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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
第3章 崩壊と喪失
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第11話 罪悪感とかそんなのない

 お店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 昼間の熱気がまだ残ってるのに、肌を撫でる風だけは妙に心地いい。


 街のネオンが濡れた舗道に反射して、赤や青の光が足元で揺れていた。

 須賀さんが会計を済ませる間、あたしはスマホを開いて時間を確かめた。

 午後20時07分。


「このあとどうする?」

「……少しだけ散歩したいかも」


 自分でも驚くくらい小さな声だったけど、隣を歩く須賀さんにはちゃんと届いていたみたいだ。


「いいよ。夜風気持ちいいしね」


 須賀さんはあたしの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出す。駅とは反対の少し静かな街灯が続く道。


「さっきスマホ気にしてたでしょ」

「え……。あ……うん。ちょっとだけ」

「……怒られちゃった?こんな時間まで連れ回して」

「……ううん。全然」


 隣で前を見据えたまま、須賀さんがふっと口元を緩める。

 あたしが言葉を探して黙ってしまうと、彼はその沈黙を埋めるように、独り言みたいに続けた。


「……こっちの方にね、夜になるとすごく綺麗に見える場所があるんだ。俺が疲れた時にたまに寄るんだけど、瑠奈ちゃんにも見せたいなって思ってた」


 その言い方はあまりに自然で、あたしは頷くことしかできなかった


「あ、着いちゃった。ここ俺の家」


 須賀さんは鍵を取り出しながら、いたずらが見つかった子供みたいに、少しだけ肩をすくめて笑った。


「歩きすぎて、喉乾いたでしょ。さっきのお店より美味しい炭酸、うちにあるんだけど。……少しだけ涼んでいかない?」

「……うん。少しだけなら」


 エレベーターの鏡に一瞬だけ映った自分を見た。

 照明のせいか、リップの色が濃く見える。

 顔が少し火照っていた。


 部屋に入ると、空気が柔らかくて静かだった。

 間接照明だけが灯っていて、机の上に缶チューハイが二本。

 グラスの隣にはライターと灰皿。


「……それ飲んでみたいかも」

「無理に飲まなくていいよ。これ、見た目よりは度数あるし。……まあ、瑠奈ちゃんがどうしてもって言うなら、ちょっとだけ分けてあげてもいいよ」

「うん、一口だけでいいから」


 プシュッという音がして、泡がゆっくりと上がる。

 缶から注がれた液体が淡いピンク色に光っていた。


「乾杯かな?」


 グラスの縁が小さく触れ合う。

 一口飲むと、甘いのにピリッと刺すような感覚がした。


 喉の奥が熱くなって、その熱が胸のあたりまで広がっていく。


「……なんか変な味だね」

「でしょ?最初はそんな感じだよ」

「でもね、頭は冴えてる感じ」

「それたぶん正解。お酒って正直な気持ちを出すスイッチみたいなもんだから」

「じゃあ須賀さんは今正直?」

「さあ、どうだろ。でも、たぶん……正直すぎるくらい」


 その声の低さが空気で揺れた。

 須賀さんはグラスをテーブルに置き、軽く背をソファに預ける。


「緊張してる?」

「……ちょっとだけ」

「大丈夫。無理しなくていいよ」

「でも、少しだけ頑張ってみる」

「なんで?」

「須賀さんの前ではちゃんと大人でいたいから」


 須賀さんが小さく笑う。


「充分そう見えてるけどね」


 その言葉のあと、静けさがゆっくり部屋に沈んでいった。

 部屋にはタバコと柔軟剤の匂いが混ざっていて、少しだけ甘い。


 照明を少し落とした部屋の中で、外の車の音が遠くに聞こえる。

 窓際のカーテンがゆっくり揺れて、光が壁を薄く撫でた。


 テーブルの上には、空になりかけた缶とグラス。

 氷がひとつだけ残っていて、溶けるたびにかすかな音がした。


「楽しかった?」


 須賀さんがそう言って笑う。


