたかくなっていく。


 耳のすぐ近くで低い声が落ちた。


「俺のことだけ見てればいいよ」


 その言葉が奥深くまで沈んでいく。

 息が詰まりそうなのに、苦しくなかった。

 ただその声と匂いと温度に包まれて、何もかもが静かに遠のいていく。


「……うん。あたしも遥斗くんしか見えない」


 やめようと思ったことなんて一度もなかった。

 むしろこの時間がずっと続けばいいと思ってた。

 遥斗くんに抱かれていると、寂しさの形がなくなる。


 静かな海の底みたいに何も怖くなかった。

 この場所にいれば、誰にも触れられない気がした。


 ——雪が降っている。


 ホテルを出たとき、街が白く染まっていた。

 光の粒みたいに舞う雪の中で、見覚えのあるシルエットが立っていた。

 息が止まった。


「……瑠奈?」


 その声で時間が止まった。

 振り向くと新汰くんがいた。

 街灯の下で雪が肩に積もっていく。

 光が反射して、彼の瞳の色が淡く揺れていた。


 一歩、彼が近づいた。

 その足音が雪を潰すたび、胸が痛くなる。

 まるで確かめるみたいに、ゆっくりとあたしの顔を覗き込んだ。


「……どうして」


 声が震えていた。

 その一言に全部が詰まっていた。


 あたしは何も言えずに立ち尽くした。

 隣で遥斗くんの指がゆっくりとあたしの手を握る。


「隣の男は……誰?」


 言葉を探すような声だった。

 何度も飲み込んで、やっと出たみたいに。


「……ごめんなさい」


 息が白く散って、雪に溶けた。


「ごめんって……何に対して?」

「違うの。そういう意味じゃなくて——」

「じゃあどういう意味?俺、何も知らないまま笑ってたの?」

「……」

「夏祭りのときも、一緒に撮った写真も……全部嘘だったの?」

「嘘じゃない。ただ——」

「ただって何だよ!」


 新汰くんの声が少し掠れた。


「俺、本気だったのに。毎日メッセージして、お前が落ち込んでるときも、そばにいようって思って……。何がいけなかったんだよ」


 あたしは口を開こうとしたけど、声が出なかった。

 言い訳を探しても、どれも違う気がした。


「もうやめて……」


 それだけが精一杯だった。


「やめてほしいのはどっちだよ」

「……」

「その手、離せよ。そいつの手、離して俺の方を見ろよ」

「できない……」

「なんで」

「もう戻れないから」


 その言葉のあと、雪の音がやけに静かに聞こえた。

 新汰くんが一歩踏み出した。

 靴の下で雪がざくりと鳴る。


「……何で俺じゃだめなんだよ」

「……ごめん」

「なんだよ、それ」


 小さく息を吐いて、目を逸らした。


「ごめんって言葉、便利だな」


 その瞬間、遥斗くんが静かにその間に立った。


「落ち着け。話をするなら、少し離れよう」

「お前に言われる筋合いはないだろ」

「……まあ、そうだな。でも今は俺が一緒にいる」


 それだけを落ち着いた声で言った。

 あたしの肩に腕がまわる。

 その温度で心臓が小さく跳ねた。


 新汰くんの視線がその腕に刺さったまま動かない。

 唇がかすかに震えていた。


「瑠奈、答えてよ。……本当にこの人なの?」

「……うん」

「冗談でしょ?」

「冗談じゃない」


 言葉が自分の口から出た瞬間、足元の雪が崩れたような気がした。


「……俺、信じてたよ」

「わかってる」

「じゃあなんで」

「……寂しかったの」

「寂しかった?」


 笑うように言い返したけど、声が震えていた。


「俺、どれだけ時間かけたと思ってる?お前が笑うようにって……。それでも足りなかったんだ」

「……ごめん」

「謝るなよ。余計惨めになる」


 言葉を吐いたあと、息を吸う音が痛いほど響いた。


「……俺、頑張ってたつもりだったんだよ。瑠奈のことを好きだったから」


 雪が静かに降り続く。

 街の喧噪だけが遠くで別の世界みたいに流れていた。


「でもお前の中では終わってたんだな」

「……」

「気づけなかった俺がバカみたいじゃん」


 そのあと、小さく息を呑んだ。


「……ふざけんなよ。ほんとふざけんな」


 それだけが少し大きな声になって、すぐに雪に吸い込まれた。

 遥斗くんが小さく息を吐いた。


「もうやめろ。これ以上言っても、誰も得しない」

「黙ってろよ」

「黙ってたら、彼女が凍えたままだろ」


 その言葉の言い方があまりにも静かで逆に空気を裂いた。

 新汰くんが睨みつけるように視線を上げる。


「お前どんな顔してそれ言ってんだよ」

「現実を見てる顔だよ」


 雪が風に流れて、三人の間を横切っていった。


 返事をしようとしても、喉が固まって言葉にならない。


 唇を開きかけたまま、冷たい風が頬を撫でていった。

 彼の視線があたしの手元に落ちる。

 そこにはまだ遥斗くんの指が絡んでいた。


 新汰くんが何かを言いかけて、結局、何も言わなかった。


 その沈黙の中で、遥斗くんが小さく息を吐いた。

 白い息が二人の間をすり抜けていった。


「……もう何を言っても届かないんだな」

「届いてるよ。でも、どうにもならないの」

「どうにもならないで済ませるなよ。そんな簡単に終われるわけないだろ」


 その声が雪にかき消えた。


