第3話 御崎心陽という少女
風が熱を含んでいて、頬に当たるたび少し痛い。
金網の向こうで、赤く染まった空がゆっくり沈んでいく。
胸に残っていた昼の熱気が、まだ抜けきらない。
汗がうなじに伝って、制服の襟に吸い込まれた。
「どうも、御崎心陽です。
新汰先輩の元彼女さんですよね」
声は落ち着いているのに、言葉の端だけが冷たく光っていた。
光を背負って、影の輪郭だけが濃く見える。
制服のリボンが風に揺れ、瞳は怒りと悲しみに揺れていた。
視線が合うたび、息を飲み込むような圧を感じる。
「どうして先輩は新汰先輩を裏切れたんですか?」
その声を聞いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。
血の音が広がる。
夕陽の赤がまるで責めるように肌を照らしている気がした。
息を吸っても、うまく空気が入らない。
唾を飲み込む音がやけに響く。
俯いたまま、何も言えなかった。
視界の端で夕陽が揺れて、まぶしさと痛みが混ざる。
風が金網を鳴らし、どこか遠くでカラスが鳴いた。
「はあ、無言ですか。もしかして黙ってれば良いと思ってます?」
唇の端が勝手に動いた。
乾いた笑いが喉を滑る。
笑っていれば、少しは平気なふりができる気がした。
「あたしの勝手でしょ」
口にした瞬間、自分の声が薄っぺらく聞こえた。
言葉より先に胸の中の空洞が広がっていく。
風が吹いて、リボンが揺れる音だけが残る。
「勝手?新汰先輩がどれだけ傷ついたのかわかってますか?」
「……寂しかったんだよ。誰も見てくれなかった。あの人はあたしの欲しい言葉をくれたし、見てくれてたの」
言葉を吐くたびに、どこか遠くの自分が笑ってる気がした。
その笑いが夕陽の赤に溶けて消えていく。
「欲しい言葉?それが人を裏切る理由になると本気でお思いですか?ほんとに虫唾が走ります」
彼女の声が震えている。
怒りと涙の混じった音だった。
でもその震えは感情の爆発というよりもーー必死に抑えている震えに聞こえた。
息が荒くなる。
喉が焼けるみたいに熱くて、呼吸のたびに痛い。
「なに?あたしが悪いって言いたいの?ふざけないでよ」
声が出た瞬間、自分でもびっくりするくらい尖っていた。
どこかで止めたかったのに、もう止まらなかった。
「何を言ってるんですか?理解できませんし、理解をしたくもないです。ほんとに気持ち悪いです」
「うるさい!黙ってよ!!」
叫んだ声が屋上の空気を震わせた。
金網が揺れて、夕陽がきらっと跳ねた。
視界の中で世界が一瞬滲む。
「……逆ギレですか。薄っぺらい言い訳ばっかり吐いて、先輩は被害者だと思ってませんか?本当の被害者は新汰先輩ですよ?」
「……うるさい!」
「先輩のことは軽蔑します。
人としてこんな風になりたくありませんし、一生関わりたくもありません」
心のどこかで、ぱきっと何かが折れる音がした。
それが自分の心かどうかも、もうわからなかった。
「……うるさい!うるさい!!うるさい!!!あんたにあたしの何がわかるっていうの!!知った風に言わないでよ!!!」
息を吐くたびに涙がこぼれ、頬を伝って制服の襟に落ちた。
彼女は冷たい視線を投げかけた。
その目は何も言わなくても全部を拒絶していた。
「わかるわけないじゃないですか。バカなんですか?」
「……っ」
「ほんとに可哀想な人ですね。これ以上何も言う事はありません」
言葉の最後だけ。ほんの少し震えていた。
それでも彼女は背筋を伸ばして踵を返した。
ドアが閉まる音が響く。
カシャンと金属の音が遠ざかっていく。
残された空気がひどく重くて、呼吸するたび胸がきしんだ。
夕焼けの光がまぶたの裏まで染みて、頬を伝う涙が赤く光った。
こんなはずじゃなかったのに。
「……あたしは悪くない……」
そんな言葉を吐くけど、本当はもう自分が悪いことなんか分かってる。ただそれを認めてしまったら、あたしはあたしじゃなくなる。
嗚咽がこぼれる。風が頬をなぞり、涙の跡を冷やしていく。
誰もいない屋上で、泣き声だけが自分の耳に返ってきた。
……こんなふうに誰もいない場所で泣くのは初めてかもしれない。いつも誰かが隣にいたのに。
佑磨くんはもう……あたしのこと軽蔑しちゃったかな。……当然だよね。
前に告白してきた森下くんが教室で放ったあの言葉――「んな。まじできもい。俺、こんな人のこと好きだったんだ」――が頭の中で響く。
その言葉を思い出すたび、じわっと冷たくなる。
自分のせいで汚れていく空気の中に、ひとり取り残された気がした。
指先まで冷たくなって、心臓の音が遠のいていく気がする。
空が少しずつ暗くなっていく。
その静けさが胸をゆっくり締めつけた。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
風が屋上の隅を抜け、金網を鳴らす音がした。
その音に紛れて、最後の嗚咽が小さく消えた。




