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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
第3章 崩壊と喪失
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第8話 気持ちの変化

 駅を出ると、夏の光が一気に視界を満たした。

 潮の匂いを含んだ風が吹き抜け、遠くで子どもの笑い声が弾ける。

 キャットランドのゲートに向かう人の流れはまるでひとつの波みたいにゆるやかだった。


 アスファルトの照り返しが白く滲んで、足元に落ちる影がゆらゆら揺れる。

 風鈴みたいな電子音が鳴っている。どこからか流れてくるテーマソングが熱気に溶けてぼやけた。


 あたしは改札を抜けて、日陰を探しながら立ち止まった。

 白いノースリーブのシアーシャツが光を反射して少し眩しい。

 ハイウエストのリボンを結んだ結び目が太陽の光を小さく跳ね返した。

 首筋に汗がひと筋伝って、慌ててハンカチで拭った。


 スマホを開くと、LIMEの画面には〈あと少しで着く!〉のまま。

 もう十一時を過ぎている。

 画面の光が目に刺さるみたいに白くて、ふと数日前の夜の照明の色を思い出した。


 あのときの笑い声、グラスの音。

 須賀さんが何気なく言った「また集まろう」の響き。

 頭のどこかにその声がこびりついて離れない。


 今日は新汰くんと会う日なのに須賀さんのこと思い出すなんて、ほんとバカみたい。


 手すりの向こうでは海風に揺れる看板のネコの耳がぱたぱた動いている。

 その仕掛けがやけに目に残った。

 風が吹くたび、笑い声と潮の匂いがいっしょに運ばれてくる。


 やがて人の波の向こうに新汰くんの姿が見えた。

 淡いグレーのシャツにTシャツ、肩からリュック。

 少しだけ寝ぐせの残る髪が光を受けて揺れている。


「……ごめん、待った?」


 笑いながら片手を上げて近づいてくる。

 あたしは首を横に振ったけど、そのごめんの軽さがわずかに残った。


「全然。今来たところ」


 自然に言えた声がちょっとだけ嘘くさく響いた。


 本当は十分前からここにいたのに。

 それでも怒る気になれない。

 ただ……前みたいには笑えない。


 新汰くんが手を差し出す。

 指の長さも握る力の加減も覚えているはず。触れた瞬間、少しだけ息を止めた。

 一瞬ためらってからその手を取った。

 ……ちゃんと新汰くんのことは好きなはずなのに、前みたいにドキドキしない。


 あの日——須賀さんに肩を触れられた感覚が、一瞬だけ頭をかすめた。

 そのことに冷たくなって、すぐに振り払うようにぎゅっと握り返す。


 その手の温度がまるで別の季節のものみたいに感じた。

 新汰くんの手はあたたかいのにどこか遠くの人の手を握っている気がした。


「行こっか。混んでそうだね」

「うん」


 靴の音がアスファルトに重なって、夏の空気の中に小さく響いた。

 真夏の日差しの中、キャットランドのゲートが見えてきた。

 ミントブルーの屋根の下にはカチューシャをつけた女の子たちが笑いながら列を作っている。


 風が通り抜けるたび、ポップコーンの甘い匂いと潮の香りが混ざって胸に流れ込む。

 新汰くんがあたしを見て微笑んだ。


「久しぶりだね。こういうの」

「……うん」


 声が小さくなった。笑顔のまま目だけがうまく動かない。

 風が吹き抜けて、マスタード色のショートパンツの裾がふわっと揺れる。

 布が脚に触れるたび、自分の体温が少しだけ上がっていくのを感じた。

 ふたりの間に落ちた沈黙が夏の光よりも熱く感じた。


 何も変わってないはずなのに、新汰くんの笑顔が少し遠く見えた。

 まぶしい光のせいなのか。

 それともあたしの心がどこか別の場所にいるせいなのか。


 同じ場所に来たのに、前よりも遠い気がする。

 それでも笑わなきゃいけない気がした。

 この時間を壊したくない。

 そんな義務みたいな思いがぐるぐると渦巻く。


 ゲートの向こうでは猫のマスコットが手を振っている。

 子どもたちの声、ベルの音、スタッフの明るい呼び声。

 全部が少し眩しすぎて、目を細めたまま、あたしはその中に溶けていった。


 昼の光が強くて、舗道の石が白く光っていた。

 レストランのテラス席にはパラソルが並び、風に揺れる影が地面に落ちている。

 どこを見ても笑顔ばかりで、夏の音が遠くまで続いていた。


「これ意外と美味しいね」


 新汰くんがハンバーガーをかじりながら言う。その声を聞いて、あたしも笑いながら頷いた。

 グラスの中の氷がカランと鳴って、太陽の下ではその音さえ少し遠くに感じる。


「うん、思ったよりちゃんとしてる」

「瑠奈、こういうとき絶対一言多いよね」

「そうかな?」


 笑い合って、少しだけ沈黙。

 テラスの隅で風鈴みたいに氷が鳴る。

 それでも嫌な空気じゃなかった。


 でも——何かが少し足りない気がした。

 同じ時間を過ごしているのに、空白があるような感覚。

 

 新汰くんと会えるのはほんとは嬉しいはずなのに、ずっと変で戸惑ってしまう。


「そういえば夏休みの宿題進んでる?」

「ううん。全然。数学がもう終わってるって言ったら信じる?」

「うそだね」

「ほら分かってるじゃん」


 新汰くんが肩をすくめる。

 その動きに合わせて、彼の腕が少しだけあたしの方に触れた。太陽の熱とは違うぬくもり。

 なのに、その瞬間にふっと冷めるような感覚が走った。


 氷の溶ける音がストローの奥で小さく響く。

 新汰くんは視線を前に向けたまま「次、どこ行こうか」と言った。


「あの観覧車とか?」

「ああ、いいね。暑いし、涼しそう」

「でも並びそうだよ」

「じゃあ並ぼっか。待つのもデートっぽいし」


 あたしは笑いながら頷いた。


「そういうの久しぶりに聞いた気がする」

「え、なにが?」

「デートっぽいとか。そういうの」

「……そうかもな。最近あんまり一緒に出かけてなかったし」


 その一言であたしの気持ちの温度が少し下がった。

 風が通り抜けて、紙ナプキンがテーブルからふわりと落ちる。

 新汰くんがそれを拾って、少し照れたように笑った。


「風強いね」

「うん……」


 その声色は優しいのにまでは届かない。

 目の前にいるのに少し遠い。

 それでもこうして笑っていたいと思ってしまう。


 遠くで猫のカチューシャをつけた子どもが走っていく。

 その後ろ姿を見送りながら、あたしは知らない誰かみたいに自分の笑顔を見つめていた。

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