第33話 体育祭
朝の空気がやけに澄んでいる。
いつもより少し早く家を出た。
日曜日なのに制服じゃなくて、紅組のTシャツに短パン。
鏡の前でリボンを結びながら、何度も深呼吸をした。
昨日の夜、なかなか眠れなかったせいか、まぶたが少し重い。
頭のどこかで、昨日の中目黒の景色がまだ残っていた。
映画のあとに寄ったカフェの音楽。
あのとき佑磨くんが「この曲、好きかも」って言って笑った顔。
思い出すたびにくすぐったくなる。
ポケットの中には昨日撮ったプリクラ。
誰にも見せないつもりで、こっそり折りたたんで入れてある。
お守りみたいに今日もそれを持っていた。
駅を降りて、学校までの坂を上る。
朝の光がコンクリートを照り返して、白い靄みたいに揺れている。
遠くから応援団の声が聞こえる。
グラウンドの入口にはもうみんなが集まっていて、テントの下には紅白の旗、カラースプレーで描かれた横断幕。
「瑠奈ー!リボン似合ってるじゃん!」
「え、そう?なんか浮いてない?」
「浮いてないって。ほら紗月も褒めて!」
「寝てないって顔してるけど、かわいいよ」
「寝てないのバレた……」
「写真撮ろ!開会式前に!」
美桜、梨沙、あたし、紗月は日差しの中でピースをする。
シャッター音のあと、スマホの画面に映ったみんなの笑顔がいつもより少しだけ眩しかった。
列の向こう側に佑磨くんの姿が見えた。
白いTシャツの袖をまくって、男子たちと笑い合ってる。
その笑い声が他のどんな音よりもはっきり聞こえた気がした。
目が合いそうになって、慌てて視線を逸らす。
校内放送のマイクが鳴って、応援団長の声が響く。
「紅組ー!ぜったい勝つぞーー!!」
歓声がいっせいに上がって、風が吹き抜けた。
あたしも思わず声を出す。
声が空に吸い込まれていくのを感じた。
開会式が終わって、最初の種目は100メートル走。
順番に呼ばれて、トラックの白線の上に立つ。
目の前の空気が少し揺れて見えた。
シューズの底で砂を感じながら、深呼吸をする。
スタートラインの向こう、観客席の中に佑磨くんが見えた。
応援してるのかどうかなんてわからないけど、視界の中に彼がいるだけで、どんどん速くなっていくのがわかった。
「位置について――」
短い笛の音が鳴る。
風が頬を撫でる。
「よーい、ドン!」
体が勝手に前へ出た。
砂の音、風の音、歓声。
世界が少しだけスローモーションになった。
足の裏が熱くて、呼吸が荒いのに不思議と苦しくなかった。
ゴールテープが近づく。
一歩、もう一歩。
テープを切った瞬間、時間が一瞬止まったように感じた。
息を切らせて振り返ると、クラスメイトが手を振っていた。
梨沙が「ナイスラン!」って叫んで、紗月が笑ってハイタッチを求めてくる。
汗で指が少し滑る。
その感触がやけにリアルだった。
「まあまあだったじゃん!」
「……うるさい!途中で足がもつれたし」
「でもかっこよかったよー」
「どこが!」
みんなの笑い声が風に混じって遠くまで広がる。
観客席の方をふと見ると、佑磨くんが軽く手を上げた。
たぶん目が合った。
笑ってる。
その笑顔を見た瞬間、ふわっと跳ねた。
去年の冬はこんなふうに笑う自分を想像できなかった。でも今、確かに笑ってる。
グラウンドの砂が太陽に照らされて、白線がゆらめく。
遠くで放送部の声が響く。
笛の音。
汗の匂い。
笑い声。
世界が全部、光って見えた。