「うん。映画もご飯も全部楽しかった」

「よかった」


 短いやりとりのあと、言葉のない時間が少し続いた。


「……だからこそまた寂しくなるんだって思うと悲しくなる」

「……」

「彼氏と会うのは嬉しいはずなのに。もう自分の気持ちも彼氏の気持ちも分からない」


 その言葉が部屋の静けさに落ちる。


 須賀さんはうなずいた。

 何も言わないまま、グラスの氷を転がす音だけが響く。


「ーーでも寂しいとか言ったら嫌われちゃうような気がして。新汰くんの負担にはなりたくないし」


 その沈黙がなぜか安心に変わっていく。

 何も言われないことが、責められないことと同じに思えて、その優しさにすがりつきたくなった。


「……ほんとはもっと話したいし、会いたい。でも、重いとか思われたくないもん」


 須賀さんはその言葉を遮らず、ただ見つめていた。

 その視線の静けさに、少しだけ泣きそうになった。


「俺はそんなこと思わないけどな。瑠奈ちゃん自分の気持ち言えてるじゃん」


 グラスをテーブルに置いて、あたしの方にゆっくり身を寄せた。

 その距離は逃げようと思えば逃げられる距離だった。


 でも、近づいてくる須賀さんから逃げようとは思わなかった。


 誰かに触れられたい夜はたぶん、泣きたい夜と同じくらい甘美なものなんだと思う。


「大丈夫。そんな顔しなくていいよ。楽にして」

「……楽にって言われても」

「そりゃそうか。いきなりは無理だよな」


 須賀さんが少し笑って、グラスの中の氷を指で転がす音が響いた。


「別に何もしようとしてるわけじゃないよ」

「ほんとに?」

「疑ってる?」

「だって須賀さんって……なんか人のことすぐ見抜くタイプだから」

「見抜いてるんじゃないよ。瑠奈ちゃんのこと見てるだけ」

「それこわい」

「へえ、こわいのに逃げないんだね」


 その一言に息が詰まりそうになる。

 須賀さんは微笑んだまま、視線を逸らさない。


「……ねえ、瑠奈ちゃん」

「うん」

「緊張するときは無理に喋んなくてもいいんだよ。沈黙って悪いもんじゃないから」

「……」

「俺、静かな時間けっこう好き。

 話すより相手の呼吸とか目の動きの方が落ち着く」


 その声が静かで、あたしの中の何かをゆっくり溶かしていく。

 照明の色が少しだけ暖かくなって。

 部屋の空気がやわらかく変わった。


 呼吸の音が近くなって、何も言わなくても伝わるものがある気がした。


「……須賀さんってずるい」

「なんで?」

「そうやって言われたら、緊張できなくなる」

「それなら成功だな」


 怖いって思うよりも、この静けさに包まれていたかった。


 外では夜風が吹いて、カーテンがまた小さく揺れる。

 須賀さんの手があたしの手に触れた。

 その一瞬で胸が熱くなる。


「手、冷たいね」

「さっきまで緊張してたから」

「今は?」

「……あったかい」

「ならよかった」


 あの瞬間、世界がゆっくり溶けていくみたいだった。


 照明の灯りが滲んで、二人の影が壁の上でひとつに重なった。

 息が混ざって、鼓動の音がゆっくりと溶けていく。


 気づいたときにはもう何も考えられなかった。

 指先が触れるたび、世界がやわらかく揺れる。

 怖さも、ためらいも、どこか遠くへ流れていく。


 ——新汰くん。


 その名前が浮かんだ瞬間。

 胸が少しだけ痛んだ。けれど、その痛みもすぐに薄れてしまう。


 須賀さんが小さく息を吐く音がした。

 その静けさの中で、低い声が落ちる。


「……瑠奈ちゃんってさ」

「……なに?」

「彼氏いるのに俺に抱かれるとか――悪い子だね」


 その言い方は茶化すでも責めるでもなかった。

 まるでその事実ごと抱きしめるみたいな優しさで。


 熱くなって。

 さっきまでの罪悪感がまるで他人の痛みみたいに遠ざかっていく。


「悪い子でも良いよ。須賀さんと過ごすほうが寂しさもなくなるもん」


 その言葉が少しだけ甘く響いた。


「それは嬉しいね」


 今はただ須賀さんが与えてくれる優しさに包まれていたかった。

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