覚醒編
プロローグ
神を信じますか?
どこぞの怪しげな新興宗教の信者が、おもむろに聞いてきそうな質問だが、まぁ待って欲しい。
この質問に対して、この文字が読める人間はだいたい『まぁいるんじゃない?』とか『いたらいいなぁくらいに思ってます』とか『あー自分は無神論者っすね』みたいに無難なことを言うだろう。
俺もそうだ。『まぁいるんじゃね? どうせ傍観主義者だし、いてもいなくても変わらねぇよ。んなことより最近、野菜とタマゴ高すぎじゃね? 肉食った方が安上りだぜ?』とか言う。
どこかの強烈な思想を持った人間が聞けば、自宅を月まで吹っ飛ばされたり、まるごとキャンプファイヤーの材料にされたりしかねない言い草だが、まぁまぁ待って欲しい。まだ続きがある。
興味深いことに、この文字が読める人間は『神の存在』に否定的な癖して、『神の力』に関してはそれなりに信じているのだ。面白いだろう? 存在しない存在の、力を信じて、恐れていたりする。
なにかと物を『罰が当たるから』と大切にしたり、『悪いことをすると天罰が下るぞ』と子供を脅してみたり。なんだよ、罰とか天罰って。
と、ここまでほとんど意味の無い話を展開したし、この話にはオチもない。
今までのくだりで重要だったのは、俺は神を傍観主義者だと思っていたことと、居ても居なくても何も変わらないと思っていたことだ。
そんなありふれた思い込みで、俺はこの世界を無意味に生きていた。だらだらと、一般的な人間よりも危機感を薄くしてぼうっとしていた。
でもある日、
傍観主義者のふりをしていた神に、
俺は生きる意味を植え付けられた。
そう、『植え付けられた』のだ。
忘れもしない、キプロス歴1829年の寒さが強まってきた頃。
オーエン・ケイターは雪の積もった通りに腰をおろしていた。
「俺、またなんかやっちゃいましたか?」
世界最大の大陸、グランデ大陸。その中部に位置するブロンテ公国。
豊かで、落ち着いた小国。様々なことが嫌になって故郷を飛び出した先で、オーエンがたどり着いたオアシスだった。
だが、一見平和そのものに見えるこの国にも少しばかりの闇は垣間見える。
例えば先ほど、
「よぉお姉さん、かわいいね。この後暇?」
と軟派な男に絡まれている少女が居た。
少女は全面から失せろオーラを醸し出していた。その割に拒否も出来てなさそうな感じだったので、善意から救いの手を差し伸べてみたのだ。
「おい、おっさん。そういう古い手はやめとけ。世の潮流に乗り遅れてるぞ」
「あぁ? 誰お前、俺が誰だか知ってんの?」
知るか、と口にしかけるも、それを寸でのところで抑える。
「とにかく、やめとけ」
そういう、ありがちなやりとりを数手行い、無事に軟派男を撤退させることに成功した。
そこまでは良かった。
「大丈夫か?」
ぶつぶつと文句を垂れながらどこかへと去っていく男の背を尻目に、少女にそれとなく無事か確認をする。
「……余計なことしないで」
「え?」
予想外の返答にオーエンは目を剥いた。
別に感謝が欲しくて助けたわけじゃない。完全な善意で、特に深く考えず助けただけだった。でもまさか「余計なことをするな」と言われるとは思っていなかった。
呆気に取られていたわずかな隙間。その間に、少女の表情はほぼ無になっていたが、無表情なはずの顔から、隠されていない嫌悪感が見えた。
「気持ち悪い」
氷のように冷たい視線、そして氷柱のように尖った声色で吐き捨てるように言われた。
心がへし折れる音がした。
気持ち悪い。その音が頭の中を延々とループして、心を削り取っていく。オーエンは、もはや言葉すらでなかった。
気がつけば少女の姿はなく、オーエンは建物を背に地面へと腰をおろしていた。
「神様……俺、なんかやっちゃいましたか?」
と、いるのかも分からない存在に対して、女性恐怖症になりますよ、と文句を垂れている始末。先ほどの言葉はそのくらい効いた。セリフだけではなく、言い方もかなりきつく突き刺さった。
なにかやったかと言えば、まぁやったのだが、これほどの仕打ちを受けることだろうか。
「地面つめてぇ」
お尻の方から耐えがたい冷たさが伝わってくる。しかもこの地面の固さ、腰へのダメージは計り知れない。将来的に腰痛持ちになりたくないオーエンは、お尻の汚れを軽く叩きながら立ち上がった。
ふと、目の前にある建物と建物の間が気になった。路地になっている。いわゆる路地裏というやつだ。
路地裏はオーエンが立っている通りよりも一段と薄暗く、そして誰の目も寄せ付けない。地面は続いているのに、外界と切り離されているように見える。その薄気味悪い隙間の奥が気になったのだ。
この冬季の中だ、内部の様子はよく見えない。目を凝らしてみてようやくわかった。
シスターと、大柄の誰かが口論している。
「またか」
このブロンテ公国では男女の問題が深刻になっているのだろうか。十五分もしないうちに二件も似たような事件に出会うとは。
「流行ってんのか?」
だが、今回は違う。先ほどのことでオーエンは学んだのだ。下手に手を出してはいけないと。この国ではもう少し慎重に事を見守らなくてはならないと。
傾向と対策。生きる上でこの二点は非常に役に立つ。
背後の建物に、再び背を預ける。上目遣いでそれとなく視線を向け続けた。
しかし、その静観は長くは続かなかった。
一閃。鈍い鋼色の輝きが路地裏の中で流れたからだ。
「それは洒落にならん」
大通りを横切り、対岸の路地裏へと歩みを進める。そのままの勢いで中へと飛び込む。
「おい、お前! 刃物はマジで洒落にならんぞ!」
酷く怯えた顔のシスターに迫る、その大きな背中に向かってオーエンは叫んだ。フードを被っているので背後からでは何も分からないが、多分男だろう。その右手には大きな肉斬り包丁が見えた。
シスターの視線がこちらに向く。
「一般人⁉ ……ここから出ていってください!」
怯えた顔から一転、こちらをまるで責めるかのような顔でシスターは言った。柔らかそうで、可憐な少女の口から鋭い音が飛び出る。
心が抉れた。
「なんだよ、もおおお! またかよぉおおおー!」
なんだこの国は。襲われていたり、無理に迫られている女性に手を出してはいけない法律でもあるのだろうか。
「早く! 危険です! 早く出ていってください!」
「?」
どうやら、こちらを鬱陶しがって言っているわけではないらしい。いやしかし、それにしてはセリフがおかしい。刃物を持った男(多分)が迫ってきている状況だ。普通は出ていってではなく、助けてとか言う場面ではないだろうか。
シスターに迫る大柄の影がその足を止める。そのままゆっくりと振り向いてきた。
どんな下衆な顔をしているのか一目拝んでやろうと思い、オーエンは薄暗い中で目を凝らす。
「な、に?」
凝視した先に現れた光景に、オーエンは動揺を隠せなかった。
顔が、というよりも頭がなかったのだ。
背後から見ていた限り頭はあった。フードがそれくらいに膨らんでいた。しかし、いざ正面から見てみれば頭部がない。路地裏が暗くて、フードの陰に隠れているわけではなく、完全に消え去っている。
「魔物かっ!」
(だとするとまずい!)
