第10話 俺なら放っとかないのに
昨日久しぶりに新汰くんと会えるはずだった。彼から届いたのは「ごめん。予定入った」という短い文字だけで。それ以降一度も通知が鳴ることはなかった。
……あたしは新汰くんのなんなんだろ。彼女ってほんとに言えるのか分からない。もう寂しさを紛らわせるのも限界で。だからこそ今日、須賀さんと会うことにした。誰かと会ってないと自分がどうかなりそうだから。
ドレッサーの前に座って、鏡に映る自分をじっと見つめる。
紺色のワンピースは昨日の夜に何度も鏡の前で合わせた。
肩のラインが少しだけ開いていて、動くたびに生地が光を拾う。
リップを塗る手が少し震えていた。
似合ってるかどうかじゃなくて、今日はあの人に子どもじゃないって思われたかった。
香水をワンプッシュだけ多くして、髪をアイロンで軽く巻く。
鏡越しに見ると、いつもより大人っぽい顔が映っていた。でも、どこか無理をしてる自分も分かる。
バッグの中にスマホと財布を入れて、深呼吸をひとつ。
駅前は真夏の熱気が立ちこめていた。
アスファルトの照り返しに目を細める。
スマホの画面には〈もうすぐ着く〉の文字。
数分後、人の波の中から須賀さんが歩いてくるのが見えた。
モノトーンでまとめた服装。
白いシャツの袖を軽くまくって、黒のスラックスは細身でラインがきれい。
胸元には小さなシルバーのネックレス、腕には黒革の時計が光を受けてきらりと光った。
歩き方に無駄がなくて、まるで街の空気ごと自分のリズムに変えてしまうみたいだった。
「待った?」
「ううん、今来たとこ」
あたしの声は少しだけ硬い。
それに気づいたのか須賀さんは軽く笑った。
その笑い方がどこかゆっくりしていて、空気の温度まで変わった気がした。
「前も思ってたけど、瑠奈ちゃんワンピ似合ってるね」
「え……」
「シンプルなのに、ちゃんと大人っぽい。あ、褒めてるからね」
「……ありがとう」
「照れてますって顔に書いてあるよ」
「そういう須賀さんのほうが自信ありそう」
「いや、俺も緊張してるって。可愛い子と昼からデートなんてそうそうないし」
冗談っぽいのに、その言い方がやけに自然で、心臓が少しだけ跳ねた。
「でも、ほんと似合ってる。黒とか好きなの?」
「うん。なんか落ち着くから」
「わかる。モノトーンって余計なこと言わなくても絵になるよね」
須賀さんは少し笑って、空を見上げた。
白いシャツの袖が風でふわりと揺れる。
腕時計の銀色が陽にきらっと光る。
「映画、間に合いそうだね」
「うん」
「今日のはちゃんと選んできたから」
「ちゃんと?」
「LIMEで恋愛ものは苦手って言ってたから、少し笑えるやつにした」
「覚えてたんだ」
「そういうのは覚えるタイプ」
その言葉の響きが、軽いのにちゃんと残った。
この人は話すたびに距離の取り方がうまい。
人の流れが動き出す。
指先がかすかに触れて、あたしは何も言えなかった。
映画館を出ると、夕方の光が街のガラスに反射していた。
外は人が多くて、湿った風にポップコーンの匂いが混ざっている。
あたしは無意識にバッグのストラップを握りしめていた。
「思ったより面白かったね」
須賀さんが軽く笑いながら言う。
「うん。途中でちょっと泣きそうになった」
「意外。ああいうとこで泣くタイプなんだ」
「そうかな?」
「うん、そういうとこいいと思うよ」
軽く言われただけなのに、心臓が跳ねた。
須賀さんの声はいつも穏やかで、一つひとつの言葉が相手の皮膚のすぐ下に届くような距離感だった。
信号を渡って、裏通りに入る。
人通りが少なくなって、街の喧噪が少し遠のく。
「このへんにいい店ある?」
「うん。前に友達と来たことがある。料理うまいし、静かだから多分気に入ると思う」
須賀さんがそう言って、通りの角を曲がる。
外観はレンガ造りで、ガラス越しにオレンジの灯りが見えた。
「……おしゃれ」
「緊張してる?」
「ちょっとだけ」
「大丈夫。ここ意外と落ち着くよ」
お店に入ると、ジャズが小さく流れていた。
二人用のテーブルに案内され、メニューを開くと、名前を知らない料理ばかり。
「好きなの頼んでいいよ。俺、適当に合わせるから」
「え、でも……」
「気にしない。――頑張った日のご褒美ってことで」
その言い方が自然すぎて、一瞬だけ心がゆるんだ。
料理が届いて少ししてから、須賀さんがワイングラスを指先で軽く回しながら言った。
「そういえばさ、彼氏いるんでしょ?」
「……うん」
「どんな人?」
「優しい。……けど、最近あんまり会えてない」
「へぇ。彼は忙しいの?」
「うん、たぶん」
須賀さんはフォークを持ったまま、少しだけ目線を下げて笑った。
「ま、男って安心するとサボる生き物だからな。もう掴めたって思った瞬間、努力をやめる」
「サボるって……」
「悪い意味じゃないよ。気を抜くんだ。
でもな、可愛い子放置するやつは正直バカだと思う」
「……そんなことないよ」
「あるって。俺なら――瑠奈ちゃんのこと、放っとかないけどな」
その言葉のあとで、テーブルの上のグラスが小さく触れ合う音がした。
あたしは息を飲んで、目の前の須賀さんを見た。
ふと心が溶けるような感覚になった。
誰にも言えなかった言葉をちゃんと拾われた気がした。




