第35話 借り物競争
午後の光は午前よりも白くて強い。
校舎の影が薄くなって、グラウンドの砂がゆらゆら揺れて見えた。
テントの屋根に風が当たって、薄い布が小さく鳴る。
残っていた痛みが、息をするたびにちくっとする。
放送部の声がマイク越しに滑ってきた。
「つづいては――借り物競走を行います。代表者はトラック内側へお願いします」
「瑠奈、がんばって」
「うん……行ってくる」
リストバンドの赤がやけに濃く見えた。
スタート地点の白線に並ぶ。
紅・白・青・黄、それぞれのリストバンドが列になって、光の粒みたいに並んでいる。
笛の音。
係の先生が箱を持って来て、一人ずつカードを引かせた。
順番がきた。
指先で一枚をつまむ。紙が思ったよりも重い。
開く。
『今日いちばん楽しそうな人』
一度、胸の中で言葉をなぞる。
楽しそうな人。教室でも廊下でも、こういうとき最初に浮かぶ顔が誰なのか、あたしは知っている。
でも午後の光の中で、その名前はうまく声にならなかった。
「よーい――」
笛が鳴るより早く、何人かが駆け出した。
あたしも足を前に出す。砂が跳ねて、ふくらはぎにちいさな痛みが飛ぶ。
応援席が色ごとに波打って、うちわの音が重なる。
テントの隙間をすり抜ける風が汗の匂いを少しだけ運んだ。
いちばん楽しそうな人。
走りながら、視線が勝手に探していた。
紅組のテントの向こう、給水の列、校旗の影。
そして男子の集まる輪の隙間で――佑磨くんが笑った。
誰かの肩を軽く叩いて、ボトルを受け取る仕草。
笑い声はここまで届かないのに、口元の形だけで、今そこに確かに楽しさがあるのがわかった。
足が一瞬止まりそうになる。
「ーーーー」
名前を呼ぼうとして、声が出なかった。
呼んだ瞬間、何かが変わってしまう気がした。
変わってしまったら戻れない。そんな予感だけが先に立って、足が砂を強く踏んだ。
時間がない。
息が荒くなって、カードの角が手のひらに食い込む。
佑磨くんから視線を外し、紅組の端で、峰島くんが笑っていた。
汗で前髪が額に張りついて、目尻がくしゃっとなる。
たしかに今、この人は楽しそう。
「峰島くんこっち来て!」
彼は「お、行くか!」と迷いなく走り出す。
手首を掴まれる前に、自分から袖を引っ張った。
砂を蹴って、二人で白線に戻る。
風が背中を押すみたいに強く吹いた。
ゴールテープを切る。
係の先生がカードを確かめて、頷く。
「はい、オーケー!紅組、二番!」
肩で息をしながら、峰島くんと笑い合った。
「いちばん楽しそうな人?俺でよかったの?」
「……いちばん、楽しそうだったから」
言ってから、自分の言葉が少しだけ震えていることに気づいた。
拍手と歓声が遠くで混ざる。
顔を上げたら、向こう側で佑磨くんがこっちを見ていた。
無表情というほど冷たくはない。
ただちいさな影が差して見えた。
その影が胸のどこかにそっと触れて、音を立てずに沈んでいく。
「花園やるじゃん」
「ありがと。……助かった」
峰島くんに笑い返す。でも口角だけが言う通りに動いて、心臓はまださっきの視線の余韻に掴まれていた。
テントに戻る途中、スマホの角が指に当たった。
透明のクリアケースの中で、昨日撮ったプリクラが光を反射している。
中目黒の街灯の下で笑っていた自分と佑磨くん。
光の粒みたいなその一枚が午後の太陽と同じ色に見えた。
いちばん楽しそうな人。
あたしが連れていったのは正解で。
でも、ほんとに呼びたかったのはーー。
強い風が吹いて、テントの屋根がぱたんと鳴った。
太陽が少しずつ傾きはじめ、影が長く伸びる。
「このあと、男子による騎馬戦です」
ざわめきが広がって、クラスの男子が立ち上がる気配が伝わってくる。
あたしはタオルで首筋の汗を拭いた。
布が肌に触れる瞬間、心臓がもう一度だけ強く鳴った。
理由はまだ言葉にならない。
でも、午後の光はもう午前のそれじゃなくて、温度もほんの少しだけ違っていた。