オーエンは警戒心を一気にレッドアラートまで引きあげて、後方に飛び退く。
右足になにか引っかかった。見れば空の瓶だ。魔物相手にどれだけ使えるか分からないが、とりあえず手に持っておく。
「違います! 魔物ではなくピースです!」
「え、はい」
シスターに言われた通り、オーエンは指を二本立て、ピースサインを送る。笑顔も忘れない。
「違いますよ! ふざけてるんですか⁉」
「ふざけてないよ、ピースって言ったのそっちだろ⁈」
「あぁ、もうっ!」
オーエンの場違いな行いを見て、相手にしていられないと思ったシスターは、こちらへ背中を向けている化け物に向かって地面を蹴った。
左手を前に差し出し、化け物へと掌を向ける。
「汝、金の錠を食みて、虚辞の神罰を受けよ!」
口述詠唱。魔力に対し、言葉で語りかけて魔法を発動させる、魔法使いにとって最もスタンダードな詠唱方法である。
「なっ! 魔法使いか!」
オーエンはシスターの口述詠唱に驚き、さらに後方へと飛び退く。化け物との距離がおよそ五メートルほど開く。だが、シスターの使った魔法によってはこれでも距離が足りない可能性があった。
とりあえず下手に近寄らず、オーエンは様子を見ることに努める。
シスターの言葉によって収束した魔力は、金色に光り輝く鎖と錠に姿を変えた。鎖はまるで蛇のように空中を這い、魔物の身体に絡みついていく。
「大蛇の轡」
魔法名の宣言と共に、錠がガチャリと大きな音を立てて魔物の胸辺りを施錠する。放った魔法は拘束魔法だった。
「お知らせ! P/1598が今週末に最接近! 週末は空を見上げよう!」
薄暗がりの中、仄かに輝く鎖に縛り上げられた魔物は、意味不明な叫び声を上げ、地面に倒れ込む。
シスターは左手を引き絞り、更に鎖の拘束を強めた。
「今のうちに早く逃げてっ! これほどの巨体は私では長く止めてはいられません!」
左腕がぷるぷると震えるほどに力を込めながら、しかしこの期に及んでまだオーエンに逃げろと促してくる。
「あんたはどうすんだよ!」
「これを倒します!」
拘束すらやっとのように見える相手を、シスターは倒すと言って見せた。しかしながらその額に浮かんだ汗の量を見れば、放った言葉はただの強がりであることがよく分かった。
だから、オーエンはその場から足を離さなかった。いや、巨体に向かって足を出した。
「な、何を⁉ 相手はただの魔物ではありません! ピースです、あなたのような一般人にどうにかできる相手ではっ……」
自分の忠告とは全く逆の行動をするオーエンに、シスターはその赤い瞳を大きく見開いた。
オーエンは、目の前の魔物がピースだとか、一般人にはどうにもできない相手だとかそんなことは知らなかった。
それでも、目の前でなにやら困っている少女がいて、それを放って自分は逃げるなんていう行動は完全に間違いであることは知っていた。
「お知らせだよっ! 我ら野に在りて、未だ衰えず」
幼女のような声から、腹の底まで響く大男のような声。
意味不明かつ全く音程が定まらない叫びを上げて、ピースと呼ばれている魔物が身を捩った。その巨体の動きに合わせて、シスターが前後によろめいてしまう。
「もう、ダメですっ……とても抑えられないっ」
金色に輝く鎖にヒビが走る。砕けた破片が金粉のように宙を舞った。
ヒビを切っ掛けに拘束を打ち破ったピースは、両手を地面に突き、ゆらゆらと立ち上がる。距離を詰めていたオーエンの目の前に、身長が自分の倍はあろうかという巨体が聳え立つ。
血管が浮き上がるほどに発達した右腕を振り上げる。手には巨大な肉切り包丁が握られている。
「さっきから思ってたけど、お前どっから話してんだ?」
頭がないのだから、当然口もない。声はどこから聞こえるのだろうか。
「お知らせだよっ! dHVraWRh」
元から意味不明だったが、ついにただのノイズを言い放ち、魔物は右腕を振り抜いた。
鈍く輝いた、刃こぼれし放題の肉切り包丁が地面に深々と入り込む。地響きと轟音が路地裏を強く揺らした。
「うおっ!」
オーエンはその刃のすぐ隣にいた。恐る恐る右隣を見ると、まるで磨いていない鏡のような刃に自分の顔が映っている。顔面蒼白だ。
思い出したように動き出した頭と体が、真っ先に神経を向けたのは右手だった。
握られていた空の瓶を真横の刃に当てて割る。思ったよりも鋭角に割れてくれた。それでも出来上がったのは、武器と呼ぶにはあまりにも儚く頼りない一品。だが、素手よりはまだ安心できた。
(いけるか? いけるよな? いけてくれ、お願いします)
オーエンは、不安と恐怖に震える右腕を左手で抑えると、ボトルネックを強く握りしめ、構えた。
(大丈夫だ、大振りに加えてこの巨体。環境的に横振りは来ない。真っ直ぐ縦だけ意識すれば避けられる……つーか俺の腕、鈍ってないよな? 鈍ってたらどうしよう)
オーエンは多少腕に自信があった。しかし、前線から退いて久しい。腕に錆が浮いていてもなにもおかしくないほどの時間が経っていた。その上、この頼りないほぼゴミ言えるもので戦わないといけない。
オーエンの頭には、シスターの忠告通り逃げておけば良かった、という後悔の思いが巡っていた。
反撃を貰えばただでは済まない。加えて、この市街地という環境。下手に傷を付けて、目の前の化け物が暴れればその被害は想像したくないほどに膨れ上がるだろう。つまり、オーエンは攻撃を一切貰わず、出来るだけ一撃で、迅速に倒す必要があった。
オーエンの震える右腕を、シスターは膝に手を突いて息を整えながら見ていた。
「……弱点は鳩尾です」
ようやく逃げろとは言わなくなったシスターに、オーエンはわずかな喜びを覚える。芽生えた喜びと希望に流れを任せ、半ば無理やり震えを止めた。
敵の弱点は分かった、この戦いも腕の錆びを落とす為、困っているシスターを助ける為と思えば後悔はない。
(行けるっ!)
確信にも似た、いや、確信を抱いたオーエンは地面へ倒れ込むように前傾姿勢となり、その勢いのまま地面を蹴った。それと同時に肉斬り包丁がすっと地面から抜き取られるのも見えた。
攻撃が来る。頭の片隅でそう警告が飛ぶ。しかしオーエンは一切身構えなかった。足を止めなかった。
「危ないっ!」
化物の第二撃に対して一切の無防備を貫くオーエンに、シスターは喉が詰まったように叫んだ。しかし、その叫びにすら無関心のオーエンは、既に振り下ろされた不潔な刃の下には居なかった。
どこに行ったのか。シスターは、地面に突き立てられた刃の周辺を、巨大な背中の後ろから見回す。けれどオーエンの姿は見られない。
それは当然だった。オーエンは既に、ピースという化け物の懐に居たのだから。
全身を右へ半身逸らし、鋸のようにボロついた刃を避けたオーエンは、巨大な刃の隣を疾走する。隙だらけの化物に肉薄した。自身の倍はあるだろう巨体の鳩尾に狙いを付けるべく、つま先に力を込め、地面を離れる。そして、丁度目の前に来た弱点を前に、こう唱え続けた。
(真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ……)
一撃で弱点を突く為に、徹底してそれだけを意識した。刃の通り道が決して逸れないように、弱点から目を逸らさないように。ただただ自分に命令を飛ばした。
そして、その命令を受けた右腕が動き出す。
肘を前方へ突き出すように右手を左肩の辺りまで持ってくる。そして、右手の握力以外の力を全身から全て消した。空気を全て吐き出し、肺を空にしてそのまま止める。コンディションを整え、時が来るのを待った。
一撃に全てが乗る、一瞬の時を待った。
それは、例えるならば、朝露を湛えた葉が一滴の重みに耐えかねて露を手放すような、とても自然な時だ。しかしその一瞬は、やはり一瞬で、この滞空時間の間にコンマ数秒すら訪れない。あまりにも刹那的な時間を、オーエンは捉えなければならない。
だから、一切の情報を遮断して、ひたすらに暗示を続けながら時を待っていた。
自分の心音以外が遮音され、滞空時間が永遠にも思えるほど伸びていく。それほどまでに集中を重ねたオーエンの手に、ついにその時がやって来た。
オーエンはまだ命令を飛ばしていない。しかし手先以外脱力していた右腕に力が込められ、二の腕、前腕へと伝達していく。待ちわびた時に対して、オーエンの意識よりも右腕が先行した。
腕が伸びきるのと、全力が右腕に籠る、化物の弱点にヒットするのとが全て同時に起こるように、勝手に右腕が動いた。
(真っ直ぐ……振り抜けっ!)
オーエンが自意識で動いたのは、それらが完了してから。最高の状態となった右腕を邪魔しないように、右肩だけを動かした。
「雨露一刀っ‼」
シスターがその叫びを聞いたのは、ピースの身体が、肋骨の中ほどからずるりと真横にズレた瞬間だった。
右から左へ綺麗な直線でも描いたように、両断されたピースの両腕と胴体が落下する。そしてその向こう側に、通りからの逆光を背にした、ひとりの青年の影を見た。
「嘘……でしょう?」
断面から漏れ出た血が作り出した血だまりに、べちゃりと音を立てて、ピースの諸々が倒れ込む。その光景を目にして、シスターはこれが現実であるかどうかを疑うしか出来なかった。
(一撃で? 一撃で倒したと言うの? あのピースを、なんでもない一般人が……しかもあんな武器とすら言えない瓶の破片で?)
