第5話 欠陥品なあたしと優良品なお姉ちゃん
玄関の明かりはついているのに、家全体が息を潜めているようだった。
外の風も遠くで切れ、まるでこの家だけが時間から切り離されたみたいに静かだ。
靴を脱ぐと足元の大理石が冷たくて、ひやりとした感触が皮膚の奥に染み込む。
スリッパに足を入れると、柔らかいはずの底が妙に硬く感じた。
一歩進むたび、擦れる音が廊下に薄く反響して、広い空間にその音だけが浮かび上がる。
制服の裾が少し湿って重い。
昼の雨が乾かず、湿気の残る布が脚にまとわりつく。
喉がカラカラに乾いて、息が苦しい。
玄関からリビングまでの廊下が、いつもよりずっと長く感じた。
壁の間接照明が一つひとつ順番に点いていて、その光があたしの影を引き伸ばして、床にゆらゆらと映している。
どこを歩いても、光が追いかけてくるようで怖かった。
リビングの扉の向こうから、時計の音が聞こえる。
カチ、カチと静かに正確に。
そのたびにきゅっと締めつけられる。
ドアノブに手をかけると、真鍮の冷たさが指に伝わった。
手のひらが汗ばんで、金属の感触が重く感じる。
息を詰めて、ゆっくりと押し開ける。
そこにはパパとママ、お姉ちゃんが並んで座っていた。
テレビは消され、カーテンも閉じられ、食卓の上の照明だけが橙色に光っている。
暖かいはずの光なのに、部屋の空気は冷たかった。
その橙が三人の顔をくっきり照らし出し、まるで裁きの場のスポットライトみたいに逃げ場を奪っていた。
「……学校から連絡があった。これは事実か?」
パパの声は静かで、底の方から冷たく響いた。
机の上に置かれたA4の紙を指先で持ち上げる。
照明に反射して白く光った紙の縁が一瞬だけ刃物みたいに見えた。
あたしは唇を噛みしめて、視線を落とす。
大理石の床に映った自分の姿が揺らいで見えた。
「……ごめんなさい」
ママの椅子が小さく軋む。
その音にびくっとして顔を上げると、ママの目が真っ直ぐこちらを射抜いていた。
その目には怒りよりも、凍りつくような失望があった。
息をするたびにその冷たさが胸に刺さる。
「ごめんなさいで済むと思ってる?未成年であんな写真を撮られて……花園家の恥よ」
ママの声には怒りというより冷たい硬さがあった。
その言葉の端に刃のような響きが混じっている。
空気が張り詰めていて、呼吸の仕方がわからなくなる。
何か言い返そうとしても、喉が塞がってしまったかのように声が出ない。
視線を上げれば、ママの眉はかすかに寄っていて、そこに失望と「わかっているはず」という思いが重なっていた。
ーーそのわかっているはずがいちばん苦しい。
ママはあたしが何も言わなくても、全部わかると思ってる。でも、わからないことだって、たくさんあるのに。
お姉ちゃんが少し身を乗り出して、溜め息をつく。
リビングの照明が髪に反射して、橙の光が揺れた。
「瑠奈……何やってんの。どうしてそんな人と関わったの。私なら絶対こんなことしないのに……ほんとバカだよ」
その私ならという言葉に、きゅっと痛んだ。
誰も悪気があって言っているわけじゃない。
お姉ちゃんも、ただ心配してるだけだって、頭ではわかってる。
それでも比べられてしまうのはわかっていた。
ママとパパが安心して笑うとき、そこに並ぶのはいつも。いつもお姉ちゃんで、妹のあたしには何も言ってくれない。
言われたとしても美咲を見習えばっかりで。その言葉があたしにとったら凄く重荷で。
時計の針が再び音を立てる。
チク、チク、と規則的に。
均等に刻まれるたび、心が細かく削れていく。
「……言うことがそれだけとはな。花園家の娘としても失格だな。まあ、今はいい」
パパが腕を組み、深く息をつく。
その吐息が低く響いて、まるで判決の前の沈黙みたいだった。
「理事長から停学期間は二週間と聞いている。その間は部屋から出ることは禁止だ」
その声は怒鳴り声よりも冷たかった。
理性的で、正しくて、そして、決定的に遠い。
机の上の照明がパパの眼鏡に反射し、光が一瞬、鋭く揺れた。
怒られているのに、どこか安心してしまうのはどうしてだろう。ちゃんと見られてる気がして、ほんの少しだけ胸が温かくなる。
そんな自分がいちばん嫌い。
「……明日、学校に行くわ。謝るのは親の務めだからね。あなたは反省でもしておきなさい」
ママの言葉は正論だった。だからこそ、反論もできなかった。
照明の光がテーブルに落ちて、そこに並ぶ三人の影が長く伸びている。
どれが誰の影かもうわからない。
パパの視線が外れたあと、お姉ちゃんが小さく言う。
「瑠奈……お願いだから。もう心配かけないで。私だって、あんたの味方でいたいんだから」
その声はあたたかいのにどこか遠い。
その言葉を聞いた瞬間、ぐらりと揺れた。でも、すぐに思ってしまう。
味方なんていない。
パパもママも、お姉ちゃんも優秀だから、平凡なあたしの気持ちなんてきっとわからない。
この家でいちばんいらないのは……たぶんあたしなんだと思う。
親戚だってあたしのことは煙たがってるし。
沈黙がまた戻る。
誰も何も言わない。
壁の時計の音とあたしの心臓の鼓動だけが広い部屋の中で静かに響いていた。
「……おやすみなさい」
声がかすれて、自分でも聞き取れないほどだった。誰も返事をしてくれなかった。
リビングの灯りが背中に刺さるように感じる。廊下に出た瞬間、家全体の静けさが押し寄せてきた。スリッパの底が大理石の床を擦る音がやけに響く。
部屋に戻ると、空気が重たく沈んでいた。
カーテンの隙間から外の街灯が細い光の線を伸ばしている。
その光が机の端に落ちて、ゆっくり揺れていた。
窓の外では車の音が遠くかすれて聞こえる。
そのたびに世界だけが動いている気がした。
制服のままベッドに倒れ込み、マットレスの冷たさが背中に広がる。
天井のシーリングライトの光がぼやけて、輪郭を失っていく。
息を吸うたびに胸が痛み、静かな海の底みたいにじっとしていた。
そのとき、スマホが震えた。
机の上で小さく転がる音が部屋に響く。
画面には青白い光。
〈大丈夫?〉
その文字だけが、夜の闇の中に浮かんでいた。
指が勝手に伸びたけれど、途中で止まる。
押した瞬間、泣いてしまう気がした。
佑磨くんの優しさを今のあたしが受け取るにはあまりにも眩しくて、更に苦しくなりそうで。
画面を伏せると、光が消えて闇が戻る。
その闇の中で、まぶたを閉じた。
瞼の裏にさっきのリビングの光景が蘇る。
パパの顔、ママの声、お姉ちゃんのため息。
「……もう何も感じたくない」
それでも何かが小さく震えていた。
痛みなのか、後悔なのか、自分でもわからない。ただもう戻れないという現実だけが確かだった。
時計の音がまた響く。
カチ、カチ、と世界が進んでいく。
時間は進んでいるのに、あたしは止まったままだ。




