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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
第3章 崩壊と喪失
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第7話 彼との出会い

 街は昼間の熱をまだ抱えていた。

 アスファルトに残る陽の名残が滲み、信号の赤が少しだけ揺れて見える。

 湿った風が頬を撫でるたびに、肌の上に薄く残った汗が冷えていく。


 新汰くんとはもうしばらく会っていなかった。

 一ヶ月記念の日も急な用事で流れて。

 それ以降も――。


「テストが終わったら」

「部活が落ち着いたら」

「ごめん、その日は忙しいからまた今度で」


 彼との距離感が前より遠くなった。あたしって新汰くんの何?先にあっちから告白してきたのに。そんな気持ちが沸々と沸いてしまう。


 寂しいという感情を紛らわせたい。

 あたしという存在を誰かにみてほしい。

 誰かに愛されたい。


 そんな複雑な気持ちが積み重なって、あたしは寂しいっていう感情を持て余していた。


 だから、ホームパーティーを莉子から誘われて「行かない方がいいかな」と思いながらも、勝手に行くと返事してしまった。そこに新汰くんに内緒でパーティーに行くことへの罪悪感はなかった。


 エレベーターの中で鏡を見た。

 黒いワンピースは少し背伸びしすぎかもしれない。


 少しだけ大人になりたかった。

 鏡越しの自分がほんの一瞬だけ知らない女の子に見えた。

 その違和感が少しだけ心地よくて、くすぐったくて、笑いたいような逃げたいような気分になる。


 ガラス越しに夜の街が光って見えて、鼓動が一つ余計に跳ねた。

 エレベーターの数字がひとつずつ上がるたび、足の裏が少しずつ熱を帯びていく。


 ドアが開いた瞬間、部屋の中からR&Bの低いベースが響いてきた。

 空気の層がひとつ変わる。


 間接照明のオレンジが壁を柔らかく染め、グラスの氷が光を受けて、ゆっくり溶けていく音がする。

 ピザの匂いと少し強めの香水の香り。

 甘いのにどこか刺激的で——喉が少し渇く。


 知らない世界の匂いだ……。

 でもなんか……落ち着く。

 息を整えるように一度だけ深呼吸した。


「お〜、来た来た!」


 誘ってくれた莉子の向こう側に、ソファに座る一人の男の人がいた。


 その人は多分、大学生くらいで、黒の開襟シャツに白いTシャツを重ねて、袖口から覗く腕の筋がやけにきれいだった。


 胸元では細いシルバーのネックレスが照明を受けて、一瞬だけ光を跳ね返す。

 香水の匂いがふわりと流れて、それがこの部屋の甘さと混ざる。


 グラスを軽く傾けながら、余裕のある笑みを浮かべていた。

 その視線がふとあたしとぶつかる。


 一瞬、息が止まる。

 見つめられたというより、吸い寄せられた——そんな感覚。

 目を逸らそうとしても動けなくて、息が小さく震えた。


「飲む?」と軽く聞かれて、あたしは少し迷って「コーラで」と答えた。


 彼は笑って、氷の入ったグラスを差し出す。

 その手の甲に光が反射して、ほんの少しだけ眩しく見えた。


「偉いね。ちゃんとしてる」

「そうですか?」

「うん、そうだよ、あ、俺には全然タメ語でいいからね」

「わかり……分かった」


 彼の言葉のトーンがやけに柔らかくて、ちょっとだけほっとした。


 どこか怖い。

 だけど、なんか心地良い……かも。


 ソファの向こうでは、数人がピザを取り分けながら笑っている。


「この曲懐かしくない?」

「平成R&Bって逆に新しくね?」


 そんな声が重なって、氷の音と一緒に溶けていく。


 ここだけ時間の流れが違うみたい。

 誰も明日のことなんて考えてない。


 彼はグラスを軽く揺らして「あ、そういえばさ」って言う。


「名前なんていうの?」

「……瑠奈」

「……瑠奈ちゃんって言うんだ。名前からして綺麗だね」


 そう言った瞬間、彼の声が少しだけ低くなった。

 一拍、音が止まる。

 R&Bのベースが遠くに下がって、氷がカランと鳴る音だけが近くに残った。


 ただ名前を呼ばれただけなのに、体が少し熱くなった気がした。ゆっくりと波を打つ。

 さっきまで知らなかった夜の匂いが一気に近づいた気がした。


