第30話 未来を選ぶということ
映画館のロビーは休日らしく賑わっていた。
ポップコーンの甘い香りと、冷房の少し冷たい風が混ざって、初夏の熱気をほんの少しだけ和らげてくれる。
壁に貼られた大きなポスターには《選ぶのは自分の未来だ。》のキャッチコピーが下に書かれている。
中央には主演の成瀬海斗と水嶋莉奈が見つめ合うシーン。
ふたりの距離が近すぎて、見ているだけで胸がざわつく。
「やっぱこれ人気だね。席ほとんど埋まってる」
「うん。予告の時点でバズってたもん」
佑磨くんが前に進みながらスマホで予約画面を確認する。
その横顔を見ているだけで、周りのざわめきが遠くなるような気がした。
あたしは手提げバッグを握る指先に少し力を込める。
映画館の照明が自分の鼓動まで聞こえそうで落ち着かない。
チケット券売機の前に立つと、佑磨くんは何も言わずにスマホを取り出してQRコードを読み取らせた。
手慣れた動きで、ほんの数秒でチケットが印刷される。
「ほら、こっち」
紙の端を軽く揃えて、あたしのぶんを差し出してくる。その感じがなんかずるい。
「E-04とE-05。中央の真ん中らへんだって」
受け取るとき、指先がかすかに触れる。
ほんの一瞬なのに心臓がきゅっと締まる。
「……ありがとう」
「うん」
佑磨くんがふと売店の方を見た。
「飲み物、買っとく?」
「うん……どうしよう。ポップコーンもあるけど」
「キャラメルと塩どっちがいい?」
「……キャラメル!匂いがもうしてるし」
笑いながら一緒に列に並ぶ。
周りはカップルばかりで、距離の近さに少しだけざわついた。
……もしかしてあたしたちもそう見えてるんだろうか。
順番が来て、佑磨くんが店員さんに落ち着いた声で注文する。
「キャラメルポップコーンのMとアイスティー二つで」
「了解しました」
レジの小さなライトが彼の横顔を照らす。
その一瞬がやけに綺麗で、目を逸らせなかった。
「……はい、どうぞ」
「ありがと」
手渡されたカップの冷たさがさっきまでの緊張をほんの少しだけやわらげてくれた。
指定された座席に座り、あたしはチケットを少し上に持ち上げた。
隣で佑磨くんが同じように構えて、並んだチケットをスマホで撮った。
フラッシュが光るわけでもないのに、シャッター音がやけに大きく響く気がする。
ほんの一瞬、レンズ越しに写る二枚の紙切れが今日という日の証のように見えた。
「ストーリーに載せよっかな」
「いいじゃん。映画デートっぽくて」
「デートって……」
「え、違うの?」
佑磨くんのからかうような声に思わず目をそらす。
その仕草を見て、彼はふっと笑った。
照明がゆっくりと落ちていく。
前列のカップルがポップコーンをシェアして、小さな笑い声が暗闇に溶けていく。
ポップコーンの香りが一層濃くなり、周囲のざわめきが次第に遠ざかる。
スクリーンの光が佑磨くんの横顔を淡く照らした。
その横顔を見ていると、映画の始まりを待つこの静けさがどうしようもなく愛しく感じた。
スクリーンの光がゆっくりと広がる。
オープニングの音楽が流れ出して、観客たちの小さな囁き声がひとつ、またひとつと消えていく。
上映が始まってしばらく、館内の冷たい空気が肌を撫でた。
隣で佑磨くんがポップコーンをつまむ音。
バターキャラメルの甘い香りが、空調の風に乗って漂う。
ふと自分の香水の匂いと混ざって、どちらの香りなのか分からなくなった。
ただその香りの中で息を吸うたび、小さくざわついた。
映画の世界に集中したいのに、隣にいる誰かの気配が現実よりも近くに感じられる。
画面の中では大学生の翔と莉緒が出会い、笑い合い、すれ違っていく。
未来を選ぶ。
たったそれだけのテーマなのに、どうしてこんなに胸が締めつけられるんだろう。
就職を選んだ翔。
留学を決めかけた莉緒。
二人がすれ違うたび、どちらの選択も正しく見えて、それでもお互いを失う怖さにどちらも踏み出せないでいる。
あたしは知らないうちに手を握りしめていた。
劇中の雨音がやけにリアルに響いて、まるで心が叩かれてるみたいだった。
雨の粒がスクリーンいっぱいに弾ける。
莉緒が振り返るたび、その表情が心に刺さる。
誰かを想うのに、その人の未来には自分がいないかもしれない。
それでも好きでいようとする気持ちはきっと間違いじゃない。
「ーー俺はお前の未来にいたいんだ」
翔の叫びが響いた瞬間、何かが軋むように震えた。
誰かの未来にいたいなんてそんな言葉。
あたしには二度と誰かに言われる資格がない。
照明がゆっくり戻り、エンドロールが流れ始める。
「……泣いてた?」
「泣いてないし」
「ほんとに?」
「ほんと」
笑ってごまかしたけど、頬のあたりが少し熱いのを感じた。
映画館を出ると、昼下がりの光がまぶしい。
街路樹の葉の間からこぼれる光がスクリーンで見た雨の粒みたいにキラキラ揺れていた。
館内の空気から一歩外へ出ると、昼下がりの熱が頬を包み込む。
冷房の静けさのあとで聞こえる街の音が妙に生々しくて少し眩しい。
人の声、信号の音、遠くの笑い声ーー。
全部がちゃんと動いてる世界の音だった。
映画の余韻が身体に残っているのに、風に触れた瞬間、それが少しずつ溶けていく。
まるで止まっていた時間が現実の風に押されて動き出したみたいに。
「いい映画だったね」
「うん……なんかいろいろ考えちゃうやつ」
「選ぶってこと簡単じゃないよな」
「……そうだね」
未来。その言葉がさっきの映画のタイトルよりも重く響いた。
立ち止まるたびにあたしはまだ去年の冬の続きにいる気がする。
時間は進んでるのに、心だけがあの雪の日に取り残されたままみたいで。
けれど、隣を歩く彼の笑顔を見た瞬間。
ほんの少しだけその止まった時間が動き出した気がした。