「……これ以上、瑠奈ちゃんを責めるのはやめなよ。男としてダサいぞ」

「……は?今なんて言った?」


 新汰くんが一歩踏み出して、遥斗くんの胸ぐらを掴んだ。

 雪の粒がその腕に散って、冷たい音を立てた。

 二人の距離が一瞬で詰まる。


「やめて……!お願いだから。やめてよ、新汰くん!」


 声が震えて、息が白く散った。

 掴んだ手の力がほんの一瞬だけ緩む。


「……なんだよ。お前はそいつの味方するのかよ」

「違う……そんなつもりじゃ——」

「じゃあ何だよ!庇ってんじゃねえか!」


 雪が二人の足元で跳ねた。

 その瞬間、遥斗くんが低い声で割り込んだ。


「……もうやめろ。これ以上は誰も戻れなくなる」


 その言葉に雪が一層静かになった。

 遠くで鐘の音が鳴っていた。


「……勝手にしろ」


 新汰くんの声は低く掠れていた。


「最低な女」


 その言葉のあと、彼は振り向かずに歩き出した。

 白い雪の中で背中がゆっくり溶けていく。


 呼吸をしても、冷たい空気が肺に届かない。

 さっきまで残っていた体の熱が全部雪に吸い込まれていくみたいだった。


 ——雪が舞っているのに、息ができなかった。

 世界が静かに終わっていく音がした。


 ホテルへ戻る道、街はもうほとんど音を失っていた。

 雪を踏む音と、遠くで鳴る車のライトの反射だけが現実だった。

 隣を歩く遥斗くんは何も言わなかった。

 その沈黙が逆にあたしを落ち着かせた。


 ホテルの部屋に入ると、空気が甘かった。

 タバコの煙とお酒の匂いがまだ残っていて、少しだけ苦しいのに落ち着く匂いだった。

 空調の低い音がどこか遠くから聞こえる。

 外の世界がゆっくりと薄くなる。


 紫煙がふわりと揺れて、天井に溶けていく。

 その煙を見つめながら、何も考えられなかった。

 時間が止まっている気がした。

 時計の針や窓の外の明かりも全部遠くに感じた。

 この部屋だけ世界から切り離されているようだった。


「……どんな味がするの?」

「これ?」

「うん。……吸ってみたい」


 遥斗くんは少しだけ笑った。


「意外だな。似合わないけど、悪くないかも」

「バカにしてる?」

「してないよ」


 火をつけてもらい、恐る恐る吸い込む。

 煙が喉を通った瞬間、焼けるように痛くて思わず咳き込んだ。


「ほら、言ったろ。きついって」

「……でもきれい」

「何が?」

「煙。……消えるのがなんか落ち着く」


 もう一度、火をつけた。

 今度は少しだけ長く吸えた。

 熱が残って、頭がぼんやりする。

 その感覚が嫌じゃなかった。

 お酒の甘さと煙の苦さが混ざって、どっちの味なのかもうわからなかった。

 世界が少し斜めに傾いて見える。


 灰皿の中で火が細くなっていく。

 気づいたら、二本目も半分くらいまで吸っていた。


 テーブルの上でスマホが小さく震えた。

 画面を伏せたままでも、誰からかはわかる。


 〈もう終わりにしよう〉


 その一文だけで、頭の中の空気が変わった。

 何も感じないのに、指先だけが冷たくなっていく。

 通知を消そうとして、できなかった。

 画面を見たまま、時間が止まる。

 じんじんして、息を吸っても苦しくなかった。

 光の反射が頬にあたって、滲む。

 涙じゃなく、照明の光。

 それだけなのに泣いているみたいだった。


 遥斗くんが灰皿に新しいタバコを押し当て、「どうした?」と軽く聞いた。


「……ううん。なんでもない」


 笑ってごまかしたけど、声が少し掠れた。

 彼はそれ以上何も聞かず、ブランケットを掴んであたしの肩に掛けた。


「寒い?」

「……平気」

「そう?」


 その仕草がやけに優しく見えた。

 たぶん、あの優しさが一番の罪だった。


 少し間をおいて、気づいたら言葉がこぼれていた。


「……抱きしめてほしい」


 自分の声じゃないみたいだった。

 彼は何も言わず、ゆっくりと腕をまわした。

 その体温が近づくたび、心臓の音が少しずつ現実を遠ざけていった。

 鼓動の合間にある沈黙が永遠みたいに長かった。


 肩越しに聞こえる心臓の音が外の雪の静けさと混ざって溶けていく。

 カーテンの隙間から漏れた街の光が壁に淡い影を作って揺れていた。


 しばらくして、あたしは小さく呟いた。


「……もうあたしには遥斗くんしかいない」


 彼の腕の力が一瞬だけ強くなった。

 何も言わずにただそのまま抱きしめてくれた。

 それが答えみたいで、怖いほど落ち着いた。


 やがて彼は腕を離し、灰皿に新しいタバコを押し当てた。

 火の先が小さく赤く光って、すぐに消えた。


「吸う?」

「……うん」


 煙が絡み合って、部屋が白くかすむ。

 三本目の火が小さく光った。


 その匂いが部屋の空気に染みついて、あたしの服にも髪にもゆっくり沁みていく。

 灰皿の中の赤い火が、まるで世界の終わりみたいに静かだった。


 泣きそうなのに涙が出なかった。

 喉の奥が熱いだけで、何も零れなかった。

 泣いたほうが楽になれるのかもしれないのに。

 そういう感覚さえ思い出せなかった。

 ただ煙の向こうで時間だけが静かに崩れていった。


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