第二話:抜け道のプラタノ教
重厚なマホガニーの扉が、まるでギロチンの刃が落ちるかのように、
背後で冷たく閉ざされた。
校長室から追い出されたバドルとサンサルは、静まり返った廊下に二人、
立ち尽くしていた。
磨き上げられた床は鏡のように二人の姿を映し出し、
壁に並ぶ歴代校長の肖像画が、揃って追放者を見下しているようだった。
宣告された「退学」という二文字が、まだ現実味のないまま頭の中で反響している。
先に沈黙を破ったのは、サンサルだった。
「ごめ、なさい……」
その声は、罪悪感に濡れていた。
「わたしの、せいで…。バドルさんの、未来まで…」
そう言って、彼女はバドルに深く頭を下げた。
帽子のつばが、彼女の表情を完全に隠してしまう。
「もう…、わたしのことは、構わないでください。一人で行きますから」
それは、決別を告げる言葉だった。
これ以上、自分という「厄災」に彼を巻き込むわけにはいかない。
それが、彼女にできる唯一の償いだった。
だが、バドルは首を横に振った。
怒りでも、同情でもない。
ただ、全てを悟った者の、静かな声だった。
「お前のせいじゃねえ」
「でも…!」
「俺が勝手にやったことだ。
お前を助けたいと、俺がそう判断して、殴りかかった。
ただそれだけだ。結果、このザマだがな」
彼は、ステンドグラスから差し込む光に目を細めた。
「それに、今さら一人になってどうする。
このまま校門から放り出されて、野垂れ死ぬ気か?
俺はごめんだね。
こんなくだらない結末を、ハイそうですかって一人で受け入れてたまるかよ」
その瞳には、奇妙な光が宿っていた。
それは反骨精神であり、この理不尽な世界に対する、
ささやかだが消えることのない宣戦布告の光だった。
「お前は共犯者だ。俺がそう決めた。だから、黙ってついてこい」
有無を言わさぬ口調に、サンサルは何も言い返せず、
ただ俯くことしかできなかった。
◇◇
「…で、これからどうするか、だが」
バドルは壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「まずは金だ。それと、最低限の装備もいる。
寮に残してきた、なけなしの金と…鍛錬用の剣を取りに戻るぞ」
「寮に…?」
サンサルの声が、不安に揺れた。
「でも、今戻ったら…」
「分かってる。何をされるか、想像はつくさ」
生徒たちの好奇と軽蔑に満ちた視線が、脳裏をよぎる。
だが、それでも行かねばならなかった。
無一文でこの先生きのこれるほど、世界は優しくない。
「お前も、必要なものがあるだろ。親の形見とか、捨てられねえもんの一つや二つ」
バドルの言葉に、サンサルははっと顔を上げた。
彼女の脳裏に、両親から受け継いだ一つの古いペンダントが浮かぶ。
「…行こう。ぐずぐずしている暇はねえ」
本館から寮へと続く渡り廊下は、まるで晒し台のようだった。
窓の外から、中庭から、すれ違う生徒たちから、無数の視線が突き刺さる。
昨日まで同じ教室で学んでいたはずの彼らの目は、
今や完全に異物を見るそれに変わっていた。
バドルはその全てを無視して前だけを見て歩き、
サンサルは数歩後ろから、帽子の影に隠れるようにしてついていった。
やがて、道が二手に分かれる。男子寮と、女子寮へと続く道だ。
「俺はこっちだ」バドルは男子寮の方を顎でしゃくった。
「お前は女子寮へ行け。必要なもんだけ鞄に詰めて、さっさと出てこい。
校門前で落ち合う。いいな、ぐずぐずするなよ」
「…はい」
サンサルが頷くのを確認し、バドルは踵を返した。
男子寮の自室は、予想通り、悪意によって塗りつぶされた墓場のようだった。
引き裂かれた教科書、泥に汚れたベッド、壁の罵詈雑言。
バドルは何も言わず、使えるものだけを無言で鞄に詰め込んだ。
怒りはとうに通り越し、冷え切った諦観だけが腹の底に沈んでいる。
校門前で待っていると、やがてサンサルが姿を現した。
彼女もまた、一つの鞄だけを手に、シミのついたローブと帽子を深く被っている。
その姿だけで、女子寮で彼女がどんな仕打ちを受けたかは想像に難くなかった。
バドルは一度も振り返らず、サンサルと共に校門をくぐった。
二人は、学校に隣接する街エルサドルの喧騒の中に、ただ放り出された。
馬車の蹄が石畳を叩く音、露店の商人たちの威勢のいい呼び声。
その活気は、行く当てもない二人にとっては
孤独を際立たせるだけの騒音でしかない。
広場の中央にある噴水の縁にどかりと腰を下ろすと、
サンサルもおずおずと隣に座る。
水の跳ねる音が、気まずい沈黙をわずかに和らげていた。