「そんなことないです」

「あるって。名前って顔に似てるらしいし。――あ、褒めてるよ」


 一瞬の沈黙。

 彼は笑わずにグラスを口に運んで、そのまま少しだけ視線を逸らした。

 まるであたしがどう反応するか確かめているみたいだった。

 時間が少し伸びる。

 遠くで誰かが笑う声がして、氷がまたひとつ溶ける音がした。


 冗談っぽく言うのに、その目だけがまっすぐで。

 照れくさくて、思わず笑ってごまかした。


「うん……」

「ごめん、まだちゃんと名乗ってなかったよね。俺、遥斗。須賀遥斗」

「須賀さんは大学生なんですか?」

「うん。大学一年。まだキャンパスの地図も覚えられてない新入り」


 彼の声が少し低くなって、部屋の空気がわずかに動いた。

 その言葉のあと、ほんの数秒だけ彼は何も言わなかった。

 グラスを指先で転がす音と冷房の風が混ざる。

 その沈黙が不思議と心地よく感じる。

 自分の呼吸の音だけがやけに近くに聞こえて、少しきゅっとした。


 軽く笑いながら言うその声が、BGMよりも低くて、耳に残る。


「一年生なんだ」

「うん。入ったばっかで、まだサークルも決めてなくてさ。なんか大学生って響きに自分が追いついてない感じ」


 言葉のあいだに短い間があって、そのたびに氷がゆっくりと揺れる音がした。

 彼の声は落ち着いているのに、どこかあどけなさも混じっていて——。

 そのギャップが可愛くて。


「大学生って自由そう」

「自由……っていうか。サボるのも自由って感じ。後悔するのも自由って感じ?でも、今日は後悔しない日にしたいかな」

「なんで?」

「だって、こんな可愛い子と初めて喋ってるのに、後悔したらもったいないじゃん」

「そういうこと言うんだ」

「うん、言っちゃう」

「……そんなこと急に言わないでよ」


 須賀さんは少しだけ口角を上げて、わざとらしく肩をすくめた。


「やっぱりそう思った?でも、そう言われると余計喋りたくなるんだよね」

「……そういうタイプなんだ」

「聞き上手って言ってよ。——ほら、瑠奈ちゃんの話もっと聞きたいな」


 その言葉のあと、ほんの数秒間だけ彼は何も言わなかった。

 グラスを持つ手を止めて、ゆっくりと視線を落とす。


 氷が小さく鳴って、その音だけが空気を震わせる。

 笑っていた表情が一瞬だけ静かになって、その沈黙の間にあたしの鼓動がやけに大きく聞こえた。


 少し乾いて、思わずグラスを握り直す。

 彼の横顔が照明の光を受けて輪郭だけやわらかく浮かぶ。


 何か言おうとしたのに、言葉が出てこなかった。

 ただその間の中に自分の息の音だけが残っている気がした。


「え、何話せばいいの?」

「うーん……好きな映画とか。あと、最近ハマってることかな」


 あたしはグラスを指先でくるくる回した。

 氷が触れ合うたびに、小さな音が鳴る。

 照明がゆらいで、須賀さんの横顔をオレンジに染める。

 笑っているのにどこか目だけが真面目でその視線が肌に触れるたび、息が浅くなっていく。


「映画は……最近あんまり行けてなくて。でも、音楽は好き」

「へぇ、どんな?」

「洋楽とか静かなやつ」

「まじで?意外。——もっと明るい系が好きそうなのに」


 そのあと、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべて黙った。

 氷を口に運ぶのでもなく、グラスの縁をゆっくり指でなぞる。


 目は笑っているのに、どこかであたしの反応を探っているようだった。

 照明が反射して、彼の指先が一瞬だけ光る。

 その光の動きに目が離せなくなる。


 少しざわついて、息を吸うタイミングを間違えたみたいに熱くなる。


「そう見えます?」

「うん。雰囲気がさ。ちょっと陽の光っぽい。でも、静かな曲ってことは意外と夜型なんだ?」

「夜型……かもしれません」

「だよね。こういう夜に来てる時点で俺と同じだね」


 言葉の合間に短い沈黙が挟まる。

 部屋では誰かが笑い、グラスがぶつかる音。

 それが遠くに感じるくらい、目の前の距離だけが近い。

 須賀さんの指がグラスの縁をなぞっていて、その仕草に目が吸い寄せられる。

 ほんの少し喉が鳴った。

 その小さな音が妙に大きく響いた気がして思わず視線を落とした。


「……そんな顔してました?」

「うん、いい意味で普段の顔じゃない日っぽい」


 心臓が小さく跳ねた。

 普段の顔…って何?