オーエンは知りもしないが、あのピースという化物はそう甘くはない存在だった。だから、シスターは目の前の光景に驚愕を隠せなかった。興奮を隠せなかった。
絶え絶えだった呼吸を整えるのすら忘れ、膝に手を突いていた身体が起き上がる。いや、前のめりになった。あり得ない光景を作り出した張本人を目に焼き付けるために、まるで憧れの存在を前にしたように食い入っていた。
一撃を放ったオーエンは、役目を果たして砕けてしまったボトルネックを手放し、血だまりを避けることなくシスターの方へと向かう。
「……大丈夫か?」
先ほどの少女に同じセリフを放ったら、気持ち悪いと言われたトラウマが蘇る。でも、それ以外に掛ける言葉を思いつかなかったので、心をへし折られる覚悟で無事かどうか聞いてみた。
「え、えぇ、大丈夫です」
路地裏の薄暗がりの中で、今まで全容がよく分からなかったが、近づいてみてわかった。シスターはオーエンの思っていたよりも、数段上の鋭さを持った近づき難い印象の顔つきだった。けれど、その鋭さの中に幼さもあって、かつ言葉遣いは柔らかい。見た目の印象は鋭いが、どこか慈愛に満ちた、やはりシスターらしさを覗かせる可愛らしい少女だ。
フードの陰から少しだけ見える、その存在感溢れる金髪は、濡れた筆のように繊細で艶やか。暗がりの中、微かに差し込んだ光を集める瞳は、静かな赤を灯していた。目つきと同じようにツンと尖った小さな鼻は、小さな顔の中心に立っている。
そんな奇跡的な美しさを持った少女は、不安からか、黒いシスター服とは明らかなギャップを感じるキラキラとした金の髪を弄りながら、赤い目でこちらを見つめていた。
「ですが……あなたは何者ですか?」
拘束魔法を放ったことで多少の疲れはあるものの、怪我はひとつもない。そもそも、そんなことはどうでもよかった。シスターは目の前の青年についての興味しかなかったから。
「俺は、オーエン・ケイター。流れの……まぁ旅人かな」
どうにも格好を付けたいオーエンは、ふらふらと端金を稼ぎながらあちこちを巡っている根無し草とは言えなかった。実際、故郷を飛び出して大陸中の国々を巡っている為、間違いではないはずだ。物は言いようである。
「あんたは?」
「私は、アンナ・ブレイブ。シスターです」
「シスターさんね……んで? こいつは何よ」
今しがた、血だまりに伏せさせた大きな化物。アンナは確か、ピースと呼んでいた。オーエンは魔物と呼んだが、違いはあるのだろうか。
「これは、ピースと言う……どうでしょう、私たちの敵です」
「魔物、ではないんだな」
わざわざ敵だと言うのだから、そうなのだろう。オーエンはそう解釈した。
しかし、
「私たち?」
と言ったことに関しては、少し引っかかった。
「はい、私たち、スクラップ・アンド・ビルダーズの敵です」
「スクラップ……なに?」
なにやら耳慣れない組織名が飛び出る。この国の独自組織、自警団のようなものだろうか。
「スクラップ・アンド・ビルダーズ。世界救済のための組織です」
「……」
このシスターは今、なんと言っただろうか。オーエンの耳がおかしくなければ、世界救済と言ったように思える。
「え、なに? すまん、もっかい頼む」
「ですから、私たちは世界救済のために活動する組織の――」
「待て、その世界救済ってなに?」
アンナが言っている言葉の意味と文字は分かる。分かるのだが、単に言われただけではよく分からない。世界救済。先程の化け物とどのような関係があるのだろうか。
「……気になりますか?」
呼吸を整え終わったアンナは、どこか確かめるような口ぶりで聞いてきた。
「まぁ……」
オーエンの背後に倒れ込んだ大きな化け物。ピースの死骸を横目に見る。あんな化け物は見たことがなく、そもそも街中に魔物が出現していること自体が疑問だ。不可解極まるこの一件に、微妙に関わってしまったオーエンは、その事を気にならないとは言えようもなかった。
「では、事情は後ほど説明します」
アンナは、汗で額に張り付いた前髪を掻き上げてから、それよりもと続けた。
「お腹は減っていませんか? お世話になったので何かご馳走しますよ」
「え、まじ、いいの? いやぁ、金がなくて困ってたんだよなぁ」
オーエンはブロンテ公国に来てからというもの、あまりに平和な国のため、日々を無為に過ごしていて路銀が底を尽きかけていた。なので、アンナの提案には心底喜んだ。
「では、お店までご案内します」
アンナはオーエンの横を通り過ぎ、大通りの方へと向かった。
この時の俺は完全に失念していた。とても良い香りを振り撒きながら、目の前をゆったりと歩いているシスターは当然ながら神に仕える者であると。
この時の俺は気付かなかった。目の前の信徒は、傍観主義者を気取っている神が、俺に人生を歩む意味を植え付けるべく向かわせた、神の使徒であると。
危機感のない暮らしを送っていた俺は、この時の選択が自分の人生を大きく左右するとは、
思いもしなかった。
第一章 スクラップ1
アンナに付いて行った先に見えたのは、一軒のカフェだった。
古ぼけた赤いレンガで構成された店の名前は『ALL・Gold』。店名が書かれた突き出し看板が冷たい風に晒され、キコキコと音を立てながら揺れていた。
「中へどうぞ」
そう言って、アンナが丁寧に店の扉を外側へ開いた。カランカランと、客の来訪を知らせるベルが鳴る。オーエンはアンナに軽く礼を言いながら、その店内へと足を踏み入れた。
「おぉ……」
床板を数歩踏み込むと、オーエンは無意識的に感嘆の声を漏らした。店内の様子がオーエンの理想をなぞっていたからだ。
冷たい外界とは比べようもないほどに温められた店内。充満しているコーヒーの良い匂いを逃がさないように貼りつけられた壁紙は、シックながら気取っていない。床板もその上品さに負けないように、まるで砂糖を強く焦がしつけたかのような淡い焦げ茶で揃えられていて、少しばかりの古臭さを感じる。けれどその古臭さは腐っておらず、包み込むような懐かしさを感じさせる印象だ。決して悪いイメージではない。
備え付けられた椅子やテーブルも、落ち着いた色で統一されており、大切に使い込まれていた。
オーエンはそのまま引き込まれるように、一番奥のカウンターに着いた。
「おや、いらっしゃい」
店員だろうか。キッチンか、控えか、カウンターの向こう側から、驚いた猫のようにひょっこりと顔を見せた女性がそう言った。
こつんこつんと床板を子気味良く鳴らしながらオーエンの前に全身を晒したのは、二十代後半の雰囲気をむんむんと放つ、まさに大人の女性。ピアノのボディのように艶やかな黒色のショートヘアに、ミステリアスながら人懐っこい笑みを浮かべた顔。けれど、その笑みがどこか嘘くさく、それでいて困っているようにも見える。恐らく、糸のように細められた目と、目元の泣きぼくろのせいだろう。
清潔感のある長袖の白いブラウスに、身体の前面を覆い隠したグレーのエプロンを身に着けている。そのエプロンを軽く押し上げる程度に膨らんだ胸がまたいやらしく、もはや必然的にオーエンの視線を奪い去った。
バレないうちに視線をアンナに移す。
「ナギさん、彼になにか良いものをお願いします」
と、オーエンの隣に着いたアンナは、かなり曖昧な注文を投げかけた。
カウンターの向こう側にいる女性はナギと言うらしく、アンナの気心知れた声のトーンからして、どうやら顔見知りのようだ。
その注文にナギは腕を組み、考えるように口に手を当てた。押し当てられた手に、薄い唇が困ったように歪む。
「良いものねぇ……少年、なにか好きなものはあるかい?」
少年、そう言われて若干固まってしまう。しかも質問が曖昧だ。何が好きなのかについて聞かれていない。まぁ、状況からして食べ物のことなのだろうが。
「甘い物、ですかね」
「そうかい、意外と甘味好きかい」
どこが意外なのか気になるが、ナギはさっさとキッチンらしき店の裏側へ消えてしまったので置いておく。
「で、アンナはなんなの?」
「単刀直入ですね」
アンナが、鋭い視線を和らげて、苦々しく笑う。
「まぁ、皿が来るまで時間あるだろうし、聞いておこうと思ってさ」
もちろん、他にも世間話のネタはあった。だが、やはり先ほどの一件について聞きたい思いの方が大きい。
「まず――」
と、オーエンの質問に対して、アンナが答える。その答えから更に質問が産まれる。まるで樹形図のように広がる謎をまとめるに至ったのは、オーエンが最初にぶつけた質問から二十分経ってからの事だった。
まとめるとこうだ。
「つまり、世界は悪い神様の手によって滅亡の危機に瀕していて?」
オーエンは頭痛に苛まれ、顔を顰めながら額に手を当てて、二十分の攻防で得た情報を確認の為に要約する。
「はい」
アンナは真剣な眼差しで頷いた。
「アンナはその危機に抗う為に活動する組織、『スクラップ・アンド・ビルダーズ』の一員ってことか。で、その組織は正義の神様によって結成されたと」
また真剣に頷く。
「で? さっきの化け物は、悪い神様が世界を危機に貶めるために寄越したピースっていう名前の悪い奴で」
もう一度視線を向けるが、困ったことに真剣な眼差しは変わらない。
「世界を救うために、アンナはあいつを退治しようとしていたってわけね?」
「そうですね」
「なるほど……なるほどなぁ」
言いたいことは大体わかった。アンナの言っていることが本当なら、確かに世界救済だ。けれど、それを信じるほどオーエンの頭はメルヘンではない。
