第1話 不可解な出来事
何の変哲もない日本の何処にでもありそうな住宅の二階で、のんびりと単語帳をめくっている少女がいる。
大多数の日本人と同じく、限りなく黒に近い焦げ茶色の髪と虹彩の持ち主。卵型の小顔に大きな目、小さな鼻と口のせいでやや幼く見えるが、可愛らしく整った外見である。
でも派手なカースト上位の女子が目立つおかげで、特別にモテるのではなく、秘かに「いいな」と思われる程度。よって、落ち着いた学生生活が送れて、毎日が平和だ。
目立つことは好まないが、特別に引っ込み思案でもない、平凡を絵に描いたような高校一年生。本人の評価は、だが。
名は桜剣 明香。
名前の読みを訊かれることが多すぎて時にはウンザリするものの、それ以外には交友、学術、家庭、健康面などの問題は無い。
この先も順調に大学へ進学し、社会人になるというテンプレのような進路を辿るだろうと考えている日々。
「えっ、地震!?」
部屋で寛いでいる時に部屋が大きく揺れ始めた。それも縦揺れと横揺れが同時に起きているようで、部屋が揺れると言うよりは回っていようだ。例えるなら、遊園地にある空飛ぶ絨毯のような感じ。
「うっ、気持ち悪い……」
絶叫系は大好きだが、一箇所でぐるぐる回るようなアトラクションが苦手であり、メリーゴーランドですら気持ち悪くなる彼女にとって、今の状況は最悪だ。
何とか机の下に潜り込み、口許を押さえる。
(確か、お母さんが学生の頃に起きた大震災での揺れが、空飛ぶ絨毯みたいだった、って言ってたな……)
『早朝で、大きな音で目が醒めた瞬間にあの揺れだもの、酷い悪夢を見ているのかと思ったのよ』
しみじみと語る母の顔は、それから何十年と経過している筈なのに恐ろしい記憶が褪せていないのだと見てとれた。
(そう言えば、揺れる前に大きな音はしなかったな。強化書とかも飛んで来ないし、怪我する心配はなさそう。それに停電もしていない)
母に聞いていた過去の状況よりはマシだと考え、落ち着いて行動しようと心に決める。
「あれ? 収まった?」
考えている間に揺れが止まっている。他のことに気を取られていたおかげで酔いもせず、体調が悪化していないのも幸いだ。
「そうだ、みんなは!?」
兄は不在だが、両親は階下のリビングで寛いでいた。そこでの両親の定位置を思い出し、一気に血の気が引く。
いつも二人が並んで座っているソファーの真後ろにある飾り棚の扉は彫刻が施されたガラス製、その中にはティーカップとソーサーのセットやグラスが何組も入っている。
あれ程の揺れがあったのだ、無傷だとは思えない。
必死に階段をかけ降り、リビングのドアノブに手をかけようとした瞬間。
「明香、どうしたの? そんなに焦って」
「物凄い足音だったぞ。部屋に黒い悪魔でも出たのか?」
ドアが勝手に開き、その向こうに心配そうに明香を見る両親の姿がある。
「どう、して……」
あんなに激しく揺れたのだから、心配されるのは当然だとは思う。だが二人が気にかけているのは、明らかにそのことではない。混乱しながらも、父の懸念が現実にならないように明香は願った。
「じ、しん、が」
「自信? この間の模試の結果の?」
帰宅して何時間も経過し、夕食も入浴も済ませた後で、こんなに焦って降りて来た娘を見て、即座に模試の結果だと考える母親は少しばかりズレていると言える。
だが今に始まったことではないので、明香はやや呆れつつ肩の力を抜く。
「たとえ結果が悪くても、まだ高一の五月。今から頑張れば巻き返せるって」
「そうよね、やっと受験が終わって高校生活にも慣れてきた頃なんだから、のんびりして良いのよ」
両親揃って緊張感のかけらもない発言に力が抜けそうになりながら、二人の背後を確認する。
(棚は無傷、それどころか中のカップやグラスも動いていない)
背の高いフルートグラスでさえ定位置に収まって、全く普段通りだ。おまけにソファーの前のローテーブルには紅茶が注がれたティーカップセットが二組、湯気を立てて置かれてある。傍にあるティーポットもおかしな所はない。
少なくとも、この部屋であんなに大きな揺れはなかったのだろう。
(一階より二階の方が揺れは激しいって言うけど、少しでも揺れを感じたなら、この二人が黙っている訳ない。特にお母さんは、家中の点検をするだろうし)
十代の頃に経験した大震災のおかげか、防災グッズの点検を定期的にしており、その上で家具や壁などのチェックも怠らない。たとえ些細な揺れであっても、少しでも感知したなら、呑気に娘の成績について話していない筈だ。
(これで私だけ揺れを感じたって言ったら、絶対にめんどくさいことになる、よね)
体調不良を疑われ、精密検査を受けさせられてもおかしくない。
小さい頃から、軽く頭をぶつけただけで脳外科に担ぎ込まれ、食欲がないと言えば胃腸科、足が痛いと言えば整形外科、少し塞ぎ込んでいれば心療内科に……と、何度病院にお世話になったか。
本人が大丈夫だと言っても、気付いた時には手遅れになっていることもあるから、と言われてしまう。父方の叔母が若くして亡くなっているので、強く反発も出来なかったのは仕方ない。
(とりあえず、チャットとニュースをチェックしたら地震があったかどうか分かるよね)
触らぬ神に祟りなし。娘の心配をしながらも母の頭を撫でている父や、その父にもたれ掛かりながらも娘の様子を見ている母を適当に躱して部屋に戻った。