第17話 俺のこと名前で呼んで
チャイムが鳴ると同時に教室が一気にざわついた。
机を引く音、椅子のきしみ、カバンのファスナーが開く音。
一日の終わりを知らせるその雑音が少しだけ名残惜しくも感じた。
「ねぇ、帰りどこ寄る?」
「コンビニ行きたーい!」
「アイス買って帰ろ!」
「また食べるの!?」
「青春の糖分補給だよ〜」
そんな中、梨沙が不意にこっちを見てニヤッと笑った。
梨沙のニヤニヤ顔は嫌な予感しかしない。
「瑠奈はいいじゃん。是枝くんと帰るんでしょ?」
「は?な、なんでそうなるの!」
言い返した声が裏返るのを自分でも止められなかった。
紗月と美桜がすかさず顔を見合わせる。
笑いを堪えてるのが丸わかりだ。
「この前も一緒だったしねぇ」
「わざと置いてったのまだ怒ってる?」
「怒ってるに決まってるでしょ!」
言いながらカバンを抱えて立ち上がる。
けど、その瞬間隣の席の是枝くんと目が合った。
彼は教科書を揃えながら静かに鞄のチャックを閉めていた。
その動作が落ち着きすぎてて、余計に恥ずかしくなる。
「……駅まで一緒に行くか」
不意打ちみたいな声。
笑い声で満たされていた空間が一瞬だけ静かになった。
「……うん」
短く答えるのがやっとだった。
背後では梨沙たちのひそひそ声がまた爆発して、絶対意識してるでしょ〜!って笑い声が追いかけてくる。
昇降口を出ると、風がスカートの裾をふわっと揺らした。
太陽はもう校舎の向こう側へ傾いていて、長い影が二人の足元に並ぶ。
「……明日、早く起きられるかな」
「寝坊してもどうせ誰も怒らないだろ」
「そういう問題じゃないし!」
彼は小さく笑う。
夕陽に染まったその横顔を見て、なんでもない会話なのに温かくなった。
「心配性だな。瑠奈はちゃんとしてるのに」
「そういうの褒めてる?」
「さあどうだろ」
ふざけたように言うのに目だけは穏やかでまっすぐ。
夕陽に染まったその横顔を見た瞬間、なんでもない会話なのに。
「ほんとに是枝くんって大人ぽいよね」
息を呑むほど静かな間。
照れ隠しみたいに前を向いた彼が少し笑ってそう見える?とだけ呟いた。
「うん、そうだよ。あたしとかしょっちゅう怒られたりしてるじゃん」
そう言った瞬間、口に出してしまったことに気づいて息が詰まる。でも彼は否定も肯定もせず、ただ少しだけ笑った。
夕陽の光がその横顔を染めて、ほんの一瞬だけ時間が止まった気がした。
代官山駅へ向かう坂道。
通りの並木が風に揺れて、車のライトが夕焼けに滲んでいる。
周りの喧騒が少しずつ遠のいて足音だけが並んで響いた。
「……なあ」
彼の声に肩が小さく跳ねる。
「――俺のこと名前で呼んで」
その瞬間、通りを走る車の音が少し遠くへ溶けていった。
坂の上から吹く風が木の葉を揺らして、カフェの看板が小さく軋む。
信号の青が歩道に反射して、人影が交差するたび光がゆらゆらと形を変える。
それなのに彼の声だけがくっきり残っていて、あたしは呼吸の仕方を一瞬忘れる。
「……え?」
「苗字で呼ばれてるのなんか他人行儀だし」
夕暮れの風が髪を揺らして頬に当たるたびに心臓の音が近くなる。
名前を呼ぶたったそれだけのことなのにどうしてこんなに迷うんだろう。今まで男子の名前を呼ぶ意識とかあまり無かったのに。
「……佑磨くん」
佑磨くんの口元がゆっくりと緩み、その笑顔が夕陽に溶けて光をまとったように見えた。
「うん。そのほうがしっくりくる」
光が街のガラスに反射して、影が長く伸びる。
信号が青に変わり人の波が流れていく。
あたしたちだけが少し遅れて歩き出した。
心臓の鼓動が踏切の音よりもはっきりと聞こえていた。