「っすー……クスリ……と、か、やってる?」
そのメルヘンをクソ真面目に語り、未だ真剣な眼差しを向けるアンナに、オーエンは少々聞きにくいことをたどたどしく確認した。
「やってません」
「なら、実は全部手の込んだ仕込みで、俺をここに誘って怪しげな宗教に勧誘しようとか」
「してません」
「なら、怪しげな壺を――」
「買わせませんって……あの、なんだかバカにしてません?」
アンナが拗ねたように口を曲げて睨んでくる。その睨みは迫力があるが、口調が柔らかいせいで少しだけ可愛い。
「うーん、悪いけど八割はそうかな」
「えぇっ、何故ですか? さっきピースをその目で見たじゃないですか、一撃で倒して見せたじゃないですか」
アンナは納得できないと、身を乗り出して鼻息を荒げる。
「いや、そうだけど」
その必死さに若干引きながら、オーエンは得た情報の真偽を改めた。確かに、あのピースという化け物に関しては仕込みではないのだろう。この目で見たし、なんなら斬ったわけだから、存在は間違いない。けれど、あれが本当にアンナの言う、悪い神が仕わせた使徒とは限らない。あんな化け物は見たことがないが、オーエンの知らない魔物である可能性も排除できないからだ。
「神って……俺、あんま信じてないし」
そうここだ。問題はここだ。ピースの事だけなら全然信じることが出来るし、世界の危機もまぁ否定はしなかった。だが、神という胡散臭い存在を口にしたことで、信用度ががくんと下がってしまった。
「何故信じていないんですか?」
オーエンの発言に、アンナは先ほどまでの必死さをすっと引っ込め、きょとんとした顔で不思議そうに聞いた。
「いや、完全に信じてないわけじゃないぞ? 居るんじゃないのって思ってるくらいだ」
別に神の存在に関しては否定的ではないのだ。だが、オーエンはどうにも神様という存在に対し、嘘くささを感じてならなかった。
「神様ってさ、辛くても助けてくれないし、なんか試練だけ投げつけて後は自分たちで解決しろっていう超無責任な奴だろ? 信用ならんよそんな奴」
「むぅ……」
不満そうだ。とても不満そうに頬を膨らませている。やはり、その鋭い顔つきの中に幼さが存在しているようだ。見ていて面白いし、可愛らしい。
「まぁ、宗教的思想は人それぞれですからね」
納得したようなセリフを口にしたが、どうみても不満そうだ。頬をまだ膨らませている。
「アンナは信じてるのか? 神様の存在とか、やることなすこととかさ」
「信じてますよ。シスターですから」
「そうか……」
なんというか、その出で立ちと言い、志と言い、アンナはオーエンの故郷に居る幼馴染を連想させた。
(うっわ、きっしょ。初対面の女の子にどんな幻想抱いてんだ俺は、だから見ず知らずの女の子に気持ち悪いなんて言われるんだよ)
オーエンは自己嫌悪の途中で最新のトラウマを掘り起こし、勝手に傷ついた。頭痛に苛まれる頭を両手で抱える。
「なんですか?」
「いや、なんでもない」
と、適当に誤魔化したところで、カウンターの向こう側からあの子気味の良い足音が響いてきた。片手に二枚の皿を持ったナギだ。そう言えば、謎の解決に努めていたせいで時間がかなり経っている。気がつけば店の中に甘い匂いが広がっていた。
ナギは音を立てないよう小指をクッションにし、オーエンとアンナの前に皿を並べた。その左右にカトラリー類を配置してくる。
優し気な温もりと共に、香ばしく甘い匂いが強く香る。
「どうぞ、フレンチトーストだよ。特注だから三割増しね」
「えぇ! そんなぁ」
「ふふふ、冗談だよ。それで、アンナ。彼の勧誘は済んだのかい」
「ぃ、え?」
丁度、カトラリーを手にし、フレンチトーストにナイフを刺し入れていたオーエンは、勧誘と言う言葉に動きを止めた。頂きますという言葉は声にならず、間抜けで情けない音が漏れる。
横目でアンナを見る。
「やっぱり、怪しい宗教に勧誘を――」
「してませんし、それもしてません」
オーエンとナギにそれぞれ返答する。
「でも、話の内容を聞いた限りじゃ、勧誘するんだろう? と言うか、じゃないと話しちゃダメだしね」
オーエンは、何か不穏な気配を感じていた。こう、自分の与り知らぬ所で話が勝手に進んでいるような、そういう嫌な感じだ。
「それはそうですが……もう少し時間を掛けて、せめてこのトーストを食べてからにしようと――」
「いや、今で良い。俄然気になってきた」
というよりも、モヤモヤと曇り模様のままで、この皿に手を付けたくなかった。
バターがトーストの熱で溶けだし、てらてらと光っている。その輝きから目を逸らし、アンナへと向ける。
言うべきかどうか、うんうんと唸って悩んでいる。でも、いくらかして決心がついたのか、アンナは妙にシリアスめいた顔で口を開いた。
「では、結論から言います」
身体の正面をこちらに向け、赤い目を鋭く細めてこちらを見据えた。流石に横目で見ているだけでは誠意がない。カトラリーを置き、オーエンも身体の正面をアンナへ向けてから、続く言葉を待った。
だが、どのような言葉が飛び出るのか、オーエンは大方の予想がついていた。
「オーエンさん。あなた……スクラップ・アンド・ビルダーズに入りませんか?」
「いいよ」
直前のナギとのやり取りからその言葉を予想していたオーエンは、あっけらかんと承諾した。
「おぉ、流石男の子だ」
ナギが、香ばしく大人びた匂いを漂わせるコーヒーを白いカップに注ぎながら、ぼそっと呟く。そのまま、グロスで淡い桃色に色づいた唇をカップに付けて、軽く啜った。
ふぅ、と一息。
「俺にもコーヒー貰えないですか?」
あまりにも美味しそうに飲むものだから、オーエンもコーヒーが欲しくなってたまらなかった。
「いいとも。フレンチトーストにも合うしね」
「やっぱりそうですよね。にしてもこれ、めちゃくちゃ美味しそうです」
さて、曇り模様は払われた。さっそくこの皿に手を付けるべく、再びカトラリーを手にする。左にフォーク、右にナイフだ。それぞれをきつね色に焦がされたトーストに宛がう。ナイフを進めると、まずサクッとした感触が伝わり、その後はトロっと柔らかい。
その断面を見て分かったが、薄めのトーストが二枚重ねられている。間に塗り広げられていたのだろう、黄金色の蜂蜜が流れ出てきた。そして上層で溶けていたバターと混ざり合い、クリーム色に変化する。
オーエンはたまらず、切り分けたフレンチトーストを一口頬張る。噛みしめると、しみ込んだバターと蜂蜜が口の中にじゅわっと溢れ、卵と牛乳でトロトロにふやけたパンが、包むような甘さを舌に与えた。
とても甘い、そしてジューシー。だけど、くどくないし、もたれない。これほどのフレンチトーストは初めて食べた。もはやこれ以上のものはないだろうと思えるほどの一品だ。
「美味すぎる……なんだこれ」
「ふむ、そんなにおいしかったかい? ならいっそメニューに入れようか……」
湯気が上がるコーヒーカップを差し出しながら、ナギはメニューを見つめた。粉糖を振り掛けて、と一人でぶつぶつとレシピ改善をし始める。
「……え?」
あまりにも落ち着いた二人の様子を見て、困惑に取り残されているアンナは目を白黒させていた。
「え? すみません、もう一度確認しますが。スクラップ・アンド・ビルダーズに入ってもらえませんか?」
「いいよ」
「え?」
「ん?」
アンナが、もう一度同じ質問を投げかけてきたので、オーエンはまったく同じ答えを返す。すると、アンナは怪訝そうに、あるいは間抜けとも言い換えられる顔と声で疑問を呈した。とてもシンプルなやりとりのはずだが、そこまで理解しにくいものだろうか。
「えと、ほんとにいいんですか? 頼んでおいてなんですが、それなりに危ないことをする組織ですよ?」
「危ないことって言っても、あのピースとか言う化け物を倒すだけだろ?」
「それは違う」
その答えを与えたのはナギだ。
ナギに回答を任せたアンナは、カトラリーを手にすると、フレンチトーストにナイフを刺し入れた。そのまま一口分切り分けて、頬張る。おいしそうに頬を緩ませた。オーエンは、その微笑ましい光景を尻目に、
「というと?」
と、ナギが否定した真意を確かめる。
「アンナに私たちの役目について大雑把には聞いたよね?」
「まぁ」
世界救済。世界に危機を与える存在であるピースの討伐を役目とする。そのために神によって結成された組織。アンナに聞いたのはそこまでで、まぁ正直なところ眉唾もいいところな話である。
「それに補足しよう。少年が言った化け物。つまりピースが世界に及ぼす影響なんてたかが知れている」
「まぁ確かに、あれはただの魔物に近かったですし」
世界の危機と言われてもピンとこない。脅威ではあるが、そこまで驚異的ではない。
「問題は、神が直接手を加えた存在にある」
ナギは、角砂糖が入った瓶を戸棚から取り出すと、その中から一つだけ真っ白いキューブを取り出した。
「これをピースとする。そして討伐したとしよう」
真っ白いカップに角砂糖を入れる。これで討伐したということだろう。
「でも、ピースはまだ残っている」
瓶の蓋を閉めると、そのまま妙な手つきで蓋を弄ぶ。角砂糖はまだたくさんある。あの白いキューブをピースとするのなら、まだまだ全滅させられそうもない。
「このピースを生み出す存在を、そのままピースメーカーと私たちは呼んでいる。瓶のことだね」
