第1話 凍りついていく心
灰色の朝だった。雲は低く垂れこめ、街全体が薄いフィルムに包まれているみたいだった。
雨は降っていないのに、空がどこか濡れて見える。
ビルの隙間から流れてくる風が湿っていて、頬に触れるたび、冷たさが染み込む。
歩道の水たまりには曇った光が沈んでいた。
足音を立てるたび、かすかに波紋が揺れて消える。
誰かの傘が閉じる音がして、反射的に肩が跳ねる。
心臓がひとつ鳴り、その鼓動がしばらく残った。
校門をくぐると、風がひやりと頬をなでる。
コンクリートの匂いと、朝のワックスの甘い残り香。
遠くでチャイムの予鈴が鳴った気がして、息が詰まる。
いつもより早く着いたはずなのに、昇降口はもうざわついていた。
笑い声とローファーが床を擦る音。
そのざわめきが、波のように触れてくる。
制服の裾が足にまとわりつく。
湿った空気に包まれて、呼吸が浅くなる。
手のひらが少し汗ばんで、鞄の持ち手が重い。
靴箱の前で足を止めた。
ガラス戸の向こうにうっすらと自分の顔が映る。
目が合ったような気がして、すぐに逸らす。
そのとき、背後から軽い声がした。
「おはよ。瑠奈〜。今日も早いね」
振り向くと、同じクラスの女子が笑っていた。
名前がすぐに出てこない。
笑顔だけがやけに明るく見える。
「……うん、おはよ」
声が少し掠れる。
自分でも気づかないくらい小さな声。
「ねぇ。なんかみんな朝からスマホ見ててさ、今日なんかあった?」
「え?……そうなの?」
女子は「さぁ?」と笑って、そのまま友達の方へ走っていった。
残された空気だけが、妙に冷たかった。
自分の名前を呼ばれた気がして、顔を上げる。
でも、そこには誰もいない。
教室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
わずかに生ぬるい湿気。
鼻をかすめる紙のにおい。
チョークの粉と誰かの甘い香水が混ざって息を吸うたび喉がざらつく。
光が冷たく、蛍光灯が白すぎて眩しい。
その白が肌の色を奪い、教室全体が静止画みたいに見える。
視線。
笑い声。
小さな通知音。
どれも微かで、誰も何も言っていないのに。
全部、自分に向けられているように感じた。
足元からじわりと冷気が這い上がってくる。
教室の空気だけが少し重力が違う気がした。
机の木目がいつもよりざらついて見える。
指先でなぞると、細かいささくれが引っかかった。
佑磨くんがまだイヤホンを外さず、無表情でノートを広げている。
その沈黙がいつもより少し遠く感じた。
梨沙がスマホを握ったまま動かない。
画面の光が頬を照らして、表情が見えない。
紗月が覗き込んで、何かを囁いた。
その声は小さすぎて聞き取れないけど、空気がぴりっと変わるのが分かった。
あたしの名前が出た気がして、心臓が一度だけ強く跳ねた。
背中の方から美桜の椅子がきしむ音。
彼女が何度かこっちを見てる。
目が合いそうになって、すぐ逸らされた。
笑いかけてくれると思ったのにーー。
その少し後ろから柚菜の声がした。
「……マジでこれ瑠奈?ありえないんだけど」
小さく笑う声。わざとじゃないのかもしれない。でも、その言葉が刃みたいに刺さった。
あたしは前を向いたまま、黒板の文字をぼんやり見てた。
先生の声が遠い。
世界の音が少し遅れて届く。
どうしてみんな黙ってるの。
ねぇ、何が起きてるの。
喉が乾いて息を吸うたびに痛かった。
黒板の文字が滲んで見える。チョークの粉が光に散って、先生の声が遠い。世界が膜の向こうにあるみたいだ。
「これみた?」
「え、これやばくない?」
「まじで?本人なの?」
「え、これまじ?……清楚なふりして裏ではこんなことしてたんだ。幻滅だわ」
「まじで幻滅。俺こんな人のこと好きだったんだ」
「あー、森下お前、告白してたもんな。どんまい」
言葉が矢みたいに飛んでくる。
背中を突き刺す音。
机の下で手を握る。
汗で指が滑る。
何の話?
もしかして……いや、違う。気の所為なはず。
そんなはずない。
そう何度も自分に言い聞かせる。けれど、視線の熱だけが確かに皮膚に残った。
誰の目も合っていないのに、全部があたしを見ている気がする。
空気がざらざらして、息を吸うたび喉が焼ける。
心臓の音がうるさい。
どく、どく、どく。
音が身体の中で反響して、頭が重くなっていく。
机の上のノートが震えて見えた。
ページの端が風もないのに揺れる。
「裏でこんなことしてたとかやばー!」
誰かがスマホを掲げ、画面をこっちに向けて笑った。
その光が一瞬だけ目に刺さる。
見覚えのある髪に白いシャツの彼。
その横で笑っているあたし。
喉がひゅっと詰まる。何かを叫ぼうとしても声が出ない。
世界が音を失った。呼吸が止まった。
心臓の音だけが遠くで鳴っている。
「——違う!!あたし。そんなの知らない!!」
声が裏返った。
けれど、誰も振り向かない。
黒板の文字がゆらぎ、椅子の軋みが遠くなる。
視界が白く滲む。何かが頭の中で弾けて、次の瞬間には立ち上がっていた。
「お願い……ほんとに……やめて……っ」
声が教室の壁にぶつかって、粉々に散る。
笑い声が止まり、数人が振り向く。
視線が突き刺さって、息が詰まる。
肩と手が震える。鞄の紐がうまく掴めない。爪が手のひらに食い込む。それでも立ち止まらなかった。
扉を勢い良く開けて、走り出す。
廊下の光が白く滲む。誰かの声が背中をかすめた気がして、振り返ることもできない。
息が切れる。
足音が追いかけてくるようで、もっと速く走った。
視界の端で光がぶれて、世界がぐにゃりと歪む。
階段を登る途中、涙が視界を滲ませる。
頬を伝うのが涙なのか汗なのかもわからない。
それでも止められない。
立ち止まったら、全部現実になる気がした。
見なかったことにすれば、まだ間に合う。
違う。絶対に違う。そんなわけない。あれは……あたしじゃない。
何度もそう繰り返しながら、あたしは屋上に逃げ出した。
……なんであれが流出してるの……。




