第11話 罪悪感とかそんなのない
お店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
昼間の熱気がまだ残ってるのに、肌を撫でる風だけは妙に心地いい。
街のネオンが濡れた舗道に反射して、赤や青の光が足元で揺れていた。
須賀さんが会計を済ませる間、あたしはスマホを開いて時間を確かめた。
午後20時07分。
「このあとどうする?」
「……少しだけ散歩したいかも」
自分でも驚くくらい小さな声だったけど、隣を歩く須賀さんにはちゃんと届いていたみたいだ。
「いいよ。夜風気持ちいいしね」
須賀さんはあたしの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出す。駅とは反対の少し静かな街灯が続く道。
「さっきスマホ気にしてたでしょ」
「え……。あ……うん。ちょっとだけ」
「……怒られちゃった?こんな時間まで連れ回して」
「……ううん。全然」
隣で前を見据えたまま、須賀さんがふっと口元を緩める。
あたしが言葉を探して黙ってしまうと、彼はその沈黙を埋めるように、独り言みたいに続けた。
「……こっちの方にね、夜になるとすごく綺麗に見える場所があるんだ。俺が疲れた時にたまに寄るんだけど、瑠奈ちゃんにも見せたいなって思ってた」
その言い方はあまりに自然で、あたしは頷くことしかできなかった
「あ、着いちゃった。ここ俺の家」
須賀さんは鍵を取り出しながら、いたずらが見つかった子供みたいに、少しだけ肩をすくめて笑った。
「歩きすぎて、喉乾いたでしょ。さっきのお店より美味しい炭酸、うちにあるんだけど。……少しだけ涼んでいかない?」
「……うん。少しだけなら」
エレベーターの鏡に一瞬だけ映った自分を見た。
照明のせいか、リップの色が濃く見える。
顔が少し火照っていた。
部屋に入ると、空気が柔らかくて静かだった。
間接照明だけが灯っていて、机の上に缶チューハイが二本。
グラスの隣にはライターと灰皿。
「……それ飲んでみたいかも」
「無理に飲まなくていいよ。これ、見た目よりは度数あるし。……まあ、瑠奈ちゃんがどうしてもって言うなら、ちょっとだけ分けてあげてもいいよ」
「うん、一口だけでいいから」
プシュッという音がして、泡がゆっくりと上がる。
缶から注がれた液体が淡いピンク色に光っていた。
「乾杯かな?」
グラスの縁が小さく触れ合う。
一口飲むと、甘いのにピリッと刺すような感覚がした。
喉の奥が熱くなって、その熱が胸のあたりまで広がっていく。
「……なんか変な味だね」
「でしょ?最初はそんな感じだよ」
「でもね、頭は冴えてる感じ」
「それたぶん正解。お酒って正直な気持ちを出すスイッチみたいなもんだから」
「じゃあ須賀さんは今正直?」
「さあ、どうだろ。でも、たぶん……正直すぎるくらい」
その声の低さが空気で揺れた。
須賀さんはグラスをテーブルに置き、軽く背をソファに預ける。
「緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「大丈夫。無理しなくていいよ」
「でも、少しだけ頑張ってみる」
「なんで?」
「須賀さんの前ではちゃんと大人でいたいから」
須賀さんが小さく笑う。
「充分そう見えてるけどね」
その言葉のあと、静けさがゆっくり部屋に沈んでいった。
部屋にはタバコと柔軟剤の匂いが混ざっていて、少しだけ甘い。
照明を少し落とした部屋の中で、外の車の音が遠くに聞こえる。
窓際のカーテンがゆっくり揺れて、光が壁を薄く撫でた。
テーブルの上には、空になりかけた缶とグラス。
氷がひとつだけ残っていて、溶けるたびにかすかな音がした。
「楽しかった?」
須賀さんがそう言って笑う。
「うん。映画もご飯も全部楽しかった」
