第3話 だって隣だし
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
カーテンの隙間から差す光は昨日より少し強い。
外の鳥の声がはっきり聞こえる。
鏡の前に立つと昨日より少しだけ顔色がいい気がした。
洗顔や化粧水、乳液、ヘアセットなどいつものルーチンを済ませ、カラコンを指先にのせる。カラコンを一度落としそうになって、あたしはそのことに小さく笑った。
制服のスカートを整え、ブレザーのボタンをひとつずつ留める。
ポケットの中のスマホは昨日のまま未読の通知を抱えている。ゆっくり深呼吸をして、それを見ないままスクールバッグに入れる。
外はまだ朝の匂いが残っていて、歩道には昨日より少なくなった桜の花びらが散っていた。
足音が軽い。昨日より少しだけ胸がやわらかい。
渋谷駅までの道、昨日と同じ角のカフェからコーヒーの匂いがして、通りすがりの人の服装も少し春っぽくなっている。
ホームに立つと同じ制服の子たちが昨日より多い気がして、自然と背筋が伸びる。
電車の窓に映る顔は昨日より少しだけ柔らかく見えた。
今日もちゃんと笑えるといいな。うん。笑える。そんな暗示をあたしはかける。
教室に入ると昨日よりも空気が落ち着いていた。
机の上に並んだカバン、開きかけの教科書、カーテンの向こうで揺れる朝の光。
誰かが椅子を引く音がして鉛筆の芯を削るシャッという音が重なる。
日常が少しずつ戻ってくる気がした。
「おはよー」
梨沙が席を軽く叩いてくる。
「今日もちゃんと来てるじゃん」
「来るに決まってるでしょ」
あたしは少し笑って答え、スクールバッグを机に置く。
美桜が後ろで髪を結び直しながらスマホをちらっと見て言った。
「昨日のカラオケのストーリー。既読めっちゃついてたよ」
「ね、うちら最強じゃない?」
柚菜が机に頬杖をついて口元だけで笑う。
「ポテトの写真保存した人けっこういたっぽいよ」
「紗月のあの変顔やばかったよね」
「えー、あれ盛れてたって!自分でも気に入ってるんだけど」
紗月は平然と返して、指で机をとんとんとリズムよく刻む。
みんなが笑ってあたしもつられて笑った。
昨日よりも少し声が素直に出る。
笑い声の中に混じる自分の声がちゃんと自分のものに聞こえるのが少し嬉しい。
チャイムが鳴り教室に先生が入ってくる。
そしてホームルームが始まると教室の空気が一度落ち着いた。
「今日から時間割どおり授業始まるぞー。配布プリントあるから後ろから回して」
プリントが回ってくる。手触りが少しざらついていて、まだインクの匂いが残っている。
受け取ったプリントを机に置いてあたしはペンをくるくる回した。
ふと横が気になり、チラッと見ると是枝くんが静かにノートを広げている。
背筋がまっすぐでペンを持つ手の指先まで綺麗。
ページをめくる仕草が静かで音がほとんどしない。
その仕草に目が止まってつい見てしまう。
「瑠奈、プリント回してー」
梨沙から声をかけられて、はっとして手を伸ばす。
プリントを回すときに一瞬だけ是枝くんと目が合った。
特に何も言葉は交わさず、ノートに視線を落とした。
休み時間になるとすぐ梨沙が振り向いて話しかけてくる。
「ねえ、今日の英語めっちゃ長くなかった?」
「黒板写すだけで手つったんだけど」
「先生、絶対昨日寝てない顔してた」
紗月がストローの先で机をとんとん叩く。
「わかる。なんかずっとテンション低かったよね」
「でしょ。絶対授業する気なかった」
その温度につられて、胸の奥が少しゆるんだ。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に緩む。
椅子が引かれる音、机がわずかに軋む音が重なってざわめきが波みたいに広がった。
弁当箱のフタが一斉に開き、購買袋のビニールがくしゃっと鳴る。