「じゃあそのピースメーカーが問題なんですか?」
「残念、この瓶を壊したところで、まだまだピースメーカーはいるし、なんなら私が補充する」
ナギは戸棚から新たな瓶を取り出す。もちろん全てに角砂糖が入っているわけではないが、この場合は全部角砂糖の入った瓶。ピースメーカーと定義するのだろう。
そして、そのピースメーカーを倒したところで、枯らしたところでナギが補充すると言う。
「さあ、どうする?」
瓶を弄ぶ手を止め、すっと離す。そのまま両手を広げて見せる。
「あなたを倒す。正確にはピースメーカーを生み出してるやつを倒す、ですか?」
「正解! そう。問題はそこなんだ」
びしっと音が鳴りそうなほどに、勢いよくこちらを指さしてくる。どこ? と言いそうになったがこらえる。代わりに眉間に皺を寄せて疑問を呈する。
「最終的な討伐対象が、人間になる。ということです」
二層構造になったフレンチトーストの、上層のみを食べたアンナが、軽く口元を拭きながら答えてくれる。その答えは、オーエンをはっとさせるのには十分なものだった。
「こっちが神によって結成されているのだから、相手も同じ……つまりは人間ということか」
「半分正解。でも、少年は頭の回転が速くて助かるよ」
「もう半分は?」
「相手がこっちと同じ人間だと理解してもらえたと思うけど、こっちと明確に違う点がある。……あぁ、もちろん目的以外でね」
話しながらナギはポットを取り出し、蛇口から水を注ぐ。内部を満たすにつれ変化していく水音から察するに、結構な量が注がれたようだ。それをこぼさないようにカウンターの内側を移動した。たどり着いたのはカウンターの左端に置かれた愛らしい観葉植物。
「相手側の駒は神が直接手を加えていることさ」
ナギはポットを傾け、注ぎ口から水を流す。観葉植物の葉が注がれた水で激しく踊った。
言った内容は、この話を始める際、最初に放ったことと同じだった。
「神っていうのはね、君が言ったように、本来は作るだけ作って放置する……まぁ取り繕わないで言えばそれこそ無責任な傍観者なんだ。けれど、チェスマン側の神は違う」
また新しい専門用語が飛び出し、オーエンは軽く首をひねる。
チェスマン。直訳でチェスの駒を意味する。確か、ピースも駒を意味するはずだ。
「えーと、チェスマンというのは、我々にとっての最終的な討伐対象。我々と同じ、神によって選定された人間のことです。その下にピースメーカーが存在し、さらにそれに使役される、あるいは創造される存在がピースとなっているわけです」
親指、人差し指、中指を立てて、三種の敵を教えてくれたアンナはわかりましたか、と確認してくれた。おかげで大体理解したオーエンは、縦に首を振りながら感謝を述べ、ナギに向き直る。
「戻そうか。とにかくチェスマン側の神は自分の駒に対してめちゃくちゃに甘いんだ。力を分け与えたり、ちゃんと強くなれるように環境を整えてくれたりする。だから相手は必然的に化け物みたいな強さになる。これがまぁ厄介でねぇ、勝つ負けるどころか、まず見つけられない」
「見つけられない?」
「はい。そもそもが私たちと変わらない姿形。行き交う人波に紛れ込まれればこちらから探すことはほぼ不可能です。更に相手はピースメーカーを含めた下位存在を使役できる立場なので、自身が動かずともこちらに損害を出すことが可能なんです」
「しかも、そんな臆病者のくせに、神から力を分け与えられているせいで実力は絶大」
「対してこちらは、地道にピースを狩り続け、チェスマンの手がかりを探しつつ、自分を鍛えることしかできません」
と、二人でほぼ同時にため息を吐く。悩みの種は多いらしい。オーエンでも聞いているだけでかなりハンデを背負ってるんだなと思うほどだ。しかし、
「こっちの神はなんで何もしてくれないんだ? チェスマン側の神が手を貸してるんだから助けてくれたっていいじゃないか」
とオーエンは思ってしまった。その言葉にナギは、その困ったような顔を苦々しく歪ませ、半笑いを浮かべる。
「僕もよくわからないんだけれどね、神様にもルールがあるみたいでさ、本当は駒に手を出しちゃダメなんだ。でも向こうはルールを破ってて、こっちは律儀にルールを守ってるんだよねぇ……」
「まぁ、やりすぎたらイリーガル・ムーブといって、チェスマンがペナルティを受けることになるんですが……それも今のところは起こっていないというのが現状です」
やはりかなりのハンデを背負っているらしい。というか、不利過ぎないだろうか。
耳障りな金属音が店内に鳴り響いた。オーエンは思わずびくりと体を震わせてしまう。
「なんだ?」
音の出所はカウンターの内側、ナギが立っているすぐそばから聞こえた。かなり豪快な調理でも始めたのだろうか。
「あぁ、電話だ……はい、喫茶オルゴール」
ナギが黒い何かを手に取り、耳に当てながら独り言をぶつぶつと言い始めた。手にした黒い物体からは、くるくると無限にカールしたコードが垂れ下がっている。
「なにしてるんですか?」
完全な独り言に若干の恐怖を覚えながら、オーエンは引き攣った声で聞いてみる。
「お静かに。どうやらピースが出たようです」
「ピースが?」
「えぇ、出現と同時に、ナギさんの元へ私たちの神から連絡が来るそうなんです」
「それってルール違反なんじゃないのか?」
駒へ手を出している、そう捉えられる。
「まぁ、このくらいは許されても当然だと思いますよ。逆に言えば、これ以上の支援はできないと言うことなのでしょうし」
支援と言うにはあまりにも薄い糸。相手が神の力を受けていたりすることを考えると、確かにこの程度は当然だと言える。
「ご注文は? え? うさぎですか?」
注文を伺ったナギは、その内容に驚いているらしい。うさぎがどうとか、なにか変なことを言っている。
「あの話し相手って神様なんだよな」
「そうらしいですよ」
「アンナは話したことあるのか?」
「いいえ、あれはナギさんにしかできないらしいので、私は一度もありません」
「へぇ。……つかナチュラルに受け入れてたんだけどさ、ナギさんもスクラップ・アンド・ビルダーズなんだよな?」
あまりにも自然に会話へ溶け込んできていたので忘れていたが、そもそもここはただのカフェで、ナギはその店主なはずだ。
「そうですね、ただ戦闘面に大きく関与することはないです。基本的にここで私たちのサポートをしてくれています」
言い終えると、アンナは静かに最後の一口を頬張り、ゆっくりと咀嚼して飲み込む。そして出されていた水で口を清めると、満足そうに一息吐いた。
「はい。分かりました。すぐに向かわせます」
と、会話も一段落したようで、ナギが謎の黒い物体を元あった場所に戻す。
「私が行きますか?」
ピースが出現したことが分かっていたアンナは、ナギの言葉を待たずに先回りする。カウンターに手を突いて、勢いよく立ち上がった。その猛禽のように鋭い顔は、興奮を抑えきれないような様子を見せている。
「いや、ホーリーが近くにいるらしいから、アンナはお留守番だ」
「はい……」
自分の出番とばかりに思っていたアンナは、露骨に落ち込んだ顔をして席に腰をおろしてしまう。むぅ、と頬を膨らませたその顔からは、やはり若干の幼さが覗いていて、素の顔とのギャップを大きく感じることができた。
「それに君の場合、まだ連戦は厳しい。まずは魔源を鍛えないとね」
「はい」
「だから、代わりに少年に行ってもらおうと思うのだけれど、いいかな?」
「え?」
唐突にこちらに白羽の矢が突き立った。てっきりアンナが行かないのだから、オーエンも留守番だと思っていたが、どうやら違うらしい。
「いいですけど、誰とどこに向かえばいいんですか?」
「ホーリー・オリーブっていう、アンナにも劣らない可愛い女の子だ、期待していいよ。場所はここから北にある、チースの森という大森林さ」
チースの森。確か、禁種の精霊がいると言われている神聖な森林だったはずだ。しかし、
「結構遠いですね、馬を走らせても丸一日は掛かりますよ?」
チースの森はブロンテ公国の北端近くに位置する。対してここは国の中央部。小国だが縦に長い構造の国土を持つこの国では結構な距離があった。
「大丈夫だ、転移魔法で飛ばしてあげよう」
「え、でも準備とか何もして――」
「はい、男の子がつべこべ言わない」
ナギはオーエンの訴えを遮ると、指をぱちんと打ち鳴らした。すると、オーエンの姿はカウンター席から消え、アンナとナギのみが残る。
留守番を言い渡されたアンナは、ひとつの気がかりを抱えていた。
「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫さ、敵も強いみたいだけれど、ホーリーがいる。聞けば、彼だってピースを一撃で倒したんだろう? なら問題ないさ」
「……違います」
アンナは、自分の心配とは少しずれたところを掠めるナギを静かに否定した。
「私が心配しているのは、オーエンさんが、ホーリーちゃんと上手く話し合えるのかについてです」
ホーリー・オリーブ。組織に所属している仲間だが、その性格には少々難がある。特に男性に対しては異常なほどに。
「ふむ、確かにアンナとは違ってちょっと癖のある子だけど、少年には上手くやってもらわないと困るねぇ……将来的に彼女と共に行動することになるのだろうし」
ナギは考えるように唸ると、オーエンが座っていた所から諸々の食器を回収し、流し台の中で皿洗いを始める。