「よかった」
短いやりとりのあと、言葉のない時間が少し続いた。
「……だからこそまた寂しくなるんだって思うと悲しくなる」
「……」
「彼氏と会うのは嬉しいはずなのに。もう自分の気持ちも彼氏の気持ちも分からない」
その言葉が部屋の静けさに落ちる。
須賀さんはうなずいた。
何も言わないまま、グラスの氷を転がす音だけが響く。
「ーーでも寂しいとか言ったら嫌われちゃうような気がして。新汰くんの負担にはなりたくないし」
その沈黙がなぜか安心に変わっていく。
何も言われないことが、責められないことと同じに思えて、その優しさにすがりつきたくなった。
「……ほんとはもっと話したいし、会いたい。でも、重いとか思われたくないもん」
須賀さんはその言葉を遮らず、ただ見つめていた。
その視線の静けさに、少しだけ泣きそうになった。
「俺はそんなこと思わないけどな。瑠奈ちゃん自分の気持ち言えてるじゃん」
グラスをテーブルに置いて、あたしの方にゆっくり身を寄せた。
その距離は逃げようと思えば逃げられる距離だった。
でも、近づいてくる須賀さんから逃げようとは思わなかった。
誰かに触れられたい夜はたぶん、泣きたい夜と同じくらい甘美なものなんだと思う。
「大丈夫。そんな顔しなくていいよ。楽にして」
「……楽にって言われても」
「そりゃそうか。いきなりは無理だよな」
須賀さんが少し笑って、グラスの中の氷を指で転がす音が響いた。
「別に何もしようとしてるわけじゃないよ」
「ほんとに?」
「疑ってる?」
「だって須賀さんって……なんか人のことすぐ見抜くタイプだから」
「見抜いてるんじゃないよ。瑠奈ちゃんのこと見てるだけ」
「それこわい」
「へえ、こわいのに逃げないんだね」
その一言に息が詰まりそうになる。
須賀さんは微笑んだまま、視線を逸らさない。
「……ねえ、瑠奈ちゃん」
「うん」
「緊張するときは無理に喋んなくてもいいんだよ。沈黙って悪いもんじゃないから」
「……」
「俺、静かな時間けっこう好き。
話すより相手の呼吸とか目の動きの方が落ち着く」
その声が静かで、あたしの中の何かをゆっくり溶かしていく。
照明の色が少しだけ暖かくなって。
部屋の空気がやわらかく変わった。
呼吸の音が近くなって、何も言わなくても伝わるものがある気がした。
「……須賀さんってずるい」
「なんで?」
「そうやって言われたら、緊張できなくなる」
「それなら成功だな」
怖いって思うよりも、この静けさに包まれていたかった。
外では夜風が吹いて、カーテンがまた小さく揺れる。
須賀さんの手があたしの手に触れた。
その一瞬で胸が熱くなる。
「手、冷たいね」
「さっきまで緊張してたから」
「今は?」
「……あったかい」
「ならよかった」
あの瞬間、世界がゆっくり溶けていくみたいだった。
照明の灯りが滲んで、二人の影が壁の上でひとつに重なった。
息が混ざって、鼓動の音がゆっくりと溶けていく。
気づいたときにはもう何も考えられなかった。
指先が触れるたび、世界がやわらかく揺れる。
怖さも、ためらいも、どこか遠くへ流れていく。
——新汰くん。
その名前が浮かんだ瞬間。
胸が少しだけ痛んだ。けれど、その痛みもすぐに薄れてしまう。
須賀さんが小さく息を吐く音がした。
その静けさの中で、低い声が落ちる。
「……瑠奈ちゃんってさ」
「……なに?」
「彼氏いるのに俺に抱かれるとか――悪い子だね」
その言い方は茶化すでも責めるでもなかった。
まるでその事実ごと抱きしめるみたいな優しさで。
熱くなって。
さっきまでの罪悪感がまるで他人の痛みみたいに遠ざかっていく。
「悪い子でも良いよ。須賀さんと過ごすほうが寂しさもなくなるもん」
その言葉が少しだけ甘く響いた。
「それは嬉しいね」
今はただ須賀さんが与えてくれる優しさに包まれていたかった。




