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透明な彼と真っ黒な彼女  作者: 栖川 葵依
第3章 崩壊と喪失
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第6話 時間が逆流していく

 部屋の電気はつけなかった。

 スマホの光だけが天井にぼんやりと反射している。

 白い光がゆらいで、壁の影がゆっくりと呼吸しているみたいだった。


 時計の針が動いているのに、時間が止まっているように感じた。

 鼓動が遅い。呼吸が浅くて、空気が冷たい水みたいに溜まっていく。

 まぶたの裏まで重くて、自分の身体の輪郭がどこまでなのかがわからなくなる。


「……もういいや」


 その声が自分の声なのかもわからなくなる。

 音が消えた部屋に言葉だけが溶けていく。


 もう誰の声も聞こえない。

 世界全体が音を失ったみたいで、聞こえるのはかすかな呼吸と時計の秒針だけ。


 枕元のスマホが震えた。

 微かな振動が沈んだ夜の空気を揺らす。

 見覚えのある通知。


 〈落ちぶれて清々する〉

 〈もう関わらないで〉

 〈裏であんなことしてたんだね。軽蔑する〉

 〈写真見たよ。信じられない。最低だね〉

 〈みんなもう知ってるよ〉


 通知の光が夜の静寂に何度も明滅した。

 一つ一つの名前が小さく突き刺さる。


「……ただみんなに愛されたかっただけなのに」


 唇がほとんど動いていないのに音がこぼれた。

 自分の声が自分のものじゃないみたいだった。


 なんでこうなるんだろ。

 誰に言うでもなく、思考がそのまま息になって消えていく。


 もういろんなことに疲れた。

 スクロールした先に画像があった。

 ホテルの前で笑っている自分。

 遥斗くんが隣にいて、手があたしの肩に触れかけている。


 もう一枚は夜の路上。

 街灯の下で、顔を近づける二人の影。

 モザイクがかかっていても、髪の色も服も全部自分だとわかってしまう。


 その下には遥斗くんとのLIMEのやり取りの様子が切り抜かれている。


 〈早く会いたい〉

 〈昨日の続きまたしたい〉


 そんな文字が残っていた。

 見た瞬間、心臓がきゅっと縮んだ。

 あの夜の体温が皮膚の裏から蘇るみたいで、息をするのが怖くなった。


 どうして、こんなものが外に出たんだろう。

 知らない誰かがあたしの秘密を握っている。

 どこで撮られたのかも、誰が流したのかもわからない。


 まさか遥斗くんが?いや、彼はそんな面倒なことはしない。ならあのとき一緒にいた誰か?


 考えれば考えるほど怖くなって、息が浅くなっていく。


 指先が冷たい。


 さっきまで現実だった時間が、どんどん遠くの映像みたいに感じる。

 もう取り消せないんだと思った瞬間、何かが静かに崩れた。


 ……そのうち通知の音すら鳴らなくなった。


 光の消えたスマホの表面に泣き腫らした自分の顔がぼんやり映る。


 世界があたしを忘れていくみたいだった。


 シーツの匂いがやけに遠く感じる。

 昼に泣いた涙の跡が乾いて、頬が少し突っ張っていた。

 指先が冷たくて、スマホの熱だけが現実。

 それを確かめるように親指で画面をなぞる。


 涙はもう出なかった。


 泣く気力とか怒る気持ちがどこかに消えていた。

 ただ無音の夜があたしを呑み込んでいく。


 ……あたしって何だったんだろう。


 声に出したわけでもないのに、その言葉が部屋に広がっていくような気がした。


 思考が途切れ途切れになる。


 頭が空っぽで、ただ光だけが瞬いている。


 スマホのロック画面。

 通知はもうない。でも、指が勝手に動いた。

 トークアプリを開く。

 そして彼とのチャット欄を開いてしまう。もう1月17日から連絡が止まっている。既読は相変わらずついてない。もう数ヶ月も経つのに。


 〈今日は楽しかった〉


 その文字がゆらゆらと光の中で揺れて見えた。


 ……どうして。あのときにあたしは。


 やっぱり遥斗くんに捨てられたんだ。薄々そのことは分かっていたことだけど、捨てられるはずないと慢心していた。彼氏から振られたあたしに何の価値もないのに、遥斗くんがいればそれでいいと感じてしまったから。


 それを認めるのが怖くて逃げ回っていたら、浮気したことが親友たちやクラスメイト、先生や家族にバレてしまった。そして一番知られたくなかった佑磨くんにも。


……自業自得なのはわかるけど、認めたくない。認めてしまったら余計あたし自身が惨めに思えてくる。


 過去の記憶が静かに滲み出す。

 部屋の中に漂う柔軟剤の匂いがあの夏の夜の匂いと混ざっていく。


 時間がゆっくりと逆流し始めた。


 世界が止まっているのに、スマホの光だけがまだあたしを見ていた。

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