自分ではなく、ホーリーと組む。ナギからそう言われたアンナは、暗い表情を浮かべて、いつの間にか置かれていたコーヒーに口を付けた。
歪んだ表情の理由をコーヒーのせいにするために……。
スクラップ2
チースの森。禁種精霊、ルストラが生息すると言われている自然豊かな森林だ。この寒い冬季の中、ここだけはその寒さを忘れたように青々とした葉をつけている。時折吹き抜けていく冷たい風だけが、正確な季節を教えてくれた。
オーエンは鬱蒼とした緑の中を、手頃な棒を片手に歩いていた。
「マァジありえねぇ」
不満を口にしながら、右手に持った棒を振り下ろし、行く先を塞いでいた小枝と背の高い草を叩き折る。
いきなり森の中に飛ばされてから一時間ほど、オーエンは未だにひとりだった。ナギは現地にアンナほどの可愛い女の子が居ると言っていたが、そんな美少女は見当たらない。見回しても、草、木、枝ばかり。
「俺の期待を返してくれー」
アンナほどの可愛い女の子と聞いて内心ワクワクしていたのに、この仕打ちはないだろう。
そういえば、ピースもまだ見ていない。木っ端な魔物はいくつか見かけたが、それらしい姿はなかった。
道なき道を進んでいると、オーエンは少し開けた場所に出た。広場になっているここは、日光を遮る木々が無くて一段と明るい。この光景だけ見れば、春季か夏季と思ってもおかしくないほどの明るさと瑞々しさだ。
半径にしておよそ三十メートルほどの円を描く広場の中心辺りに、一本の樹木が立っていた。とても立派な立ち振る舞いに、オーエンは自然とため息が出る。
姿は雄大そのものだ。幹は太く、苔むしていて、しかしところどころ傷らしきものも見える。けれど、その傷がまた歴戦の猛者を思わせていて、少しかっこいい。幹の太さからして、周囲の木々より数段老いているのだろう。なのに葉は十分に生えそろっていて、大きな木陰を作り出していた。
オーエンは、その雄大かつ包み込むような名も知らぬ樹木の陰に誘われたのか、広場の中心に向かって足を向ける。
風に揺られて、きらきらと輝く木漏れ日が眩しい。まるで日光を乱反射する水面のようだ。
慣れない環境を一時間歩き続けたオーエンは、その頼りがいがある幹を背に、腰をおろした。
「おや?」
その声が聞こえたのは、丁度オーエンが深呼吸をした時だった。
驚いたオーエンは息を飲み、声のした頭上を勢いよく見上げる。
「なっ」
頭上、幹から伸びた太い枝に、少女がいた。その少女は、アンナのように便宜的に呼称される少女ではなく、文字通りの少女だ。
「君、誰?」
華奢な肢体と、女性として……いや、人間として未発達と言える、水分が多そうな体をしている。筋肉が発達していない、骨格が中性的、顔が幼い。でも少女と分かる雰囲気を醸し出していた。
オーエンは、その敵意を一切感じられない幼げかつ人懐っこい声に、警戒心を落とした。
「ただの旅人だよ。名前はオーエン。お前は?」
「私? さぁなんだろうねぇ」
足をぶらぶらと楽し気に振りながら、曖昧な答えを返す。見れば裸足だ、どこかに脱いであるのだろうか。
セミロングの髪が風にさらわれ、ふわりと揺れる。
少女は全体的に白い。ノースリーブのワンピース、髪色、肌はそれぞれ僅かな差異を感じるも全て白に属する。その中に一点、オーエンの視線をひきつけるものがあった。
瞳だ。
圧倒的な明るさを放つ全身の白とは違い、少女の瞳は暗く、そして紅い。鮮やかな赤というよりも、静脈血のような濁った暗い紅だった。
「そうだねぇ、ネオメニアって名乗っておこうかな。それで、オーエンは何をしてるのかな?」
ここでオーエンは、ネオメニアと名乗る少女の異常性に気が付いた。話し方が妙に大人びているのだ。
声は少女だ。成長期前の幼い声。けれど話し方が違う。妖艶で、溶けた飴みたいにねっとりとへばりつく。歳を三十近くは重ねた、余裕のある大人と変わりない声の出し方だった。
思えば服装もおかしい。裸足にノースリーブのワンピース。春や夏と変わりない環境ゆえに忘れていたが、今は冬季だ。今も広場を駆け抜けていく風は冷たい。とてもそんな無防備な恰好で、にこにこと笑ってはいられない。
「可愛らしい女の子を探してるんだよ」
「ん?」
小首を傾げて自分を指さす。
「お前は……うん、別の意味で可愛いな」
残念ながら女の子と言うには如何せん見た目が幼すぎる。数年後に期待だ。
「あはは、そうだろうね」
とうっ、と言いながら枝からずり落ちてきたネオメニアは、オーエンの目の前へ綺麗に着地した。高さは二、三メートルはあるだろうに、無茶をするなぁとオーエンは思った。
「あっちに居たよ、十分くらい前かな? まだ居るといいね」
オーエンが探しているらしい人物を見かけたのだろうか、その方向を向いてネオメニアは優しく微笑む。そして踵を返し、どこかへ行こうとする。足音が遠ざかっていく。
オーエンはその背中に軽く感謝を述べる。本来ならそれで終わりだ。だが、気がつけば、
「なぁ」
と、声を掛けていた。
「どうしたの?」
「お前、ピースか?」
「……へぇ」
普通の人間なら、オーエンの質問に対して怪訝な顔をするか、何それと逆質問してくるだろう。あとは単純に無視することも考えられる。けれどネオメニアは、そのどれとも違う反応を示した。
ニコニコとした微笑みを消し去り、怪しげに口を歪ませる。
「君、そっち側かぁ。なるほどなるほど」
手に汗が浮かぶ。背中が冷たい、不快感が胃の底から頭の先まで駆け上ってくる。
「どうなんだ?」
「さぁ、なんだろうねぇ。それよりも早く女の子を探しに行った方がいいんじゃない? 言ったでしょ?」
どす黒い静脈血に似た色の瞳を細める。ちらちらと差し込む木漏れ日が、ネオメニアの瞳を怪しく輝かせた。
「まだ居るといいね、ってさ」
「っ! くそっ」
ネオメニアの正体は確定していない。だがピースかそれ以上の……恐らく味方ではないだろう。だから背中を向けて走るのは少しだけ嫌だった。それでも走るしかなかった。
ここでひるんで足を止めていては、見ず知らずの誰かを見殺しにしてしまう。
それを許さない志がオーエンにはあった。
しばらく駆けたオーエンは、息が絶え絶えだった。
しかし急いだのが功を奏したのか、戦闘音が聞こえてくる。戦闘になってしまっているのは良くないことなのだろうが、今はそれで良かった。少なくとも探し人は死んでいないということだからだ。
木々が視界の端を疾走する。時折飛び出た小枝が服や顔を掠め、僅かな痛みを感じさせるが、どうでもいい。その程度のことで足を止めてはいられない。
視線の先、光が見えた。光が近づくにつれ、戦闘音が大きくなる。先ほどの広場のような、開けた明るい場所があるのだろう。そしてそこで戦闘を行っていると察せられた。
光の中へ飛び込むように、広場に出る。広さはそれほどではない。それでも全力で動き回るのには十分な広さだ。
その証拠に、駆けずり回る二人の人影が確認できた。
片方は丸腰の少女。雪雲のような鉛色に染まる髪を荒々しく振り乱しながら、緑の野を獣のように駆けている。
もう片方は紳士風の装いをしている。シルクハットにスーツ。そして、杖代わりに細身の直剣を握りしめながら草を走っていた。
森の中には不自然な装いだが、オーエンはそれよりも更に気になることがあった。
「なんでマスク被ってるんだ?」
紳士は白ウサギのマスクを被っていた。特徴的な長い耳が、シルクハットを突き抜けている。目はガラス玉かルビーのように丸くて赤い。しかも髭まで生えている。割と気合いの入ったマスクだ。
ウサギ紳士は紳士の見た目通り、走りながらも優雅だ。
「たぁっ!」
少女が、疾走時の勢いを全く殺さず、叫びながら飛び蹴りをしてきた。ウサギ紳士はそれを一瞬視界に入れると、まるで懐中時計を確認するかのように、自然に立ち止まった。そうして上品に少女の攻撃を避ける。
それどころか、わずか前方を通り過ぎた少女の背中に、ノールックで直剣を突き込もうとしている。
「あっ!」
オーエンが危ないと思った瞬間、少女は空中で体勢を崩した、いや、上体を大きく左へ捻った。
串刺しまであと少しと言うところで、直剣が右肩のやや外したところを過ぎ去る。
少女は回避した勢いのまま左方向へ向かい、第二撃を放つための助走距離を取った。
「なんて無茶を……」
今の一瞬、両者共、お互いを見ずに行動した。
ウサギ紳士の方はまだわかる。感覚で背中を追うくらいは出来るだろう。だが、少女は完全に死角だった。背後から迫りくる切っ先を、気配と勘だけで避けていた。
一歩間違えば……それこそ右方向へ避けていれば、直剣の狙いは体の中心から左へズレた位置になる。つまりは心臓付近へ突き刺さっていた。心臓でなくとも、そもそもが致命的臓器で構成された胴体。どこに当たっていても戦闘継続は不可能だったろう。
(それを何も見ずに、勘だけで……。偶然か?)
どちらにせよ、こんな冷や冷やする戦闘は見ていられない。オーエンは参戦を急いだ。
幸い、二人とも大きく距離を取り、見合っている状態だ。入り込むなら今しかない。
オーエンは草むらから飛び出し、ウサギ紳士の方へ向かって駆けた。
結構な音を立てて走っているオーエンに対し、ウサギ紳士は一切の動揺を見せない。というよりも完全な無反応だ。
棒の間合いに入っても反応は無し。
(余裕かよ……棒だからってなめてんな?)
