第36話 男子騎馬戦
太陽の位置がさっきよりも少し高くなっていた。
テントの陰から出ると、空気が一気に熱を帯びているのがわかる。
足元の砂が焼けたみたいに熱い。
放送部の声がマイクにのって、午後の部の始まりを告げた。
「これより男子騎馬戦を行います!」
歓声がいっせいに上がる。
空気がざわめいて、風が一瞬止まったように感じた。
紅組と白組、青組、黄組、四つの旗が中央で揺れている。
あたしは梨沙たちと応援席の前列に座っていた。
手のひらの汗で、ペットボトルが滑りそうになる。男子たちの列が動き出す。
ヘッドバンドを巻いて、目の色がみんな少し違う。佑磨くんはその中で一番落ち着いた顔をしていた。体操服の袖をまくって、仲間と短く言葉を交わす。
「やば……普通にかっこいい」
「ね、見てるだけで緊張する」
紗月が膝を抱えたまま笑う。
あたしも何も言えずに、ただその背中を見ていた。
風の音も声援も。ぜんぶ遠くに聞こえる。
佑磨くんだけが目の前にいるみたい。
合図の笛が鳴る。
グラウンドの空気が一気に動いた。
砂煙が上がり、馬が突進する音。
ぶつかる音、叫び声、歓声。
紅と白が絡み合って、帽子が宙に舞った。
「いけーっ!紅組ーっ!!」
梨沙が立ち上がって叫ぶ。
あたしも気づいたら声を出していた。
「佑磨くん!頑張って!」
喉が焼けるほど叫んだのなんて、いつぶりだろう。
風が強く吹いて、旗が揺れる。
佑磨くんが相手の馬の隙を狙って動いた。
冷静で迷いのない目。
瞬間、彼の腕が伸びて、相手の帽子を掴んだ。歓声が弾ける。
「とったー!!」
誰かが叫んで、クラス全体が立ち上がる。
あたしの手も自然と握られていた。
心臓の音が響いてくる。
佑磨くんが帽子を掲げた。
太陽の光を受けて、眩しいほどに見えた。
勝った。
そう思うより先にその笑顔を見ているだけで泣きそうになった。
どうして、こんなにも嬉しいんだろう。
自分のことじゃないのに。
競技が終わって、紅組は歓喜の声に包まれる。
みんなが肩を叩き合い、砂まみれのまま笑っていた。
あたしはその輪の外から、少しだけ距離を置いて眺めていた。
笑っているはずなのに心臓が落ち着かない。
佑磨くんが帽子を手にして、息を整えながらこちらに歩いてくる。
目が合う。
一歩、二歩。距離が近づく。
「……すごかったね」
「瑠奈の応援があったから勝てた。ありがとな」
「ううん。その……かっこよかったよ」
「飲めよ。顔赤いぞ」
佑磨くんが封が開けられてないペットボトルを渡してくる。
「……うるさい」
「その反応は反則だろ」
遠くでは次の競技の準備が始まっている。
笛の音、砂の匂い、誰かの笑い声。
全部が混ざって、まるで夏の始まりみたいだった。
風がまた吹いて、赤い旗が空の下で大きく揺れた。
砂の粒が太陽を反射して、光の粒みたいに舞っていた。
空の青がすこし白くにじんで、風が熱を帯びている。
旗の色――赤、白、青、黄がそれぞれ揺れて、グラウンドがまるで絵みたいに見えた。
「次、応援合戦だって!」
梨沙が日焼け止めをもう一度塗りながら言った。
「マジで喉終わってるんだけど」
「声出せるうちは出しとこ!」
紗月が笑いながら赤いリボンを結び直す。
「お前ら、笑顔は勝負服だぞー」
「先生も声出してね!」
「これから応援合戦を行います!最初は紅組です!」
歓声がグラウンドに広がる。
あたしたちは赤いリストバンドを合わせて、一斉に立ち上がった。
風が吹いて、うちわが鳴る。
太鼓の音が流れ始めて、みんなで声を合わせる。
「フレー!フレー!紅組ー!!!」
喉が焼けるように痛いのに、止まらなかった。
旗がはためいて、砂が舞い上がる。
青と白と黄の応援席からも歓声が返ってくる。
この校庭全体がひとつの音になって、空に溶けていくみたいだった。
一瞬、音が止む。
太陽が照りつけて、世界がまぶしくなる。
その静けさのあと、放送部の声が少し震えながら響いた。
「紅組、最高でした!」
テントに戻ったとき、全員が汗だくで笑っていた。
「声出なかった」
「分かる。でも楽しかった」
「んね!楽しかったけど、声枯れた〜」
あたしは水を飲みながら、喉の痛みを感じた。
こんな声の枯れ方も悪くない。
午後の最後はクラス対抗リレー。
紅、白、青、黄、それぞれの代表がトラックの内側に並んだ。
あたしたちは紅組の応援席で、うちわを持って立ち上がった。
佑磨くんはアンカー。
トラックの端でスタートを待つ彼の姿が、陽炎の中で揺れていた。
背中越しでも、落ち着いた空気が伝わる。
笛の音が鳴る。1走目がスタートして、歓声が弾ける。
砂を蹴る音、スピーカーから流れる音楽。
青組がわずかにリードしていた。
紅組は二番手。
バトンがつながっていく。
応援席も声が重なって波みたいになった。
「いけー!」
「抜かせー!」
手のひらが痛くなるほど旗を振った。
最後の直線、アンカーにバトンが渡る。
佑磨くんが走り出した瞬間、空気が変わった。
足音が速すぎて、風の音しか聞こえない。
青組と並走。
白と黄のチームがその少し後ろ。
最後のカーブ、体が傾いて、あたしは思わず息を止めた。
砂の匂い、日焼け止めの匂い、風の音、全部が混ざって世界が歪んでいく。
ラスト数メートル、佑磨くんが身体を伸ばす。
ゴールの瞬間、テープが同時に切れた。
観客席が一瞬静まり、次の瞬間歓声に包まれる。
「1位ーー青組!」
アナウンスが響いた。
少しだけ悔しい沈黙。
でもすぐに拍手が広がる。
佑磨くんが息を切らせながら、後ろを振り返って笑った。
どこか穏やかで、その顔を見てるだけで胸が熱くなった。
負けたのに、全然悲しくなかった。
あの走りを見られただけで、十分だった。
テントに戻ると、梨沙がタオルを投げてきた。
「惜しかったね!」
「うん。でも最高だった」
「紅組2位かぁ」
美桜がソルグラムを開いて〈#櫻庭体育祭 #紅組最高〉と打ち込む。
風が吹いて、赤・白・青・黄の旗がいっせいに揺れた。
空は少しずつ色を変え始めて、光が金色から橙色に溶けていく。
喉がまだ少し痛いけど、あたしは笑っていた。
放送部が閉会式の準備を呼びかける。
グラウンドの隅で、佑磨くんが仲間と話している。
彼が振り返って、こっちを見た。
軽く手を上げる。
あたしも笑って、同じように手を上げ返した。
その一瞬、遠くから吹いた風が旗を大きくはためかせた。
色とりどりの布が夕陽に染まって、校庭全体が柔らかい光で包まれる。
勝てなくても。こんな日を持てたならそれだけで充分。
風の中にみんなの笑い声が混ざる。
それがゆっくり染みこんでいった。