 そんなの自分でも分からないのに、どうしてこの人は当たり前みたいに言うんだろう。


 須賀さんはすぐに笑って「なんてね」と軽く肩をすくめた。

 その仕草で空気が少しだけ和らぐ。

 だけど、さっきの言葉の余韻がまだ残っていた。


「須賀〜、ピザ食えよ!」

「あとで行く」


 その笑顔に周りの空気がまた柔らかくなる。

 中心にいるのに、騒ぎに染まらない人。

 そんな印象だった。


「……須賀さんって、話しやすいですね」

「ほんと?それ一番嬉しいかも。俺、たぶん女の子と話すときは八割くらい聞き役だから」

「聞き役?」

「うん。話してくれたら、それで十分楽しいし」


 その言葉に少し笑って、グラスの氷を見つめる。

 照明が反射して、まぶしい。

 なのに、須賀さんの声だけは不思議と遠くならなかった。

 その声を追うように呼吸を整える。


 知らない場所なのに。

 この人の声だけはちゃんと届く。


「あ、LIME交換しようよ」

「え、あ……うん」

「そんな緊張しなくていいって。ほら、QR出して」


 あたしがスマホを開くと、須賀さんが身を少し乗り出して、画面を覗き込むように近づいてくる。

 顔の距離が近い。

 柔らかい香水の匂いがふっと漂って、息が止まる。


「……ありがとう。登録っと」


 画面の音が鳴って、その瞬間だけ周りのざわめきが遠のいた気がした。

 音楽も会話も遠くで揺れていて、この場所だけ別の時間が流れているように感じた。


「こんな可愛い子と交換できて嬉しい」

「またそういうこと言って」

「ほんとだって。――あ、でも可愛いって言われ慣れてるでしょ?」

「全然。言われ慣れてたら、こんなに照れません」


 須賀さんは小さく笑って、グラスを揺らした。


「……瑠奈ちゃんのそういうとこずるいくらい可愛いよ」


 一拍の間。

 その言葉の後、彼は何も足さなかった。

 笑い声も音楽も少し遠くに霞む。

 ただ視線だけが残って、その温度がゆっくりと肌に染みていく。


 確かに可愛いって言葉は言われ慣れてるけど……。

 でも、須賀さんに可愛いって言われるとなぜか、それだけで信じたくなってしまう。そんな不思議な力があるような気がした。


 誰かが笑う声、グラスの氷が鳴る音。

 それらがすべて、少し遠くに霞んでいく。

 部屋の空気は少し熱を帯びて、指先に汗が滲む。

 オレンジの照明が、テーブルの上のグラスを金色に光らせていた。


 須賀さんは笑いながら言った。


「また集まろうよ。今日、楽しかったし」


 その言葉のあと、少しだけ間があった。

 須賀さんはグラスを軽く傾けて、溶けかけた氷を眺めている。

 笑っているのに声を出さない。

 その沈黙がなぜかやけに穏やかで――言葉よりも心に残った。


 そのとき、向こうのソファから誰かが軽く茶化す声がした。


「おーい須賀〜!また新しい子?早くピザ食えって!」

「紹介しなよ〜!」


 莉子が苦笑いしながらこっちを見て手を振る。


「瑠奈ごめんね。あいつら酔ってるだけだから!」

「大丈夫だよ」

「……そっか。じゃ、行こうか。ピザが冷める前に」


 そのまま自然に手を差し出して、あたしが少し戸惑いながらも立ち上がると、軽く背中を押してソファのほうへ導いた。


 テーブルの周りでは数人が笑いながら皿を回していて、部屋の空気が少しだけ騒がしくなる。


「須賀〜、その子どこで知り合ったの?」

「さっき来たばっか。莉子ちゃんの友達らしい」

「へぇ、可愛いねー!」

「遥斗ばっか可愛い子が集まるからずりぃよな」

「やめろって、ビビらせんな」


 笑い声が弾けて、ピザの箱が開く。

 チーズの匂いがふわっと広がって、さっきまで張り詰めていた心が少しだけ緩む。


「そんなことないですよ。あたしなんて全然」


 思わず口から出ていた。

 莉子が笑いながら口を挟む。


「そうなんですよ。中学生のとき、男子から瑠奈はめちゃめちゃモテてましたからね。羨ましいですよ、ほんと」

「え、莉子!やめてよ……そんな昔の話」


 周りが「やっぱりモテるんじゃん!」と笑い、空気が少し弾む。

 その中で須賀さんだけが、何も言わずにあたしを見ていた。

 目が合った瞬間、少しだけ熱くなる。


 でも、可愛い子が集まるという言葉が、小さく残ったまま消えなかった。

 あたしは笑ったふりをしながら、心のどこかでその言葉の意味を反芻していた。


 莉子がペットボトルのコーラを差し出した。


「飲める? お酒じゃないけど」

「うん、ありがとう。莉子っていつもこういうところ来てるの?」

「うん、楽しいしね。瑠奈もまた来てくれたら嬉しいよ」

「うん」


 須賀さんは隣で紙皿を受け取りながら笑う。


「ほら、取って。チーズまだ伸びるうちに」

「うん。ありがと」

「美味しい?」

「……美味しい」


 その声が混ざった笑いの中でもはっきりと届いて、また少し熱くなる。


 帰り道、夜風が肌に触れて少し冷たかった。

 ビルの窓に映る街の光が滲んで、さっきまでの部屋のオレンジ色がまだ瞼に残っていた。


 ヒールを脱ぎたくなるほど足が少し疲れて、信号待ちのたびに風が髪を揺らす。

 車のクラクションと遠くの笑い声が混ざって、夜がゆっくりと遠ざかっていく。


 〈今日は楽しかった。また会おう〉


 指先でその文字をなぞりながら、ふわりと熱くなる。


 駅のホームに吹き込む風が少しだけ甘くて、どこか切なかった。

 オレンジの照明の残り香がまだ肌に残っている気がして、頬を触るとほんのり熱い。


 少しくらいならいいよね。

 こんな夜があっても。

 誰にもバレないなら――。


 たぶん、あの瞬間に。

 あたしの時間は静かに動き出してしまったんだ。

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