僅かな苛立ちを覚えたオーエンは、その涼しい顔をしたウサギのマスクに向かって、持っていた手ごろな棒を振りぬく。
ぶんっと、鈍く空気を裂く音を鳴らしながらも、棒からは大した手ごたえが返ってこない。どうやら完全な空振り。文字通り空を切っただけ。
見ればウサギ紳士は、寸前で立ち位置を半歩後ろへ下げたらしい。驚きもせず、その動きは一貫して丁寧かつ優雅だ。
けれど少女は違った。オーエンの登場に驚いている。
「誰っ?」
「オーエン・ケイターっ! ナギさんが寄越した助っ人だ!」
バックステップで少女の隣に並ぶ。
「ナギさんが?」
「俺もお前らの仲間になったそうだ。よろしく」
「そう……とにかく横入りなんてしないで。鬱陶しい。森の中に戻って、草葉の陰から見守ってなさい」
「死ねってか? 使い方間違ってんだろ、それ」
草の葉の陰……文字だけ見れば案外間違ってないように思える。いや、やっぱり常用外だ。
「とにかく、協力だ」
「協力って、それで? 馬鹿言わないでよ、木刀を握ってるとでも思ってない? ただの棒よ、それ」
ごみを見るような目で、オーエンが持っている手ごろな棒を見つめる。
「なんだと? 俺がこいつとどれだけの苦難を越えてきたと思ってる」
「馬鹿じゃない? どうせ蜘蛛の巣避けとかに使っただけでしょ」
「草葉の陰の使い方間違ってるやつに馬鹿とか言われたくねぇよ」
「うるさいなぁもう。協力したいのか、邪魔したいのかどっち……よ」
言い合っていた途中、少女の返答が途切れた。何事かと思い、オーエンは横に立っている少女の方を見てみる。
森の中にはあまり適していないように思えるプリーツスカートに、サイハイソックス。上は黒いカッターシャツの袖を肘手前までまくり上げている。
そのまま、視線を上げ、その顔を拝んでみた。
「ん?」
どこかで見たような顔だ。
ちょっと思い出そうとしてみるが、妙に引っかかる。なんというか思い出してはいけないと、脳が勝手にストッパーを掛けているような感じだ。それでも、オーエンはお構いなしに脳を回転させ続けた。
確か、アンナと出会う前に、誰かかわいらしい少女に出会った気がする。そこで何か大きな衝撃を受けたはずだ。
何だったか……。
「あ」
思い出した。そして後悔した。
「え、お前……今朝の」
「あなた、確か」
トラウマがこちらを見つめていた。
『気持ち悪い』
あの時に吐き捨てられた言葉がループした。しかもエコーが掛かっている。トラウマのフラッシュバックだ。記憶の奥底に封じられようとしていたトラウマが、波のように押し寄せてきた。
「あぁくそくそ! 思い出すんじゃなかったぁ!」
「な、なに? 何かされたの?」
されたよっ、と叫びそうになるが、まずは脳みそを黙らせないと、ウサギ紳士どころではない。
(落ち着け、落ち着けぇ。クールに行こう。誰だってミスはするし、誰だって過去に嫌な記憶くらいある。俺も同じ、同じなんだ。誰だってそれを乗り越える。俺だって乗り越えられるさ。そう、見ず知らずの少女に気軽に話しかけた俺が間違ってた。助けたあとはさっさとその場を立ち去れば良かっただけ。次からはそうしよう。ミスしたことではなく、何故ミスしたのかが重要だ。ミスしたことは忘れろぉ)
と、トラウマと脳を黙らせるべく、思考を連ねるオーエンに、少女は怪訝な顔をしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だ、問題ない」
「あそ、忘れてたけど私はホーリー・オリーブ。詳しくは後で話すから、後ろに下がってて」
そう言って、ホーリーは頭を抱えるオーエンから離れていく。
「待て、協力しようって言っただろ」
冷静さを取り戻しかけた頭で、かろうじて発することが出来たのはそれだけ。実際のところはなんの考えもなかった。
それを見抜いていたのだろうか、
「あのね、お互いのこともよく知らないのに協力なんて無理だから。見たところ私と同じ近接攻撃系でしょ? 乱戦状態でフレンドリーファイアなんかしたらどうするのよ。あなたの棒はともかくとして、私の攻撃に当たればあなた、砕けるわよ」
と、とても現実的な返答が返ってきた。
「砕ける……」
自分が粉々になるところを想像してみる。……うん、やめておこう。協力なし。
確かに、オーエンはホーリーの戦い方について何も知らないに等しい。そんな状態で協力とは、どうかしていた。
だが、
「勝てるのか?」
あの戦い方を見た限り、ホーリーが死ぬほうが確率としては高い。正直なところ、死にたいのかと言いたくなるような戦い方をしていた。
あまりにオーエンの戦い方からかけ離れていて、どうにも安心できない。こちらとしても、かわいらしい少女に風穴ができるのは勘弁願いたいのだ。
「負けるとでも?」
「勝てるかもしれないけど、あいつにあの戦い方は無謀だろ」
ウサギ紳士は、ホーリーとやり取りをしている間、一歩も動いてない。強者の余裕というやつか、それともその装い通り、紳士的に対応しているだけか。どちらにせよ、戦闘スタイルに差がありすぎる。ホーリーの動きも読めているように見えるし、このまま戦ってもウサギ紳士に攻撃が当たるようには思えない。
「なに? つまり私に下がってろって言いたいの?」
「いや、そうは」
「女だからって舐めてないかしら」
いやそれはない。少なくともホーリーに対して舐めてかかったことなど一度もない。多分これからもできない。
随分と飛躍した考え方に、オーエンは思わず黙ってしまった。
「ふん、とにかく黙って見てなさい。あんなピース、私一人でどうにでもできるんだから」
「そうかい。まま気楽に行けよ」
できるだけ顔を見ないようにして送り出す。
さて、あの獣じみた戦い方でどれだけ戦えるか、見ものだ。
ホーリーはオーエンから数メートルほど離れると、大きく一歩を踏み出した。そのまま前傾し、地面に倒れこむように駆けていく。
「うわ」
あの態勢、短いスカートで走れば当然見える。青白い布地。無論、ショーツのことだ。
なんとなく悪いことをしたような感覚に陥り、とりあえず空へと視線を逃がす。
だが、空気を鼓動させたような振動に、視線をホーリーへと引き戻される。
「なんだっ」
ウサギ紳士の周囲を駆けながら、ホーリーは右手を差し出している。その手先に魔力が収束していた。そして口を大きく開く。
「我欲するは戦の力っ!」
ホーリーの叫びと共に、再び空気が大きく鼓動した。
(これは、口述詠唱っ⁉)
――口述詠唱。魔法の発動において、魔力に対し言葉で語りかける最もスタンダードな技法だ。
言霊を発すると、収束されていた魔力が更に重なっていく。
力が束ねられた先で、青白い光が発生している。
いや、これはただの光じゃない。
「電光かっ!」
魔力が電気に変換されている。変換された電気エネルギーが強力な大電圧により、空気中に放電し、光を放っているのだ。
これほどの大出力を得るのは、戦闘を得意とする積極的魔法使いでもそう多くはない。
魔法を使った近接戦闘を主体とする魔法使い。
「ここからが本気ってわけか」
職業名で言えば『突入術師』。高圧高魔力魔法と呼ばれる、長時間蓄積した魔力を短時間で放出する魔法を使う、近接型の超攻撃的アタッカーだ。
「来られたし来られたし。器は右腕、注ぐは汝っ!」
空気の鼓動は、大強度の魔法を発する際に起こる現象。
それも、上中下の三巻編成となっている魔法大全の中でも、恐らくは中巻相当のもの。
もはや直視することが難しい電光を纏った右腕。あれほどの魔力強度は扱いが相当に難しい。それを涼しげな顔で冷静に、しかも全力疾走しながら取り扱っている。
「満たして放つ。放ちて払うっ!」
詠唱がスパートに突入したホーリーは、方向を急激に変え、ウサギ紳士の方へと駆け寄って行く。
そして、手のひらを押し出すようにし、
「雷、底っ!」
と、掌底を打ち出す要領で、走りながらウサギ紳士の腹部に攻撃を放つ。
あれだけの速度と瞬間的魔力の炸裂は凄まじく。大きな爆音と振動を生み出し、広場全体を閃光と砂煙で覆った。
当然、視界はゼロ。ウサギ紳士を討伐できたかどころか、ホーリーの安否すら分からない始末。
「大丈夫かぁ?」
砂が目に入らないように瞼を薄っすらと開けながら、最後にホーリーを見た辺りを探す。
丁度、広場を駆け抜けていった冷たい風が、砂煙を攫い、視界が晴れていく。
ホーリーは視界のやや右の方に立っていた。
「良かった」
安心した。オーエンはとりあえず何事もないか、ホーリーの体を見てみる。外見に変わりはない。傷もない。強いて言うなら、カッターシャツの右袖が少し焦げているくらいのもの。
ウサギ紳士の姿は無かった。
「やったか?」
「いえ、逃げられたわ。とんでもない逃げ足よあいつ。まさに脱兎のごとくね」
はぁ、とため息を吐いて、右腕の袖を確認し始める。あーあと残念そうに言っていた。
「帰ろ」
「そうだな」
けだるげなホーリーの背中を追う。途中、脱ぎ捨てていたのであろう上着を手にしていた。
「……なんで付いてくるの?」
上着を肩に掛けながら、こちらを睨んできた。
「は? 帰るんだろ?」
「そうだけど」
「なら俺も帰るだろ、一応ホーリーの手伝いって目的で来てるんだし、ここに居ても意味ねぇじゃん」
「そう、なら好きに帰れば?」
お先にどうぞと言わんばかりに、行き先を開けられた。
「えーと? 俺、帰り方が分かんないから連れて行ってほしいんだけど」
「はぁ? なんでそんな状態で来たのよ。まともな武器も持ってないし」
「いや、分かるよ? 言いたいことは分かるさ。俺もこんな状態で来たくなかったよ? けど、無理やり転移させられたんだよ、ナギさんに」
「はあー。分かったわ、その代わり、私の半径三メートル以内に近寄らないで」
「なんで?」
「私、男の人苦手なの」
そう言って先に歩き出してしまった。意外と初心なのだろうか。
とりあえず、言われた通りに三メートルの距離を保って付いていく。
「あ、なんか勘違いされてる気がするから訂正しておくわ。私、男の人がキライなの」
「その心は?」
「女をつくづく舐めてるし、飽きたら捨てるし、きもいから」
「心に突き刺さる長文だな……」
オーエンは、男だの女だのと分けて考えたことは……ないこともないが、少なくとも生物的な壁以外で区別したことはない。けど、ホーリーはそれを強く受けたことがあるのだろう。
とてもデリケートな話題ゆえに、何も言うことが出来なかった。だから、場を和ませようと、適当な話題を振ることにした。
「どうでもいいけどさ」
