第31話 ほんとは素直になりたい
「どこか入る?」
「うん……歩きすぎたし、休もっか」
駅から少し歩いた場所にある木の扉が目印の小さなカフェに入った。
店の前には白い鉢に植えられたオリーブの木が並んでいて、扉を開けると鈴の音が優しく鳴る。
中は静かで、天井のライトが琥珀色の光を落としていた。
ミルクフォームをすくう音とエスプレッソの香り。
奥の席から聞こえるスプーンの小さな触れ合う音が不思議と心を落ち着かせた。
窓際の席には初夏の日差しがやわらかく差し込み、カップの影がテーブルの上に淡く揺れている。
「ここいいね」
「中目黒っぽいでしょ。静かで」
店内にはコーヒーと焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
グラスの氷がカランと鳴って、隣のテーブルのカップルが小声で笑い合っている。
その音さえ心地よくて、あたしはカップを持つ手にまだ映画館の冷房の余韻を感じていた。
「映画、どうだった?」
佑磨くんがカフェラテを一口飲みながら聞いてくる。
彼の指先がカップの縁をなぞる仕草が妙に丁寧で、見ているだけで少し緊張した。
「よかった……けど、なんかちょっと切なかった」
「雨のシーン?」
「うん。『俺はお前の未来にいたい』っていうあのセリフ……」
何かを続けようとして、うまく言えなくてラテの泡をスプーンでそっと混ぜた。
白い渦がゆっくりと消えていく。
「……あれ良かったよな」
佑磨くんはそう言って、カップの縁に口をつけた。
ミルクの香りがわずかに漂い、その横顔を見ていると少しだけ痛くなった。
誰かの未来にいたい。
あたしには遠すぎて、眩しすぎる言葉。
でも、あの映画の二人みたいにまっすぐな想いをあの時に持っていたら――。
そんなどうしようもないことを考えている自分に少しびっくりする。
「……あたしもあんなふうに言われてみたいかも」
「言われるタイプでしょ。瑠奈は」
「え、なにそれ」
「素直じゃないけど、放っとけない感じ」
その言葉に思わず目をそらした。
カップの中の泡が小さくはじけて、消えていくのを見つめる。
指先でスプーンをいじりながら、何を返せばいいのかわからなくて、ただ笑うしかなかった。
ほんとは素直になりたい。
だけど、なれない。
いつからだろう。
家の中でも、友達の前でも、ほんとの気持ちを言うのが怖くなったのは。
「それ褒めてないよね?」
「褒めてるって。それに瑠奈のことクラスの男子がけっこう噂してるから」
「……そんなことないし」
「いや、あるって。そういうとこちょっとズルい」
ーーほんとは誰にでもそんなふうに思われたいわけじゃないのに。
「……本当に言ってほしい人には一回も言われたことないけどね」
つい口から零れたその一言に自分で驚く。
軽く言ったつもりだったのに、声が少しだけ震えていた。
空気がわずかに揺れて、カップの中の泡がしゅっと静かに消えていく。
くすっと笑う彼の声がカップの中の泡よりも柔らかく弾けた。
それを聞いた瞬間、胸の奥で何かがゆっくりと溶けていくのを感じた。
外では川沿いの風が吹き抜け、店先の暖簾をそっと揺らしている。
窓越しに見える光がグラスに反射して、テーブルの上で淡くきらめいた。
その光が揺れるたび、まるで止まった時間が少しずつ動き出すみたいだった。
あたしはその光をぼんやりと目で追いながら、この静かな時間が終わってほしくないと心のどこかで思っていた。
「……次、どこ行く?」
「うーん……あの通り雑貨屋さん並んでるよね。見てみたいかも」
「いいね。あそこ行ってみよう」
会話はいつも通りなのに、ひとつひとつの言葉がやけに近く感じた。
カップの底に残ったミルクを見つめながらあたしは心の中で、まだ知らない好きという言葉の形を探していた。