牛乳パックを開ける指先の音、カトラリーの音、パンの袋を破る乾いた音。
全部が一斉に動き出す昼のリズムだ。
梨沙が一番に立ち上がって、あたしの机をガタリと横に引き寄せる。
「ほい、ランチ会場開店〜!」
「またそれ」
紗月が笑いながら机を自分の席からくっつける。机の脚が床をこすって甲高い音が鳴る。
「昨日のストーリーの既読がやばかったよ!100超えてた!」
「え、マジで?」
あたしはスマホを出しかけてやめる。
でも気になるから結局画面をつけて通知を見た。確かに数字が増えている。
「ほら男子からもコメントきてるし」
美桜がソルグラムの画面を指でスクロールして見せてくる。
「ほんとだ……この人確か一年生のとき同じクラスだった人じゃん」
「『歌上手い!』って」
「瑠奈が君と出会う前歌った時、90近くだったじゃん。普通に強くない?」
「あれはマイクの調子がよかっただけだから!」
あたしは慌てて言い訳する。
「褒められた人へのご褒美としてからあげをあげてしんぜよう」
「ありがと……」
梨沙が大袈裟にそう言い、からあげをひとつ箸でつまんで差し出してくる。
あたしはそれを受け取って口に入れると、少ししょっぱくて美味しい。
なんだかそれがおかしくて食べながらつい笑ってしまう。
柚菜は机に頬杖をついたまま、いたずらっぽく目を細めた。
「てかさ、是枝くん購買行ってたよね?パン派っぽくない?」
「わかる! 絶対あんぱんとか買ってそう」
美桜が笑いながら身を乗り出す。
「いや、牛乳とかもセットで買ってそうじゃない?」
「給食の時間かよ!」
梨沙がすかさず突っ込む。
「是枝くんってなんか大人って感じがする。今日ノートの取り方見た?」
「え、見てない。どんな感じだったの?」
美桜が身を乗り出して興味津々で聞いてくる。
「めっちゃ字きれいだった」
「字きれい男子はポイント高い〜」
前の列では男子たちが机を寄せ合って騒いでいる。
「お前またパン十個目?」
「いや成長期だから!」
「どんだけ食べるんだよ」
誰かが窓を開けたのか春の風がふっと入り込んでくる。
カーテンが揺れて光が机の上を滑った。
白いごはんの上で影が揺れるのを眺めていると少し落ち着いた気持ちになる。
「てかさー。今年の二年男子、誰がイケてると思う?」
「え、もうランキング?」
美桜が笑いながらストローをくるくる回す。
「だって最初が肝心じゃん。推しは早めに決めとこ」
「わかるー」
柚菜が頷いてから、一番は是枝くんじゃない?とわざとらしくあたしのほうを見る。
「やめてよ、なんでそこであたしのほう見るの」
「だって隣だし」
「距離感近いし」
「同じプリント回すし」
三人が口々に言ってきて、あたしは両手で顔を仰ぐ。
「ちょっと待って、全部理由が雑!」
笑い声が机の上で弾ける。
同じタイミングで後ろの席の男子がくだらないダジャレを言って教室全体が笑う。
それに混じってあたしも小さく笑った。
美桜がスマホを取り出して昨日撮ったプリクラを見せてくる。
「見てこれ。やっぱこれが一番盛れてる」
「小顔ポーズのやつ?」
「うん、これ。なんか映画のポスターみたいじゃない?」
全員で画面を覗き込んでしばし静かになる。
そのあと変顔の一枚をタップした瞬間、爆笑が起きる。
「紗月ほんとに顔崩しすぎ」
「それはずい。消しててよ」
「やだ。一番いい思い出じゃない?」
「わかる。ああいうのが残るんだよね」
柚菜がしみじみ呟いて次はもっとポーズ研究しよとスマホをポケットに戻した。
あたしは箸を止めて窓の外をちらっと見る。
日差しが少し強くなってグラウンドの砂が白く光っている。
遠くでボールを蹴る音がして風に混じってかすかに砂の匂いが届いた。
さっきより少しだけ軽くなる。
昨日より今日のほうが声が出る。
明日になったらもっと出るかもしれない。
そんな微かな希望をあたしは願わずにはいられない。