「どうでもいいことで話しかけないでほしいんだけど……何?」
「お前、あの戦闘スタイルでやるならさ、色々と対策した方がいいぞ」
地面すれすれを、あの勢いと荒っぽさで疾走する戦い方。それを背後から見ていて思ったことがある。もちろん、あれのことだ。
「なにが?」
振り向いた顔は不機嫌気味。どうやら、自分がどれだけ男の視線に対して無防備な戦い方をしていたのか自覚していないらしい。
「アンスコ履いたりとかさ」
「なにそれ」
「アンダースコートって言えば分かるか?」
「?」
「じゃ見せパンだよ」
「なによそれ、分かんないんだけど」
本気で言っているのだろうか。残念ながら、表情を見る限りそうらしい。
「見せてもいいパンツ」
「パンツに見せちゃダメとかあるの?」
「嘘だろ……」
「ほんとになんなの? 分かんないし、さっさと要点だけ話してよ。めんどくさい」
「いや、えーと、お前何歳?」
見たところ思春期に入っていないというわけでもないだろう。アンナよりも女性らしさは強い。男性嫌いもあるのだから、そういう視線に対して敏感になっていないとおかしいんじゃないだろうか。
「十七歳だけど」
その年でその初心さというか、世間知らずというか、自覚の無さは、もはや天然記念物だろう。
「タメかよ……あのな、パンツって人に見せないほうがいいんだぞ。特に女子は」
「なんで?」
「……言われてみればなんでだろうな」
純粋な疑問が湧いたが、それよりも、ホーリーがしでかそうとしていた行動に驚いた。
なんと、プリーツスカートの裾をたくし上げて、自分のパンツをじっくりと見始めたのだ。
「おわっ、おま、お前なにしてんだ! いかれてんのか⁉」
水色の綺麗な布がばっちり見えてしまった。
再び視線を空へと逃がす。なんというか、かわいらしい少女が自分でスカートをたくし上げているのは、背徳感が強い。インモラルだ。自分で言うのもなんだが、年頃の男子には目に毒過ぎる。
「こんなのただの布じゃない」
「そうだよ? そうだけど、そうじゃないんだ」
「全然分からないんだけど。これがなに?」
「羞恥心とかないのかお前は」
「全然恥ずかしくないわよ、別に中身を見られたわけでもないし」
そこはちゃんと恥ずかしがるのか。良かった。いや、全く良くない、首の皮一枚でつながっているだけの羞恥心だ。
「とにかく、それやめろ」
「? はい」
「戻したか?」
「えぇ戻したわよ。なんなのよ、ほんとに」
苛ついてきたのか、棘のある言い草だ。
「そりゃこっちのセリフだ。どこまで言っていいのか分からないから、あとは帰ってからアンナとかナギさんに聞いてくれ」
「自分で言い出したくせに」
それはそうだが、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
第二章 再利用1
一週間後。ホーリーは、カフェのカウンターに居た。
カウンターの、内側に、居た。
「ホーリーちゃん、三番テーブル、フレンチトースト、ダブル」
「ナギさん、フレンチトースト、ダブルです」
時刻は午前十一時半。ホーリーとアンナは、それぞれキッチン、ホールスタッフとしてカフェでバイトをしていた。
ナギに主な調理を任せ、蜂蜜や、粉糖を掛けるのがホーリーの仕事だ。あとは返ってきた皿を洗ったりもしている。
昼時ということもあり、軽食屋も兼ねているALL・Goldの店内は忙しさが極まってきていた。
サンドイッチ、ホットドッグ、おにぎり、二ポンドステーキ……注文が重なっていく。
「二ポンドステーキ? これほんとに頼む人いるんだ」
「昼間は珍しいけど、たまにいるよ」
昼食には少し重すぎるような気もする。軽食ではない、間違いなく一日の全てを掛ける必要がある重量だ。
さて、スクラップ・アンド・ビルダーズのメンバーは基本、ピースが現れない時はこうしてナギと共にカフェを経営している。
当然だ、なにせピースを倒したところで誰かから給料が支払われるわけではない。三人とも生きるためにはお金がいる。そのためにカフェを経営し、それぞれの生活を保っていた。
「しかし、この手の肉塊は火の通りが遅くていけない。じっくりと芯まで温めていくようにしないと、外はぱさぱさ、内は生になってしまう」
「メニューから消しますか?」
「うーん、僕としてはたまにやるくらいだから、そこまですることはないかな。ただ、ホーリーは飽きるだろう? ほとんど塊で出すものだから、手入れのし甲斐がないんじゃないかい?」
「私は、均等に切り分けたりするのがそう上手く無いので……ある意味助かってはいますが。やっぱり飽きますねぇ。こう、たまには変わったお肉を捌いてみたい気もします」
ホーリーは肉の仕込みも担当している。
筋、膜、脂を取り除いて、綺麗な肉にする工程がある。いわゆる筋引き。最近では肉磨きなんて呼ばれ方もする。
筋引きは楽しいが、同じ肉ばかりでは流れがあまり変わらない。マンネリ化してしまう。
たまには牛じゃなくて、こう、変わった肉を触ってみたい感じがしていた。
「だよねぇ、僕もたまには変わったお肉を焼いてみたいよ」
いつもと変わらない愚痴を垂れ流しているうちに、ピークは過ぎていく。気が付けば満席だった客席はほとんど空っぽになっていた。
「今のうちに休憩を取っておいでよ、いつもの子に差し入れへ行く時間だしね」
時計を見てみると、時刻は午後三時前に差し掛かっていた。確かに差し入れに行く時間である。
「ほんとだ、ありがとうございますナギさん。ではお先に休憩入ります」
ナギの計らいに甘え、ホーリーはエプロンを脱ぐと、店では使えない肉の破片を皿に載せて持ち、店を出ていった。
「またですか? ホーリーちゃんも物好きですねぇ」
テーブルの掃除を終え、キッチンに戻ってきたアンナは、店の外を歩くホーリーを見ながらナギに話しかけた。
「まぁ、彼女はああいうのが見てられないんだろう」
「ですかねぇ……」
「君は違うのかい?」
鉄製のソテーパンを洗っていたナギが唐突に聞いてきた。
「え?」
その質問の意味がよくわからなかったアンナは、目をまん丸にして聞き返す。
「君はシスターだろう? ホーリーと似たようなことをしたりしないのかい?」
「私は……どうでしょう。手の届く範囲でしかどうにもできないですし、かと言って、助けを必要としている人を探して回るのも違うかと思っているんです」
結局のところ、受け身なのだろう。言われなければ動くことができない。指示待ち人間。それが間違いだとは思っていない。けれど、正しいとも言い難い。施しとはなんとも歯がゆい。
アンナは自身の考えを巡らせながら、ごしごしと強めに自分の手を洗った。
「それに」
「?」
「ホーリーちゃんは、私とはまた違う施しではありませんか」
「……ま、そうだね」
オーエンは、カフェの仕事から外されていた。
「重たい」
とてつもない量の袋達は、それぞれ野菜、小麦粉、卵などなど。カフェで使う食材達である。仕入れと言うよりも、これは買い出しだ。
ウサギ紳士に逃げられた翌日、アンナやホーリーと同じように、カフェで働くことになったオーエンだったのだが、
「邪魔」
「申し訳ないですが、後ろ通りますね」
「うーん、邪魔だねぇ」
そもそもALL・Goldはそこまで広い店では無い。三人だけで十二分に運営できる規模の中、オーエンは過剰戦力だった。
だとしても、もう少し優しさのある言い方をして欲しい。ナギにまで言われたときは、それなりに凹んだ。
結果、店内は大丈夫だから、外のことをお願いすると言われた。
仕事は主にふたつ。買い出しと、店周辺の掃除。要するに雑用だ。
寒空の下、ただ一人で店を回って、淡々と買い物を済ませ、帰れば店の周りを掃除する日々。それなりにつらいものがある。主に精神的に。無力感が半端じゃない。
だが、そんなオーエンにも唯一の癒しがある。
カフェへと戻る道を外れ、表通りから離れていく。
そこはお世辞にも治安がいい場所とは言えないところだった。
昼間なのに通りは薄暗いし、空気もおかしい。変なにおいが立ち込めている。
時折怒号が聞こえ、女性の泣き声が聞こえてきたりと、じめじめとした嫌な場所だ。
「ねぇ、君、暇してない?」
「あー、また今度な」
十メートルおきで声を掛けてくる女性たちを適当にあしらい、通りを進み、時には曲がる。
そうしてたどり着いたのは、ちょっとした袋小路だった。
袋小路の奥まで進み、壁に添えられている箱の山に目を向け、しゃがみ込む。箱が重なってできた隙間を覗いた。
「おー、今日も生き残ってんなぁ」
そこには五匹ほどの子猫が居た。寒いのか、それともオーエンを警戒しているのか、身を寄せ合って震えている。かと思えば、そのうちの一匹が、のそのそとおぼつかない足で外へと出てきた。
ごろごろと喉を鳴らして、伸ばした手に頭をこつんと当ててくる。
「おっ」
ふわふわとした毛が手の甲をくすぐってきて、ちょっと気持ちいい。それに、自分の意志ではない力で押されたりするのも無性にかわいらしい。生物的な感触と言うと、なんだか温もりを感じにくくなるが、そうとしか言えない感触だ。
切っ掛けは二日前だ。
大人の黒猫が肉を咥えてこの袋小路に入っていったのを見かけ、来てみればこの五匹が居たのだ。
オーエンが近づいても、黒猫は威嚇するだけで逃げようとせず、なるほど母猫かと思い、刺激しないようにその場を後にした。
翌日来てみると黒猫はおらず、子猫のみの状態だったので、いけないとは思いつつも少しだけ触ってしまった。それが間違いだった。
「くそぉ、俺が根無し草じゃなかったら、黒猫含めて全員攫ってたのによぉ。なんで定住してないんだよぉ」
子猫の温もりは反則だった。触れば触るほどに離れたくなくなる。
そこへ黒猫が肉を咥えてやってきた。
オーエンの横までやってくると、邪魔だと言わんばかりに睨みつけてくる。
「あ、悪い。どくわ」
大人しく立ち上がると、黒猫が安心できるよう、かなり大げさに距離を取った。
しかし、あの黒猫はどこから肉を仕入れてくるのだろうか。どこかの肉屋からかっぱらってきたにしては細切れ過ぎる。多分、どこかのもの好きが要らない肉を分け与えてくれているのだろう。
母猫が帰ってきたので、これ以上の接触は不可能だろう。
「そろぼち帰るか」
そう言って、袋小路から出ていこうと、地面から足の裏を引きはがす。踏み出した足は、一歩で止まった。
気配がした。良くない気配だ。
「ピースか」
まるで鉄球が転がって来ているかのような、重たい気配。それがゆっくりとオーエンの方へ向かってきていた。