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長嶋、王、松井、野茂、イチロー、大谷 の選手としての歴史的評価について。及び戦前の名選手、宮武三郎、小川正太郎について

作者: 恵美乃海

長嶋茂雄、王貞治、松井秀喜、野茂英雄、イチロー、大谷翔平の選手としての歴史的評価について記した文章です。

また、戦前の名選手、慶應の宮武三郎、早稲田の小川正太郎についても記述しております。

 以下は、2018年の2月にフェイスブックに書いた文章です。

 2012年に出版された野村克也氏の「オレとON」という著作を読んだ感想として書いた文章です。

 大谷翔平選手については、

「投打ともに一流という成績をのこすということを、メジャーリーグでもやるというのは流石に無理ではないか」

 と書いていますね。

 外れました。


(以下 2018年2月に記述)

 2018-28 ジャイアンツのV9は、川上監督の人間教育の賜物と語り、ONは、日本のプロ野球の歴史における不世出のヒーローであると論じています。ON 以降、ON と並ぶだけのヒーローは生まれていないとしています。


 この本、出版されたのは、2012年10月です。

 この翌年、大谷翔平が、プロ野球の世界にやってきます。


大谷翔平は、現時点で、投手としても打者としても歴史的にみても超一流と言えるだけの成績を残している訳ではない、と思いますが、同時代の中で両方とも一流と言えるだけの成績を残しているとなれば、これは、ONも出来なかったことをやっている、ということになります。


メジャーリーグを含めても、ベーブ・ルース以来と言われていますが、ベーブ・ルースは、まず投手として準一流といえる程度の成績を残し、投手として打席に立っていて、その強打が目立ち、やがて打者に転向し超一流の成績を残した、という過程でした。

 はっきりとエース兼主軸打者と意識して臨んだシーズンがあったわけではない、と思います。


 もし、大谷翔平が、メジャーリーグでも投打ともに一流の成績を残したら、近代メジャーリーグの歴史において、誰もやったことがないことをやった選手ということになり、ある意味、ON を超えるヒーロー誕生と言ってよいのでは、と思います。(メジャーリーグでそれをやるのは、さすがに無理では無いか、と思っているのですが、どうなるでしょう)。

 

ただ、近年の選手については、野茂とイチローは、メジャーリーグで一流の成績を残す、というONにも出来なかったことをやったわけですから、歴史的にも評価されるべき選手と思います。


 松井秀喜については、日本のプロ野球で続けていれば、ON に匹敵する記録を残したであろうと思いますが、メジャーリーグでは、一流と言えるほどの成績は残せなかったと思います。総じていえば。五番か六番打者がふさわしい程度の成績しか残せていないと思います。


 その松井が、長嶋と同時に国民栄誉賞を受賞した、というのは、私は不満でした。松井は素晴らしい人柄と思いますが、野球人生のトータルで残した記録も、ヒーローとしての輝きも、長嶋と同列に語れるレベルではないのでは、と思っております。


(以下は上記の文章を受けて2021年2月に記述。大谷翔平選手が、9勝2敗、46本塁打。1回目の満票MVPを受賞した年、そのシーズンが始まる前に書いた文章ですね。)


 上記は、王、長嶋、大谷翔平、野茂、イチロー、松井秀喜について、その残した実績を、歴史的に観てどの程度に評価するかということについて記述しています。


 尚、投打二刀流については、日本にまだプロ野球が存在せず、東京六大学が野球の最高峰だった時代に、慶應義塾の宮武三郎が、投手として通算38勝6敗。長嶋が新記録を更新するまでの記録だった通算本塁打7本の記録を残しています。

 

あと、ジャイアンツ創成期のエースで戦死した沢村栄治のライバルと言われ、やはり戦死したタイガースの景浦将が、戦前のプロ野球で、投手部門、打者部門、両方のタイトルホルダーになっています。


 松井秀喜選手については、ワールドシリーズでのMVPが語られますが、これはそのシリーズ限定の短期間の活躍によるもので、トータルでは二流以下の実績しか残せなかった選手であっても獲得可能なタイトルなので、一流選手の主たる指標にはなりません。


(以下は今回(2024年2月14日加筆))


宮武三郎が大学時代に残した通算38勝、7本塁打は、いずれも当時の東京六大学における最高記録でした。


現時点では法政の山中正竹の48勝(13敗)

(江川卓は通算47勝12敗)、

慶應の高橋由伸の23本塁打が最高記録です。


宮武三郎が当時残した記録は、現在に置き換えると

50勝8敗、25本塁打くらいに相当するのではないでしょうか。この両方をひとりの選手がやってしまったということになります。


また宮武三郎が活躍した時代、日本にプロ野球(職業野球)は存在せず、東京六大学は、当時の日本の野球における最高峰のリーグであったということも銘記すべきことと思います。


宮武三郎と僚友の強打者山下実のコンビは、慶應義塾大学の無敵時代を現出し、今も東京六大学のリーグ記録として残る慶應の20連勝はこの時代に成し遂げられたものです。


そして、宮武三郎、山下実が上級生となったとき、

中等野球で顕著な活躍をした和歌山中学(現桐蔭高校)の長身のサウスポー、麒麟児とうたわれた小川正太郎投手が早稲田に入学。

小川正太郎入学後の最初のシーズン、早稲田と慶應は全勝同士で対決します。


この早慶戦は全国の野球ファンを熱狂の渦に巻き込みました。

投の小川正太郎

打の宮武三郎

の対決は、日本の野球の歴史において、個人のヒーロー対決が大きな注目を浴びた初めての出来事とも言われています。


なお、小川正太郎は、入学したその年度に通算13勝2敗の成績を残しますが、故障を発生し、その投手生命はそこで終わります。


宮武三郎はのちに、球団結成期の阪急ブレーブスに、山下実とともに入団しますが(宮武が背番号1、山下が背番号2)、

その時点で30歳に近い年齢となっており、プロ野球(職業野球)では顕著な成績を残すことはできませんでした。


が、小川正太郎、宮武三郎、山下実はいずれも野球殿堂入りしております。


この文章、特に確認することもなく、著者の記憶だけで書きましたので、もし記録等で誤りがあればお許しください。



戦前の名選手で、上記以外でもっと一般的に知られてほしいなと、最も思うのは、明石中学の楠本保選手です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 松井秀喜はコロコロコミックの看板作品になったり、ゴーゴーカレーの生みの親だったり、全員四番打者のお祭り打線で清原・落合・広沢と四番争いしたり、とにかく見ていて楽しい選手でしたね。愛された選手…
[一言] 松井秀喜は歴史に残る成績を残せませんでしたが、 本拠地デビューのグラスラやワールドシリーズでのMVPを考えると、 スター性はもっていると思っております。
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