先に沈黙を破ったのは、やはりサンサルだった。
「ごめ、なさい……」
その声は、広場の喧騒にかき消えそうなほどか細かった。
「わたしが…わたしが、
闇魔法の使い手だから…。
無神教だから…。
神様に、祈らない、悪い子だから…。
だから、バドルさんまで…!」
堰を切ったように溢れ出す言葉は、
彼女がずっと自分に言い聞かせせてきた呪いだ。
バドルは噴水を眺めたまま、静かに口を開いた。
「お前さ、なんで神様に祈らないんだ?」
「え…」
「無神教なんだろ? 神様は死んだ、とかそういうやつか?」
予想外の問いに、サンサルは言葉に詰まる。
「…両親が、そうでした。
無実の罪で…処刑される時も、神には祈りませんでした。
だから、わたしも…」
「そうか」
バドルは短く応じると、
今度はサンサルの方を向いた。
「なら、いいじゃねえか。祈りたくないなら、祈らなくて」
「で、でも、それが原因で、わたしは…」
「俺は違うと思うがな」
バドルは、呆れたように笑った。
「連中がお前をいじめてたのは、お前が祈らないからじゃねえ。
ただ、自分たちと違うやつを見つけて、叩いて、楽しみたいだけだ。
そこに神様なんて関係ねえよ。
連中が口にする神様なんてのは、
自分たちのくだらない正義を飾り立てるための、都合のいい道具だ」
その言葉には、昨日までの彼にはなかった、
冷え切った確信があった。
「俺の信じてる『プラタノ教』ってのは、別に大層なもんじゃない」彼は続けた。
「祈らなくてもいいし、祀らなくてもいい。
ただ、俺が争いたくないから。
無駄に傷つきたくないし、誰かを傷つけたくもないから。
そのために作った、自分だけのルールみたいなもんだ。
正直、ゆるゆるの教えだよ。
…だけど、俺はそれを破った。真正面から殴り合って、結局このザマだ」
バドルは自嘲するように両手を広げた。
「正攻法で戦って、正しいことをしたつもりで、
結果これだ。何も守れやしなかった。馬鹿みたいだろ」
その、あまりにも人間的で、自分勝手で、そして正直な告白に、サンサルは目を見開いた。彼女が知るどんな教えとも違う。神の威光も、血の呪いもない。
ただ、一人の少年が
「そうしたいから」という理由だけで作り上げた、不完全な信条。
その不完全さが、なぜか彼女の心を軽くした。
固く閉ざされていた唇が、かすかに綻ぶ。
「…ふふっ」
「……なんだよ」
「そんな、面白い教えがあるなら…」
サンサルは、シミのついたローブの袖をぎゅっと握りしめて言った。
「わたしも、少しだけなら、信じてもいい、かな…」
その笑顔が、バドルの心に突き刺さった。
全てを失ったと思っていた。
だが、目の前には、自分を信じようとしてくれている少女がいる。
——まだ、終わっていない。
もう一度、やり直せる。
真正面からぶつかるのではなく、誰も傷つけず、それでも目的を達成する。
正攻法ではなく、抜け穴を通して。
「さて、と」
バドルは膝を叩いて立ち上がった。感傷に浸っている暇はない。
「で、これからどうする。金は? 俺はほとんどねえぞ」
「わ、わたしも…。少ししか…」
宿もない。食料もない。二人合わせて、銅貨が数十枚。これが現実だった。
少年少女が、学歴も保証人もなく、今すぐに日銭を稼げる場所は、
この街に一つしかない。
「ギルドに行くぞ」
「ギルド…? でも、冒険者なんて、魔物と戦うのは…」
サンサルが不安げに顔を曇らせる。バドルはニヤリと笑った。
「馬鹿言え。誰がまともに戦うかよ。
ギルドの仕事は戦闘任務だけじゃねえ。
街の掃除みてえな日雇い仕事も、薬草みてえな採集依頼もある。
今の俺たちにすぐできて、すぐに報酬がもらえるのは、それくらいだ」
「薬草…」その言葉に、サンサルが小さく反応した。
「それなら…。魔法の実験でよく使ったから、種類なら、少しは…詳しい、です」
初めて、彼女が自分の知識を前向きな力として口にした。
バドルの笑みが、さらに深くなる。
「そりゃいい。なら決まりだ」
バドルは、冒険者ギルドの大きな看板を指差した。
その目は、昨日までの絶望を引きずってはいなかった。
むしろ、これから始まる新しいゲームを前にした、不敵な光を宿していた。
「見てろよ、サンサル。モンスターなんざ積極的に倒さなくても、
冒険者としてやっていけるってところを見せてやるよ。
正攻法で稼ぐエリートどもを横目に、
ふざけた手段で荒稼ぎして、笑い飛ばしてやろうぜ」
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